第5話神の使徒

 その男にとって、人生は過酷であった。


 かつて神がその身を挺して創り出した世界には、最早その名残は薄く。

 奇蹟が、神秘が影に隠れるにつれ無知蒙昧むちもうまいなる民衆が列をなして。

 人々の心から、信仰が消えていった。


 信仰を見失った人々にとっての過ごしやすい世界は、詰まるところだ。精神を腐らせ、緩やかに滅びへと向かわせる下り坂である。


 転がる馬車は脚を止めず、歯止めが利かなくなってしまう。

 その前に、誰かが御者席に座らなくてはならない。破滅への落下を食い止める、誰か。


 救世主。

 偉大なる神の遣わす何者か。


 その到来までに、世界を少しでも良くする為に。男は過酷な人生を生きている。

 諦めはしない、絶望もない。


 人生は過酷な船旅だ、神の試練に満ち溢れている。だが、だからこそ乗り越えられる。


 神は、乗り越えられる試練しか与えない。

 どうしようもない絶望の前には必ず、救いの手を差し伸べてくださるものなのだ。

 そう――









 軽く食事でも、とその店に入った瞬間に、イヴは自らの選択を呪った。

 大陸に名高いキャロティシアン王国の、優雅で名高い首都ラディッシュだ。目抜通りメインストリートを少し歩けば、食事処は星の数程ある。イヴの財布を考慮すれば、極端な服装指定ドレスコードが無い限りは、そのなかに入れない店など無い。


 選択肢は無限にあった。

 だから、悪いのはその店を選んでしまったイヴの観察眼の無さか、或いは、彼女の運だ。


 もちろん、イヴにしてみれば言い分はある。

 なるべく人目に付かず、窓ガラスや鏡、磨き上げられた大理石の床など、自分の姿を映すもの店を選びたかった。

 治安が悪いと尚良い――イヴの狙う獲物を思えば、今回のように後ろ暗い取引に興じている者は数多く居るだろう。そいつらのねぐらを探すなら、似た者同士の集まる場末の酒場バーが丁度良い。


 結論として、イヴは通りから外れた裏路地の、古びた酒場バーに入り。

 結果として、面倒に巻き込まれた。











「てめえ、バカにしてんのか、あぁ?!」


 ウェイターより先に怒号に出迎えられて、イヴは眉を寄せる。


 予想通り、賑わってはいないが閑古鳥でもない客数に、油やすすで汚れたシャツやオーバーオール姿の中年男性という客層はともかく、椅子やテーブルの年季の入り具合もともかく、どうやら雰囲気は最悪だった。


 大衆酒場としては広くも狭くもない店内に集った10人程度の男たちは、未だ日も高いというのに既に赤ら顔だ。

 手元のジョッキに注がれたエールの為か、或いは店の中央で催されているへの興奮か、何にせよ入店したイヴに気付かない程度には注意力を無くしているらしい。騒々しく喚きながら、ゲラゲラと下品に笑っている。


 彼らの注目の先には、二人の男性。


 一人は、他の酔っ払いと同じく作業着の男。髭面で、筋肉で膨れ上がった二の腕は単純シンプルな世界観で生きてきたであろう事を思わせる。少なくとも思慮深さを感じられる外見ではなく、上気した顔には青筋が浮かび上がっていた。

 彼が片手で襟首を捻り上げているのは、髭男とは打って変わった優男だ。

 細身で、動きづらそうな丈の長い衣服に、丸い眼鏡。ぼさぼさの黒い髪は長くも短くもないが、くせ毛らしくやたらとしている。

 ………野暮ったい優男、と評価を改める。どう見ても、この酒場を主戦場ホームグラウンドとしているようには見えない。


「もういっぺん言ってみろやご託インテリ野郎。てめぇ、つまり何が言いたいんだ!?」


 一方、明らかにホームグラウンドとしているであろう髭男は、怒り心頭といった様子で優男を吊り上げる。


「いいぞ、ジョン! やっちまえよ!!」

「インテリ負けんなよ!? あんたに1ピリカ賭けてんだ!! バリツだ!!」

「賭けたのかよお前!? ギャハハハ、馬鹿じゃねえ!!」


 なんて意味の無い会話だ。

 イヴはため息を吐きながら手近な椅子に腰を掛ける。これならまだ、注文オーダーを取ってもらった方が有意義だろう。


「………ウェイター」

「いけいけジョン! そいつぶちのめしたらツケはチャラにしてやるよ!!」


 ………店員もか。

 イヴはため息を吐きながら立ち上がる。もちろん、誰も注目しない。


 人間は、誰もが賭け事に弱い―― でさえも。

 注文を頼むのは諦めた方が良いようだ、ローストビーフとバルサミコソースのサンドウィッチも。


「どうか、聞いてください………」


 インテリは健気にそう呟いた。蚊の鳴くような声だったが、声を出せるだけ根性があると言えるだろう。

 言葉で相手を説得する文化を持たないであろう酔っ払いたちは、大いに笑いながらジョンと呼ばれた髭男を囃し立てるばかりだ。

 誠に遺憾ながら、彼らにとっては言葉なんて、他者を害する武器か或いは見世物でしかないのだ。


 蛮族が信仰しているのは暴力パワーだ。言葉ワードではない。

 ならば、とイヴはブーツで床板を踏み鳴らす。


「………失礼エクスキューゼ?」

「ん、あ? 誰だ別嬪べっぴんさん………」

「失礼と言ったわよ?」


 イヴは囃し立てる男の一人に近付くと、その肩を掴んで


「っうおおおおおおっ!?」


 それだけ、ただそれだけで、けして小さくない男が吹き飛んだ。


 この両腕は、【悪魔】の腕。


 極めて弧の短い放物線を描いて、男が宙を舞う。古いテーブルを飛び越え、男たちの垣根を飛び越え、主演の二人を飛び越えて。

 壁に背中から着地した男が呻きながら床に落ちる。その大きな音で、店内の注目はそちらへと移った。

 その注目は、直ぐにイヴへと移る。


 まさか、こんな女が? 向けられる視線の裡に疑問の色を感じ取り、イヴは肩をすくめながら挑発的な笑みを浮かべた。

 一瞬の静寂、そして、怒号。

 殺到する男たちを迎え撃ちながら、イヴは短く呟いた。


「………失礼?」











「あ、ありがとうございます………」


 俯きながらボソボソと謝罪する優男に、イヴは肩をすくめる。その、丈の長い白色の衣服を眺め、皮肉げに唇を歪めた。


「その白衣………医者先生でしょう? この辺りは似合わないわね」

「いえ、その………私は、医者ではありません。癒すというのは、同じでしょうが………」

「へぇ?」


 イヴは興味無さそうに頷きながら、カップを口に運ぶ。湯気を立てるカフェモカをひと口口に含み、顔をしかめながら角砂糖を3個放り込んだ。

 手触りの良い陶器のスプーンでかき混ぜながら、イヴは尋ねた。


「なら、何かしら。無免許医者イモータルドクなら、もう少し服装を考えた方が良いわよ」


 因みに、店は変えた。

 裏通りでまた絡まれるのは嫌だし、大通りの脇に見つけた小洒落た喫茶店のテラス席に落ち着いたのだ。

 あの年季の入った店は、恐らく建て替えが必要になるだろう。修理で済む程度の被害で、イヴの苛立ちは収まらなかったのだ。


「い、いえ。ですから、免許の有無に限らず、私は医者では無いのです」

「なら、何故白衣を? 実用的なコートとは思えないけれど?」

「清潔感を表そうと思いまして………」


 優男はアイスコーヒーのストローをくわえた。無糖無乳ブラックなのは男らしいが、飲み方は少々女々しい。

 マイナス二点、とイヴは内心で呟いた。不合格ラインだ、補習もするつもりはない。


 何よりも、回りくどい言い方が不愉快だ。これでは、あの髭男を苛立たせるのも無理はない。

 【力】を得たばかりのイヴならば、苛立ち、悪趣味なキャンプファイアを開催する事になっていただろう。幸い、訓練の末イヴは歩く放火魔にはならずに済んでいる。だから優男の口調にも、腹を立てる程度であった。


 ………


「私がのは、。私は………

「………チッ」


 イヴは舌打ちし、サンドウィッチにかじりついた。刻んだ玉葱を交ぜ込んだドレッシングが飛び、濃い緑色のテーブルクロスに染みを残す。

 じっくりと、しかし荒々しくレタスとローストビーフを噛み砕きながら、イヴは内心の炎の鎮火に努めた。

 宗教家は嫌いだ。奴等は【赦す者】、イヴの対極に位置する存在である――恐らくは、敵よりもその立ち位置は遠い。


 復讐者には、成る程確かに諦念する者も在ろう。絶対的な敵対者に、敗北を受け入れる者は。

 或いは、忘却する者もいる。時の流れは人を癒しはしないが、置いてきぼりにはするものだ。置いていかれ、顧みられず、やがて人は己の荷物が重すぎると気付き棄てるのだ。


 だが――赦すなど、許容するなど無い。かつてされた行いを赦してやる者だけは、復讐を掲げる者の中には一人として居はしないのだ。


 それを惨めと嗤うのならば、憐れと侮るのならば。イヴの炎は、そいつもまとめて消し炭に変えるだろう。

 さっと視線を走らせる。午後の大通りは賑わい、激しい往来は人々を無関心にする。素早くやれば、人が一人塵に帰っても気付かれはしまい。

 イヴは覚悟を決めた。話の内容次第では、あの所長に嫌がらせめいた供物を捧げることになる。


 だが、しかし。

 それは

 宗教家を名乗った優男は、イヴの予想を遥かに越える発言をしたのだ。


使

「………は?」

「もちろん御存知でしょう? 麗しき【死の天使エンジェル・オブ・デス】」


 ぐいっと力強く握られるそのときまで、イヴは自らの手が男に掴まれていることに気が付けなかった。

 蛇のように鋭く、素早い動きだ。言葉で驚かされていたイヴの左手は、抵抗の余地なく男の両手に包まれた。


 愛しそうにイヴの手を包みながら、男は微笑んだ――眼鏡の奥、見開かれた瞳に熱情を浮かべながら、優しく、穏やかに。

 その物腰は正に宗教家のそれだ。ただ単に、彼の信仰の対象が異なるだけで。


 遅ればせながら、イヴは、髭男たちが理解した。


「私は、ヴェルネ・カーペンター。


 そう言って、悪魔崇拝者カルトは優雅に一礼した。

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