第2話悪夢、或いは復讐の種
覆面をした男に水をかけられ、イヴの意識は闇から引き戻された。
とはいえ、覚醒ではない。
そもそも、ここに連れてこられてから一週間、ろくに眠らせてはもらえなかったのだ。今のように気絶するのが精々で、それさえ一分続いたことはなかった。
顔を滴る水を、イヴの舌は無意識に舐め取っていた。与えられる水も食事も、生きるのに充分とは言えなかった。生き延びるのなら、こうした機会を逃すわけにはいかない。
何をバカなと、イヴの頭で誰かが嘲笑った。まだ生きていたいのかと。生きても苦痛が続くだけだというのに?
苦痛、そう、苦痛だ。
そこには、痛みしかなかった。
肉体的な痛みと精神的な痛みを交互に与え、内と外から人を壊すための儀式が、延々と繰り返されていた。
「………罪を認めるか?」
布越しのくぐもった声が、イヴに告げる。目の前の覆面ではなく背後から聞こえたような気がしたが、イヴは振り返らなかった。彼女の身体は古ぼけた、頑丈さだけが取り柄のような椅子に縛り付けられていて、動かすことさえままならなかったのだ。
衣服は、下着も含めて何も許されてはいない。柔肌に縄が食い込み幾つも傷を作っていたが、そんな細かい痛みに悲鳴を上げるほど、イヴの理性は残っていなかった。
睡眠と栄養不足、更に肉体的な苦痛のせいで、彼女の魂はほとんど死にかけていた。
死人に言葉は届かない。イヴの背後で誰かが合図を送り、目の前の覆面がそれに頷いた。
「っがあああああああっ!?」
覆面が、真っ赤に焼けたアイスピックをイヴの腹に押し当てていた。痛みが全身を駆け巡り、皮肉にも彼女の魂に活力を与える。
いつその針が離されたのか、何度押し付けられたのか、記憶にない。文字通りの焼けるような痛みに、ぜえぜえと荒く息を吐いて耐えた。
「罪を認めるか?」
「………はい」
か細い声が、イヴの喉を震わせた。叫び続けたためか、声は老婆のようにしわがれていたが、どうやら男の耳には届いたらしい。
「認めます、認めますから、どうか、助けて………」
「では」
弱々しいイヴの訴えを、背後の声が遮る。びくりと身を震わせたイヴを見下ろして、男は無慈悲に尋ねた。
「汝の罪を告白せよ」
「………………」
「どうした?罪を認めるなら、その罪を告白せよ」
………それは、幾度となく繰り返されたやり取りだった。男の言葉にイヴは屈し、覚えのない罪を認める。そして、覚えがないから、何の罪かと問われても答えられない。
答えがないことは、認めないことと同じらしい。無慈悲な合図が再び送られ、覆面の男が部屋の奥に消える。
「あ、あぁ………待って、待って、下さい………私、私認め、認めますから、悪かったです、罪をおかしました、ごめんなさい、ごめんなさい、ゆるしてください、ゆるしてください………」
覆面は直ぐに戻ってきた。両手で抱き抱えるようにして、大きな樽をイヴの目の前に丁寧に運ぶ。
中には、並々と水が入っている。数日振る舞われたような汚ならしい物ではなく、澄んだ水だ。
覆面が、イヴの両足の戒めをほどいた。突如自由になった足に、しかしイヴは楽観をすることはできなかった。
何かされるのだ。しかし、何を?
「………………」
覆面は無言のまま、右手を樽の上にかざす。握られたそれを開くと、一匹の鼠が中に落ちた。
溺れると、イヴは思った。それが甘かったと気付くのに、さして時間は必要なかった。水面に鼠が触れた瞬間、その身体が溶け始めたのだ。
「………っ!!」
鳴き叫びもがくのは、僅かな間だった。触れたところから毛が、皮が、肉が溶かされ、あっという間に骨だけが残った。
次に閃いたのは、その使い道だ。
覆面が、イヴの足を掴んだ。
「い、いや! いやああああああ、あぁ、やめ、やめて、わたし、ごめんなさい、あ、ああ、あやまる、あやまりますから、だから!」
「罪を告白せよ」
「わたしがわるかったんです、わかりました、わかったから、だからやめてぇぇぇぇぇ!!」
謝罪を求められてはいなかった。求められていたのは懺悔で、それが出来ない以上、イヴは自らを助けられない。
イヴの足が、樽に浸けられた。
無色透明の悪魔が、骨以外の全てを呑み込んでいく。
「っ!!」
イヴは跳ね起きた。
反射的に振り回した腕が壁に当たり、レンガ壁が崩れた。
「はあ、はあ、はあ、はあ………」
夢だったということは、直ぐに解った。だが、脳の理解に身体が追い付くのにしばらく掛かる。意図的に大きく深い呼吸を繰り返して、暴れる心臓を落ち着かせる。
そうしておいて、自分が今どこにいるのか、記憶を手繰り寄せる………といっても難しくはない。白い陶器製のバスタブに、湯気を立てるお湯。そして、裸の身体。
「………湯船で、寝てた………か」
ため息を吐きながら立ち上がり、イヴはシャワーを掴んだ。
結局自分に何の罪があったのか、イヴには未だにわからない。奴等はなんと言っていたか、もう覚えていないし、それに彼らが、自身の発言全てを心底信じていたかは誰にもわからないのだ。
確かなことは一つ。
彼らはやった、だからイヴはやり返す。
「………………」
全身くまなく流し終えて、身体を拭くこともなくイヴはバスタブから出た。飛沫がタイルを叩き歌うリズムは、少なくとも愛の歌よりもイヴの気分に相応しかった。
さして広くもない浴室に無理矢理置いた姿見に近付く。曇った表面を拭き取ると、二十二年間見慣れた青い瞳が見返してくる。
酷い顔だと、イヴは思った。
濡れてぴったり張り付いた金髪は、乾いたら蛇のようにのたうつ癖っ毛。その隙間から覗く肌は死体のように青白く、浮かんだ表情も幽鬼じみた暗さ。
だが何よりも酷いのは、その四肢と右目だ。
それらの部位は、鏡の中には一切映っていなかった。
右手を伸ばして鏡に触れる。硬い感触が肌を押し、へこませるが、相変わらず鏡には何も映っていない。
イヴはため息を吐いた。
これもまた、見慣れた光景だ。五年前に起きた悪夢の末、イヴは両手両足右目を失ったのだ。
視線を、現実の身体に向ける。そこにある身体には、何の欠損も見当たらない――あれほど傷つけられた痕跡も。
無くした手足を取り戻した訳ではない。イヴは、それらを新たに手に入れたのだ――相応の代償を支払って。
【悪魔】の身体と、イヴは呼んでいる。自嘲ではない、決意としてだ。この手足が奴等にとってそうなるように、イヴは使うと決めたのだ。奴等がイヴを、何に変えたのか思い知らせると決めたのだ。
「………焼き尽くしてやる。奴等の肉体を、【悪魔】好みのステーキに変えてやる」
暗い決意が、黒い炎となってイヴの身体を包む。身体の表面の水滴が泡立ち、やがて蒸発していった。
その湯気で曇った鏡を、再び擦る。
酷い顔だと、イヴは再び思った。
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