第8話囚われた男
直ぐに日は落ち、森は闇に包まれた。
もっと早く辿り着けばとイヴは歯噛みしたが、森を歩いて数分でその苛立ちは消え失せていた――これだけ豪勢に葉が繁っていては、例え昼間に来ていたところで見通しは利かなかっただろうから。
夜の森に侵入る、という格言がある。
危険に自ら飛び込んでいく事の例えであり、良い意味にも悪い意味にも使われる言葉だ。………勇気があるという意味と、緩やかな自殺という意味で。
ヒトを喰らう獣の多くは夜動くし、魔物もまた夜の住人だ。
彼らと渡り合うのに、夜の闇に対してヒトの眼は頼りなさ過ぎるのだ。
戦いの基本は情報だ。自らの足元さえ見られずに、どうやって戦うというのか――そんなことは、どんな歴戦の戦士だって不可能だ。『夜の闇を見通す』というだけで神話の英雄になれるくらいだ。
灯りを点すのも宜しくないだろう。闇に潜もうとする連中に、余計な警戒をさせてしまう。
ならば、どうするか――決まっている。
英雄ではないのなら、その対極になればいいだけだ。
「………気は進まないけれど」
イヴはひとつ、長いため息を吐いた。左目には彼女の後輩が憧れる滅んだ文明のような憂鬱が浮かび、ため息と共に消えていく。
あらゆる感情が、その湖畔から抜け落ちていく。普段天秤にかけているあらゆるものが皿からふるい落とされ、たった2つの重石が残る。
『怒り』………そして、『必要性』だ。
気は進まない、全然進まない。けれども――『必要』ならば、そうするだけだ。
イヴは顔の右半分を覆う漆黒の眼帯に指を掛け、一息に取り払った。
そこに在ったのは、漆黒の闇だ。
眼球そのものがそうなのか、それともその周りがそうなっているのかは解らないが、とにかく。
解き放った右目には、漆黒の炎が燃えていた。
夜の闇よりなお深く、生き物のように蠢く黒炎。その輝きの前では、たかが夜程度、何の秘密も持つことはできない。
これが、【悪魔】の視界。
夜の闇の中に、闇でないものが浮かび上がる。石や樹、それらを原料とした人工物までもが淡く光り、そして、その奥に強い輝きが映る。
色とりどりのその輝きは、魂の輝き、生命力の炎だ。どれだけ深い闇の奥底であっても、【悪魔】は彼等の獲物を見逃さないということだ――イヴ自身が、彼女の獲物を見逃さないように。
「………そこか」
イヴの右目がぎょろりと動き、森の奥、淡い光に包まれた建物の中で固まる、数個の赤い光の集団。
イヴは唇を歪めると、光の方へと走り出す。その左目は、黒々とした歓喜の炎に燃えていた。
森での異教徒の秘密集会といえば、組み上げた薪とキャンプファイヤー、そして周囲で踊る半裸の男女というのが一般的な想像図だろうが、もちろんそれが貧相な
或いは、情報戦略か。
異教徒は野蛮で、愚かで、前時代的異物である。そんな印象を与えることで、そちらへと民衆が走るのを防ごうというのだろう。
実際は、そんなことはない。
宗教家というのは貴族くらい見栄を張る生き物だ。集会場がただの森の広場だとは考えられない。それなりの建物があって然るべきだとイヴは考えていたし、だからこそ、彼女の亡霊がそこを根城にするであろうということは安易に想像できた。
「………倉庫、か」
平べったい、長方形のカステラのような建物。屋根はなく、四角いただの箱が置いてあるだけだ。
まるで棺桶だ。イヴは獰猛に笑う。あとは、名前を彫るだけだ。
「このまま焼いてやりたいけれど、仕方がないわね」
目的の1つには、彼等の武器も含まれる。建物ごとではなく、一人一人手ずから焼いていく必要がある。
一人、一人。
ゆっくりじっくりと、時間をかけて、丁寧に、丁寧に、足の先から………。
「………ふふ、必要なのよね、なら仕方がないわね………」
イヴは、自分の唇が歪んでいることを自覚していた。
嗜虐趣味は解っている。奴等への復讐に、スポンジケーキだけでは味気ない。生クリームをたっぷりと搾り、苺を飾り、パウダーシュガーを振り掛けて、甘く甘く仕上げなければ。
ただ殺すだけの機械ではない。
奴等が、そうではないように。
「………」
イヴはこっそり倉庫の壁に近付いて、なかの様子を窺う。右目は弱い生命力の壁を越えて、室内の強い輝きを見抜いた。
そして、ふと違和感に顔をしかめる。
赤い輝きが6つ、金色の輝き1つを囲むように立っている。
仲間に対してするような包囲ではない。敵に対しての囲み方だ――無力化した敵に対しての。
彼等は誰かを捕虜にしたらしい。だが、いったい誰を。
………嫌な予感が、脳裏を過る。
今、この森にいる登場人物は多くない。イヴと、彼女の狙う亡霊たち、そして――あぁ、まさか。
深呼吸して、イヴは手近な窓から中を覗き込んだ。どうか勘違いでありますようにと祈りながら。
そしてもちろん。
異教の天使たるイヴの祈りなど、天上の神は聞き届けはしない。
果たして、そこで男たちに囲まれていたのは――或いはイヴよりも、神とやらに縁遠いであろう人物だった。
ヴェルネ・カーペンター。
悪魔に仕える僕が、にこやかに微笑みながら縛り上げられていた。
「………ミスター・カーペンター」
「ヴェルネで結構ですよ、黒き方々」
「ここへは近付くなと、言っておかなかったかな、ミスター・カーペンター?」
男たちの服装は、黒一色に統一されている。
ブーツにズボン、革のジャンパー。釣りの時に使うようなポケットばかりのベストまでも真っ黒だ。
極めつけは、その顔を覆う仮面。無個性な、おうとつの無い、眼と鼻の穴が空いているだけのシンプルな仮面。
「何でしたかね………かつての帝国で処刑人が、そうした仮面を着けていたと思いますが?」
「なぜ、それを」
「死に逝く者の最後の訴えを聴くのが、我が神の僕としての私の務めですからね」
男は仮面の奥で唸った。処刑の前に懺悔を聴く相手が悪魔崇拝者とは、たとえ罪人であっても憐れな顛末だ。
とはいえ、今はそれが問題ではない。
「我々は、
「を名乗る、軍人というわけですね。処刑人としては、衣服が違いますから」
「役割は変わらない。我が祖国を売り払った愚かな上層部を処刑するという、な」
男の言葉に、ヴェルネは首を振る。
「処刑人としては、貴殿方は偽者としてさえも役者不足ですよ。似合いなのは、我が神の生け贄です」
男は肩をすくめる。
この不気味な悪魔崇拝者を殺すことは目的の筋からは外れるが、問題があるわけでもないのだ。
雄鶏は盛んに鳴く――絞め殺されるとも知らずに。
「あぁ、全く、愚かなことです。貴殿方のごとき紛い物、本物の前では霞むというもの」
男は懐に手を入れる。そこから取り出されるものが、ヴェルネの命を刈り取ろうとし。
ヴェルネがいっそう笑みを濃くし。
「そうでしょう? 我が神の死の天使よ」
室内を、漆黒の炎が呑み込んだ。
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