第3話グレイブヤード探偵事務所

 ジンニ公園前で駅馬車を降りる。


 キャロティシアン王国首都、ラディッシュの朝はいつも程よく暖かで、草花の匂いがする風が穏やかに吹いている。

 夢を見たせいで気分は最悪だった。イヴは大きく息を吸い込み、常春の風で暗く湿った心を乾かそうと試みた。


 風は穏やかに吹く。誰の胸にも等しく、暖かさを運んでくる。過去に囚われた、愚かな復讐者リベンジャーの心にもだ。

 悪くはない、しかし、風は火を強くするだけだ。イヴの心に燃え盛る、復讐の炎を。


「………ふん」


 イヴは深呼吸を中断する。この風を吸い込み、自分の中身を吐き出すことが堪らなく邪悪に思えたのだ。

 イヴの中には、復讐しかない。この穏やかな朝を過ごすには、いささか似つかわしくない持ち物だ。なにせ王国の、そして世界の平穏は、帝国のによって達成されたのだから。


 そこに、いつまでも帝国の残党を憎み続けるイヴの居場所などない。何しろ彼らは滅んだ。世界は彼らの復活を望みはしないのだ――イヴとは違って。彼らが滅んで一年、人々は亡霊の脅威を忘れようと必死なのである。

 復讐には敵が必要だ。イヴには、彼女の憎悪を受け止める敵が要る。帝国の、亡霊が。







 編み上げブーツが石畳を叩く。


 この音が、イヴは好きだった。自分だけの足音はもちろん、朝のこの時間行き交う人々が好き勝手に奏でる即興曲も、実に心地がいい。

 楽器によって音はそれぞれだ。ブーツやサンダルはもちろん、馬車の蹄に荷馬車の車輪の音。


 同じ靴でも、履いている種族によっては全く違う。犬型の亜人であるドグと、猫型のキャッティアでは音の大きさに天と地ほどの差があるし、兎のラヴィは跳ねている分一歩一歩が人間と比べるとかなり広い。


 種族毎の歩く音が好き勝手に五線譜を跳ね回り、歌とリズムになる。それに包まれる幸福は、恐らくそれらを失いかけた人間にしか解らないだろう。そしてイヴは、それが解る人間であった。

 大通りを横切ると、イヴはいつものようにカフェスタンドでカフェモカを買った。何度言っても熱すぎるそれを冷ましながら路地に入り、曲がり角を数回曲がる。


 目印は、古びた教会だ。


 元は人々の信仰心と同じように立派だったであろう教会は、今は荒れ果て、鼠すら見放してしまっている。人の都合で建てられたものは、人の都合で捨てられてしまうのだ。それが例え、神の家であったとしても。

 まあ、神はお怒りにはならないだろうとイヴは皮肉げに唇を歪める。


 かつて、荒れ狂う四匹の竜を従え、世界を作り上げた女神だ。ちっぽけな人間の裏切り程度、目こぼししてくださることだろう………イヴとは違って。


「………ふん」


 目指す場所は、教会跡の裏手。とある事情で安かったその土地に建てられた、年季の入った四階建てのビル、その三階にある。

 機能さえ果たせば外見は問題ではないという主義を体現するような階段は、必要最低限という単語の通り狭く急だ。昼間はともかく夜などは、気を付けないと転ぶ羽目になる。

 ドアは、急な客に備えて鍵は掛けられていない。そもそもこの歴史的なドアに鍵という機能が備わっているのかどうか、イヴは疑問でさえあった。


 何気なくドアを開けて入る途中、ふと、イヴは表札がひっくり返っているのに気が付いた。来客に備えるにしては、不親切というものである。イヴはため息を吐いて、それを表に返した。『グレイブヤード探偵事務所』と刻まれた、真新しい看板を。







「おはようございます、イヴ先輩!」


 ドアをくぐったとたん、快活な声が響く。

 それに答えず、イヴはゆっくりとした動作で部屋を見渡す。


 外側からの想像通り、狭い部屋だ。


 机が四つ、大きな四角形を形作るように並べられ、それで終わりだ。

 あとはコート掛とコンロ、そして暫くは用済みのストーブ。そして、本人は【所長室】と呼ぶ物置が一部屋。それが、イヴの職場の全てである。設備を揃えた人間は、来客が秘密を護りたいと思う可能性や、それが二組以上同時に現れる可能性を考えもしなかったらしい。

 今度応接間くらいつけるべきだ。ため息を吐きながら、イヴは薄手のコートを脱ぎながら、ようやく挨拶に応じた。


「おはよう、コーデリア」


 コーデリア・グレイスはイヴの向かいの机で、にこにこと無邪気な笑顔を浮かべている。若葉色のスーツは採寸という言葉とは無縁で、小柄な彼女を更に小柄に見せていた。子供のようだが、年齢は十六歳で本当に子供である。元気で健気な程に明るい様から、イヴはいつも仔犬のように見てしまうのだ。

 上に乗られることが不服だと言わんばかりに軋む椅子に顔をしかめたイヴに、一枚の羊皮紙が差し出される。


「ダニアンさんから報酬が届いてるそうです、確認してサインお願いします」

「ありがとう。ゴメンね、雑用させちゃって」


 カフェモカを口に運びながら、イヴはサインしてコーデリアに返した。

 本来こうした仕事は、事務員を雇って行うべきなのだが、それは収入を考えれば妥当な選択ではない。

 探偵見習いコーデリアは、しかし何の不満も見せずに微笑んだ。


「いいえ、大丈夫です。私は、イヴ先輩みたいに探偵の才能があるわけでもないですし、それに元々事務員として応募してきたんですから」

「そうだったわね、そういえば」


 コーデリアは事務員斡旋所から不幸にもやって来てしまったのだが、彼女の履歴書を見たあの所長が『コーデリア・グレイス?そんな名前の者を探偵にしなくて誰を探偵にするんだ!』などと意味のわからないことを叫ぶと、勢いそのまま探偵見習いとして雇い入れたのだ。


「私は学が無いから知らないけれど、コーデリア。貴女の名前は探偵小説にでも出てくるの?」

「いえ、私も聞いたことはないです」読書家である探偵見習いは首を傾げ、それから朗らかに微笑んだ。「けれど、所長は時々誰も知らない本を読んでいらっしゃいますから。故郷の物だと聞きましたが」

 イヴは頷いた。「何せあの人は、だから」

「あ、所長といえば、イヴ先輩。手が空いたら来てくれと仰ってましたよ」


 そう、とイヴは立ち上がる。

 手が空いたら、とは良く言ったものである。イヴが今この時を除いては忙しくなるということを、予想したようなタイミングのよさだ――いや或いは、それくらい本当に予想の内なのかもしれないが。







「御用ですか、所長」


 踏み込んだ所長室は、いつにもまして散らかっていた。


 ドアを背にした左右の壁は、本が占めている。壁の代わりらしい本棚に本がぎっしりと詰まっていて、ちらりと見る限り、作者の頭文字順に整理されているようである。

 几帳面な整理の仕方だが、そこで心は折れたらしい。床には書きかけのキャンパスと絵の具、トランプ、組み立て途中か或いは崩し途中のパズル、積み木、時計などが散らばっている。魚の絵が描かれた缶詰めも散見されているが、流石にそれは食べ掛けではないと信じたい。


 そしてそうした惨状は、机に視線を向ければまだまだ序の口であったと痛感させられる。流れ出した溶岩がどれ程多くとも、噴火口は更に酷いものだ。

 机には、書類が山となっていた。山『のように』でも山『みたいに』でもない、本当に正真正銘山になっているのだ。


 山頂は天井には流石に届いてはいないが、それほど背が低くないイヴでもぎりぎり届くかどうかだろう。そして届いたところで、下手に触れたら文字通り山崩れだ。片付けるには、イヴので焼き払うしかないだろう。


「………所長、お留守ですか?」


 イヴの妥当ともいえる質問に、しかし、山の向こうから返事が帰ってきた。


「いいや、いるとも。見てわからないのかね、イヴ・スレイマン」

「わかりませんね、私の目には焼却を待つごみの山が見えるだけです」

「見解の相違だな、男女の差かも知れんが。そもそも、ノックをしたまえ」

「しました」

「嘘をつくんじゃない。耳は良いんだ」

「する必要がないかと」イヴは肩をすくめると、軽く右の眼帯を撫でた。「ので」

「いいかね、イヴ・スレイマン」山の向こうで、ぎしりと椅子が軋んだ。「礼儀マナーとは必要だからするのではない、しないと人は直ちに忘れてしまうからするのだ。君が忘れかけているようにな」

 山の向こうから、くぐもった笑い声が聞こえてきた。「君だけではないぞ、お陰でリトルグレイが真似をするのだ。人は先達の悪行を安易に真似るものだし、彼女は特別素直だからな、気を付けてくれたまえ」


 所長は、イヴの唯一の後輩を【小灰女リトルグレイ】と呼ぶ。何故そう呼ぶのかと聞いたら意外そうに何故そう呼ばないのかと聞き返されてしまった。コーデリアといえば灰色グレイだろうと。

 確かに彼女の瞳は灰色ではあるが、程よい長さの癖毛は栗茶色だし、着ている一張羅は若葉色だ。印象としては寧ろ弱い色だとイヴは首を傾げたものである。


 まぁ、所長が理由わけ解らないのはいつものことである。コーデリアも気にしていないようだし、イヴとしては頑なに否定する事柄でもない。聞き流して、手近な椅子に腰を下ろした。

 椅子は軋まなかった。『客人には最高級のもてなしを』という所長の方針で、客の座る椅子は高級品なのだ――どこから支出したのか不思議なほどに。


「御用はなんですか?」

「ダニアン君の依頼の件だ」


 室内に沈黙が下りる。


「………報告した覚えはありませんが」イヴは記憶を探り、昨夜右目を解放した覚えは無いことを確認する。「のですが」

「だが」所長の声は、嘲るような調子を含んでいる。「忘れたわけではあるまいな、イヴ・スレイマン。


 イヴは舌打ちする。

 それはイヴと所長とが定めた契約ルールだ。イヴの右目で見たものは所長も見れるし、イヴの腕で焼いたものは所長に捧げられる。

 ………所長の正体を、イヴは知っているわけではない。だから便宜上、イヴは彼のことをこう呼んでいる。


「【悪魔トイフェル】め………」

「それもまた、見解の相違だな。捧げるものの無いお前に、私は木こりの仕事を与えたのだ。いいかね、イヴ・スレイマン。薪を切らすな、火を消したくなければな」


 言葉と共に、山の中から地図が落ちてきた。受け取ると、どうやらタウンマップだ。

 郊外の一ヶ所に印のつけられたそれをちらりと見て、イヴはため息を吐く。

 森はそこにあるらしい、イヴが切り開くべき薪の山は。


「………ありがとうございます、所長」


 あくまで礼儀マナーとして、イヴは頭を下げた。成る程忘れないためにするというのは間違ってはいない………覚えてさえいれば、いずれ借りは返せる。所長にも、そして奴等にも。

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