04 » OCA1B型、血縁、薄小麦と琥珀が織り成す黄金色





 例えば心の奥が壊死していて、唯一の友人らしい友人に頼まれた何某かを遂行すれば間違いなくその古傷が酷く疼くことを予め想定できるなら、きっと親しい間柄に不和を生みたくないからと無理に引きつらせた微笑を演じまでして拒むよりもむしろ、海底深くに幽閉していた心的外傷トラウマがいまさらのように機能的意識世界の全次元に投影する激烈な苦悩の記憶、それらが私という自意識の手に負えぬ速度で脳髄の深みを駆け巡った挙句に爆ぜる制御不能な自殺衝動をひとつの志向性感情に凝縮させることにこそ心血を注がねばならないに違いない、と悪夢の中心に永劫束縛されたままの血まみれの幼児おさなごが唇の端を吊り上げて云う。だからこそいまも頰に泪を伝わせながら、場に呑まれたていを装い綺麗な嘘を吐いているのだろうと──波打ち際、無邪気な子供の丸めた両手の平があらゆる角度から砂城を掬うかの如く抉られはじめた精神が、かつて経験したほど手遅れになる前に。

 遥か昔に感じられる、しかし僅か数年前でしかないとある季節、凄惨な被虐に耐えきれずに幼少期の防衛機制が生み出した「俺」と「私」という一人称をすっかり馴染んだ陣羽織のように鎧で覆った心にまとい、目の前の友には「俺」の、深海の高水圧に心拍を止めた朽ちた幼児には「私」の言葉を槍に、訥々とつとつと清淡に。


「嘉賀城さえよければさ、今度の大会、見に来てくれないか」


 普段滅多にゲームをしない友人が、普段からゲームを嗜む私のために外注してくれた特製の機材。あるいは、電気回路周りや機械弄りのノウハウにはまったくといっていいほど縁のなかった彼が様々な情報源から得た知見を元に、できうる限りで熟考した内部装置、その中から最終的に専門のアドバイザーと相談してまで決定したというVRサービス専用のHMD。

 それがいまずしりとしすぎる重量感もなく、人が頭に被るものとしてあるべき適切な重みと高級感演出的重みの双方をたたえて、私の腕の中に収まっていた。

 出費がいくらだったか訊く気など毛頭起きるはずもなく、さらにいえば耳のAGIに問えば概算してくれるかもしれないなどという野暮な考えは理性と精神論の両面から瞬く間に棄却され、ただただその予想外の事態に私の心臓は、驚愕と動揺といい知れぬ歓喜がい交ぜになったような鼓動に打たれることしかできなかった。そうして我が身に余る贈り物に、私は固まって恐縮の意を示し続けていた。

 そのような私の様子を見かねたハルが、おそらくは純粋な優しさと期待からだろう、はにかみながら申し出てくれたのが、その言葉であった。

 それはすなわち、来たる高校生競泳の関東甲信越大会、つまりハルの高校生活最後の晴れ舞台に友人として観戦に来はしないかという打診だった。

 おそらくは私の中で合っていなかった価値の帳尻、笑えるほど傾いた貸し借りのはかり、あるいは善悪の天秤をならし、私が気負うことなくこの大きな箱を受け取れるようにするための。

 あるいは私にしか創出できない価値を私から彼に贈る機会を与えることで、私が気兼ねなく彼からの過剰な善意を受け入れられるようにするための。

 その際こちらが余計な気を遣わなくていいように、「これはお前のための救済措置なんだからな」などと苦笑しながら断る文言を付け足したり、ほとほと困ったように眉の端を下げるのも忘れずに。

「……ありがとう、ありがとう、ハル」

 私は嘘を吐く。

 泪を流しながら、やっとそれだけを声にした裏で。

 後から後から雫が溢れ、内では止めどなく心が砕けて、為す術がなかった。

 外界に現れるは塩水の涙、心のひびから湧き出づは血の涙。

「ありがとう……」

 高価な百点勝負勝利祝いおよび誕生日祝いへの感謝、そこに偽りはなかった。

 ただその影には、槍の如く明快な直線に渦巻いた濡羽色の憎悪が猛っていた。

 私はその憎悪を隠し、謝意だけをかろうじて伝えた。だから嘘。

「俺に相談があるってのも、誘い込む口実だったんだな……」

 折り畳まれた見えない次元方向へと旋回する心の澱の単振動型軌跡に、胃と食道の逆蠕動と頭痛と胸焼けと絶叫衝動が束になって渦巻き絡まっていく。

 それはまるで、暗黒色のショコラベーグルに蔦の蔓が巻きつくかのような。

 憎悪、倦厭、嫌忌、怨嗟が角切りチョコチップとして配合されているような。

「まさか最初から、全部、サプライズだったなんて……。計画はさ、いつから」

「それは秘密」

「そっか、でも嬉しいよ。ありがとう」

 なぜなら私は知っていたのだ。

「喜んでくれて俺も嬉しいよ。これで次からはお揃いのHMDでゲームできるな」

「そういう言い方されるとなんか気色悪いな。お前は俺の彼女じゃあるまいに」

「ひでぇ。やっぱお前は今度の大会来い。これは誘いじゃなくて命令だ」

 彼の提案が何を意味するのか、あるいはその文面にいかなる類のナイフが潜んでいるのかを、私以外の人間の中では彼が最もよく知っているはずだということを。

 その要求を飲んだときに私が被りかねない、それどころか九割九分九厘の確率で被るに違いない精神的苦痛の存在を、彼は理解しているはずだということを。

 そしてその痛みの存在がたった千分の一秒でも、あるいはたとえ不可抗力的に想い描かされた刹那の概念としてでもこの意識の端を過ぎったなら、それを引き金にして過去この身に降りかかった凄惨な被虐体験が洪水の如く感覚世界を蹂躙し、私はどうしようもなく、死にたくなってしまうのだということを。


 ◇


 深みに嵌まった精神の牢獄の中で、私は考えていた。私が私という人生を内面から語るこの摩訶不思議な視点、潜在的危険因子保持者ペド・シークエンスホルダー、幼少期に起きたとある個人的厄災について、自分自身の悲観的思考を整理するために幾らか言の糸を紡がねばならない、と。

 それはもはや私の中に完璧に刻印された諦念の手段なのだと。

 私が私について独り語りをすること、具体的にいえば誰に届けるつもりもない言葉を胸の内で製造し続けることは、同じような状況に幾度となく陥っていたかつての自分が編み出した精神的窮地を脱する苦肉の策であり、あるいは妥協と苦悩の狭間で平衡に達したような、暫定的な解決策なのだと。

 そしてそれは少なくとも、いままさに目の前で動きを緩やかにした世界、それを再び正常な速度に戻すために、すなわち私が私の意識を現実に正しく帰還させるために、何をさしおいても実行しなければならない自己救済なのだと。

 私という自意識を取り巻く種々の感覚、視覚や聴覚、嗅覚、触覚、味覚の独特な心触り、それらを含め五感以外からももたらされる入力群がミリセカンドスケールで緻密に描き上げるはずの機能的意識世界は、つい数秒前に行き場のない憎悪を隠した謝意をハルに告げた瞬間から、更新速度を急激に低下させていた。

 それはまるでB級映画における湖畔での溺死シーンのようで、その喩えでいえば私はさしずめ、光も届かぬ淀んだ翡翠色の水の中で事態を飲み込めずもがき続けた挙句孤独に絶命するような、悲惨な事件の被害者だった。

 視えている世界も、聴こえている世界も、酷く遅い時間の中を進んでいた。それは例えばフロアの奥にいるロボから少しも移動する様子が窺えなければ、目前の友人の睫毛からほんの僅かな揺らぎさえ認められない程度の微小な時間間隔の間に、暴走した私の感覚が哀しみの記憶をひとつ手繰り寄せてしまうほどに。

 ハルの発言をトリガーにして精神的反陽子爆弾の爆心地と化した意識世界の中央に、爆風によってぶち撒かれていたはずの過去の記憶が真空補填すべく吹き込んできていた。

 それはまるでカンバスの上で光の三原色を連続変容させただけの抽象画を彷彿とさせる得体の知れない気味悪さ、さらには終末の音に秘められた頭をらんばかりの不快感、いつまでも胃の中身を吐き出せそうな汚物の臭気、指先を融かす熔岩のほのお、あるいは蟲という蟲を口内に詰め込まれたときに舌に流れる苦汁の電気信号を統合したような、おぞましい自殺願望の塊だった。

 そしてまたそのような無数の叫びの記憶に、客観的現象理解の子守唄を歌ってやることだけが、頭を掻きむしりたくなるほど狂ったこの現状から脱却できる無二の方法であり、さらにいえば私の精神こころが強度を高め前に進むための唯一の残酷な試練なのだということを、長きにわたる経験上、私は重々承知していた。

 私が私自身の精神を沼から掬い取り救いだすために言葉にしなければならない幾つかのこと、それらを最低限意味の通る一連の解釈として統一的に表現するためには、時間的にも空間的にも独立した事象を少なくとも二つ扱う必要がある。

 それらは互いにまったく関係性を持たぬ事象であり、同時にそれぞれが私のこの十数年足らずの人生を追構築するうえで何より重大な礎たりうる要素。

 いうなれば残る私の人生の軌跡は、すべてこの二つの末端から演繹的に描き出された二重螺旋。

 私の生きた証の大部分はそれくらいどうしようもなく軽く薄く、まるで流されるものの象徴たる波風のようでしかない。

 裏を返せばその二端点は未だどうしようもなく、強い呪縛であり続けていた。


 破綻のないよう話を時系列順に整理するために、最初は七年前の七夕の日、すなわち二〇二八年の七月七日から憶い出さねばならないだろうか。

 足の裏に刺さる砂利、泥濘ぬかるんだ畦道、心を砕く雨。暗い世界が蘇る。

 その日、あるいは憶えている限りを詳しく記述するならば、土砂降りが一面の麦畑風景を感慨の欠片もなく殺していた、底冷えのする金曜日。

 私は見知らぬどこかの風呂場の手前、真っ白な洗面所との境界に取り付けられた折戸のレールの上で、見知らぬ女性の腕の中に抱えられながら、覚醒した。


 ◇


 交通事故等で脳内に重大な損傷を負った患者を想像する。

 彼らは処置後の経過観察中、多くは病院の床の上で突然目を覚ました場合、まず非常にレベルの低い意識状態での活動を表に出すことが多い。

 治療の最終段階において患者の意識が元の状態まで回復するような奇跡が起きようが起きまいが、一般的に極めて繊細で複雑な脳神経回路を滅茶苦茶に破壊された頭が自己修繕していく過程では、患者はまるで人の体を借りた機械ではないかと疑いたくなるような不自然な言動を行うようになる。

 そのときの主観的な意識状態がどのようなものなのか、それを外側から知るのは、もはや難しいだとか困難だとかという次元の議論を超越して原理的に不可能である。極端な話、誰かの感覚を他者にそのまま流入させることはできないし、もっと身近に科学的な測定という手段を考えても、本当に核の部分となる「感覚そのもの」あるいは「感覚の質感」を抽出することはできないからだ。

 測定できるのは人という近似的に閉じた系への入力刺激と、その系の反応に現れる出力だけ。どれだけ脳を開いても、そこに意識そのものの光は現れない。比喩であることを明言したうえで言の葉を織るなら、観測されるのは緻密に噛み合った精密な歯車たちが物質的に天命をまっとうしている姿のみである。

 ただし体験者本人からの伝聞という形においてそのときの意識の在り方を推察するのは、必ずしも不可能とはいえない。

 例えばある種の事故により文字通り脳内が無残に掻き乱された人々の中には、幸いにも事故発生から数日で外面的には目を開き、次第に外界に対する応答の複雑性を改善させていく人がいる。彼らは重篤な事故被害者の母数から見れば贔屓目に見ても少数な部類に属するため、多くの体験例を包括的に集めることはかなり難しい。しかしそれでも、これまでに世界中で報告されてきた、それぞれが非常に一個的で特異的な事例の数々は、本当に示唆に富んだ知見に満ちている。

 私がそうした情報に初めて触れたのは、いまから数年前のある日、何の気なしにネットの海を漂っていたときのことだった。そのとき当時から数えて十五年ほど前にアップされていたある闘病記のアーカイブを見つけたのは、きっとただの偶然に過ぎなかったのだと思う。

 著者は十九歳の頃に不運にも大型車両との衝突事故に見舞われ、軽度な外傷とは裏腹に脳に重度の障害を負った過去を持つ名前も顔も知らない人。彼はその経験談の中で、病床で突如目を覚ました瞬間について以下の旨を記していた。

「事故前の意識が戻ったとき、私は脳が突然に目醒めたとでも形容すべき感覚に襲われた。しかし周囲の反応から、私の体は私の意識が目醒める前から『私でない状態』で動いていたのだということを知った。不可解ながらも思い返せば、朧げではあるもののそのときの記憶の断片が残っていることにも気がついた」「私の中に脳があるのではなく、脳の機能の一部として『私』が在るに過ぎない」

 それは私にとっても天啓で、いうなれば天恵だった。

 再び七年前のあの雨の日、私が触り憶えのない女性の腕の中、嗅ぎ憶えのない柔軟剤の温もりに包まれて覚醒したその日に意識を遡らせよう。

 目醒めの瞬間、私は何らかの理由により自身の意識が断絶していたこと、そしてその幕引きに不意に目が醒めたのだということをなぜか理解している感覚に眩暈がするほど混乱した。

 あるいはそれはまた、掴みどころのないふわついた感覚知識が私の頭の外周を回遊しているかのようでもあった。あたかも停止すれば絶命する鮪のように。

 少しして落ち着くと、自分は悪天の中に独り捨てられ、灯りを求めてひたすら悪路を歩き続け、見ず知らずの家屋の戸を叩いたこと、その果てにその家の主に拾われたらしいのだということが、なぜか朦朧と千切れた記憶の残骸に焼きついていることに気がついた。

 それが単なる記憶喪失だったのか、あるいは私未満の何かが私の体を動かしていたときの記憶情報が脳に残っていただけなのか、真実はいまでもわからない。

 ただそれ以前の記憶のほとんどが濃霧の向こうに吸い込まれた状況で、私は自分が経験した憶えのない記憶の断片とともに突然目を醒ましたのであった。そしてそのこと自体には戸惑いを憶えることもなければ、本来ならば困惑する要因であるはずの「見ず知らずの女性に抱きかかえられている」という状態についても不思議と一切動揺することはなく、ごく自然に口をついて「嗚呼、僕は捨てられたんだな」と呟いた。それは誰に話しかけるつもりもない独り言だった。

 それから私を持ち上げる女性の正面に、男性が立っていたことに気がついた。

 彼は私を救ってくれたその家の主のようだった。

 女性と男性のささくれた怒号が飛び交っていたような気がしたが、聴覚が曖昧に遠去けられていたせいで中身は聴き取れなかった。ただ青い顔をしていたその男性がおずおず私の名前を訊いてくるのだけははっきり聞こえたものだから、私は一瞬だけ逡巡した後、自分自身の内側をも確かめるような声色でこう答えた。


「僕の名前は、八雲、です。八重にそびえ立つ雲と書いて、八、雲」


 極度の疲労と全身から伝わる痛みのせいで、それが本当に酷く掠れた声になってしまったことを憶えている。

 瞼もたぶん、すぐ閉じざるをえなかっただろう。

 そのとき頭の中に広がったのは何の変哲もない闇ばかりだった。その闇をいくら無心で覗いても、自分の名の他に何かを憶い出すことはできなかった。

 私はほとんどない頭部の筋肉に無理に力を込めて頭蓋骨を締め上げ、脳から少しでも情報を絞り出せないかと妄想した。しかしその試みも敢えなく失敗した。

 かろうじて浮かんだのは、凍えながら雨中を歩いていたときの細切れの記憶。

 それは例えば、篠突く雨の雑音。

 はたまたモノクロームの視界。

 えた土壌の匂い。

 切れた唇から流れた血の味。

 薄い足裏の皮を破る小石の先端。

 それさえ除外すれば、私の脳にはもう、過去は何ひとつ残っていなかった。


 そしてそれ以降も、失われた過去の記憶が何かの拍子に取り戻されるということは、一度たりとてなかった。

 だから私には、例えば両親に愛され、健やかに成長し、適切な年齢で幼稚園や保育園に入園したり、小学校に入学したりといった記憶が、もうずっとない。

 私は長い間、そのときから尾を引いた釈然としない心境を上手く言葉に落とし込めずにいた。人に説明しようとしたことこそほとんどあらねど、自分自身その体験に確固たる現象としてラベルが貼れないことを不満に思っていたし、その数少ない会話経験を参照しても相手に過不足なく伝わった憶えなどない。

 かの闘病記で著者が目を醒ました瞬間の記述を目にしたのは、だからこそ私にとって青天の霹靂へきれきたる出来事だったのである。

 彼の体験を想像した瞬間、私は体の芯を貫く雷の いかづち ような衝撃を確かに感じた。

 数年越しに言葉を得たのだ。

「見ず知らずの女性の両腕に包まれる中で脳が覚醒したあのとき、私の脳裏を駆け巡った断片記憶の持ち主は、私ではなかったのかもしれなかったのだ」と。

 もちろん、それが著者の真に伝えたかった感覚とはまったく異質である可能性は十分考えられた。だがたとえそうだとしても、少なくとも私の過去に付随していた煮え切らなさをすっかり蒸発させるには、その闘病記の記述は偉大過ぎた。

 私には昔の記憶がない。

 この決して幸福といえぬ生い立ちが、私の人生を構築する柱のひとつである。


 そこからはなるようになったと聞いている。まずなぜ私がその日、その会ったこともない「赤の他人」の家の地域に存在していて、その家の付近に辿り着き、最終的にその家を選んだのか、それらは不明なままに私は一度、当然の流れとして県内の児童養護施設に引き取られる議論の中心に置かれたらしい。その議論というのが、覚醒時に聞こえたような気がした怒号の正体だった。

 しかし雨の中その「赤の他人」宅の玄関前で立ち尽くしていた私はどうやら満身創痍なうえ体が冷え切っていたようで、命の危険を察知したその家の主人と、居合わせた彼の配偶者により、親切にも家庭内でできる限りの応急措置を施された。それが意識を失った私が風呂場に運び込まれていた理由だった。

 つまりそのとき私を抱え、洗面所から熱い湯気の立つシャワーのもとへと進もうとしていた人こそ、私が訪れた家の長の配偶者、その人であった。

 ところで七年前のその時分は、いま私たちが当たり前のように生活基盤と見做しているUNCR構想の、その前身さえ、まだこの世にない時代である。そのため明らかに容態の悪い人々の治療ですら何かしらの医療機関に到着するまで開始することができなかったので、彼らは理不尽な状況に対して湧き上がる戸惑いと憤りを押し殺しながら近辺の総合病院に私を連れていってくれたらしい。ただその時点ではもう私はどこかの孤児院に預けられる前提で保護されていて、したがって彼らにはその際に必要となる健康診断書を準備するために私を医師に診せようとする意図もあったのだという。

 自治体からの全面的な補助が下りるということで、あらゆる検査を私に受けさせるつもりだったそうだ。

 ちなみに棄児が路頭で発見されること自体珍しかったその頃も万一のために手続きは厳正に定められていて、棄児が健康体の場合はすぐに、身体的外傷が認められる場合は適当な身体的治療を施した後にDNA検査を行い、ゲノムバンクから親族の家系候補を特定することが義務付けられていた。

 だからたとえ彼らが私に情けをかけていたのだとしても、心のどこかでその出逢いは片時の人生の交差に過ぎないと悟っていたのだろうと思う。

 実際現実は、そのように運ぶはずだったのだから。

 私のヒトゲノムが、その「赤の他人」だと思っていた男性の家系のそれと驚異的な一致を見せさえしなければ。

 日本中の他のいかなる血族とよりも傑出した酷似性を示しさえしなければ。

 私は身体中に傷を作ってはいたものの、それらはいずれも軽傷だったらしい。そのため当日中に必要な検査項目のほとんどが精査され、私の生物学的な人物像は概ね明らかになっていた。


 例えば私の性別は男で、肉体年齢は幅をもたせても十歳から十二歳相当だと推定されたこと。

 私はOCA1B型の先天性白皮症アルビニズムに罹患しており、色素細胞がチロシナーゼと呼ばれる酵素を生成できないために肌は二種類のメラニン色素の欠乏により透き通るように蒼白く、毛髪は色の抜けた薄く優しい小麦色となっているということ。

 また紫外線により角皮クチクラが痛んでおり、頭髪は外に跳ねた癖毛であること。

 虹彩は両目とも琥珀色アンバー、あるいは俗にいう金眼であること。

 ただしこれは中度から重度のアルビニズム罹患者としては本来発生しえない色であるため、眼球付近の組織が部分的に生物学的キメラの様相を呈している可能性が考えられること。

 斜視や弱視は確認されないこと。

 琥珀色の瞳は遺伝の影響によるところが大きいので、両親のいずれかまたは両方が金眼の因子を持っていた可能性が高いということ。


 これらの情報が明らかになった後、先述の通りDNA検査により、私と私を救ってくれた「赤の他人」とが何らかの血縁関係にある可能性が示された。医師や各調査機関はその男性への聞き取り調査実施を決定する。事態は急転していく。

 いまだからこそ知っている話も総合すれば彼は当時、私の診察医を含む複数の調査関係者に対し幾つかの情報を開示したとされている。


 例えば彼には当時すでに故人となった兄がおり、その兄には生きていれば十一歳になる息子がいたこと。

 彼は彼の兄の存命中に当該児童の生死に関わる事案で連絡を受けた憶えがあるが、記憶が曖昧なため現在どうしているかの知識はないこと。

 彼の兄の妻は国籍を日本に置いていなかったうえ、二人の住居も日本にはなかったこと。兄の配偶者について詳細は知らないが、面会経験はあること。

 彼の兄は琥珀色アンバーの瞳をしていたはずだが、最後に間近で見た記憶は古く薄れているので確信はなく、淡褐色ヘーゼル等だった可能性もあるのだということ。

 ただし黒や灰の類でなかったことは確かであること。

 保護中の棄児、すなわち私は自らを「八雲」と名乗ったが、彼の兄の息子は漢字表記を含め同名であったこと。


 当然ながら、私を救ってくれたその男性の証言はあくまでも参考として収集されたに過ぎない。客観的に見れば、私を不当に入手するために都合のよい法螺を吹いて虚偽の証言をした可能性を捨てきれなかったからだと思われる。

 しかし然るべき後、彼の曖昧な記憶をもとに専門機関が欧米の幾つかの国に対し国籍関連データベースの開示請求をしたところ、彼の兄と同姓同名の男性とその妻、加えて彼の証言した通りの年齢で「YAKUMO/八雲」なる名を持つ男児が登録されている国が実際に存在することが明らかになる。三人は家族登録されていて、さらに彼の兄と思しき男性に関しては国籍を移した記録も残っていた。

 また、私を拾ってくれたその男性の父親を戸籍筆頭者とする日本の戸籍謄本を参照することにより、彼が証言した「兄」なる人物が虚構ではないこと、そして過去、他国へ帰化したことにより除籍されていたことも証明されることとなる。

 男性の兄という人物がかつて住んでいた国、それはフランス共和国レピュブリク・フランセーズだった。配偶者の国籍もフランス共和国。当国では日本の戸籍にあたる仕組みとして身分登録簿なるものが設けられているが、参照した情報によれば男性の兄の家庭については、彼の兄夫婦それぞれの婚姻簿、死亡簿、さらに配偶者と子息にあたる八雲なる男児それぞれの出生簿の存在が確認されたらしい。

 当該男児の動向をさらに詳細に調べるため、調査は住所録に記載されていた地区の役所への問い合わせや当国国家警察への捜査情報開示請求にまで及んだ。そして結果、私と同名の子供は私の覚醒した日よりも遙か以前に失踪届が受理されたまま、行方不明としてお蔵入り扱いされていたということが明るみに出る。

 これらの事実確認を含めた厳正な調査をもとに、私にとって「赤の他人」であり続けるはずだった見ず知らずの男性は、突如として私の「叔父」となった。

 私はまったく過去の記憶を憶い出せぬまま、その男性に「甥」として引き取られることとなったのである。

 互いの社会生活に支障を来さぬように国籍を移され戸籍を取得させられ、最後には家庭裁判所の調停のもとに、普通養子縁組で家族としての縁を結ばされて。

 その際に得た姓こそが、現在私が名乗っている嘉賀城姓、そのものであった。

 さらにほとほと数奇な運命が続いたことに、世界のどこかで厳重保護されている特殊サーバーに書き込まれていた膨大なバイナリ記録が証明するには、私の生月日は七月七日、つまり私が叔父の家の扉を敲いた日と同一日付であった。

 したがって私の誕生日はその二重の面から何ら迷う余地すらなく、伝説上で織姫と彦星が逢瀬を許されたかの日付に定められることとなる。

 だから去る二〇二八年の七月七日、短冊に願いを書けばいつか叶うと信じられていたその特別で素敵な日、私は十歳以前の記憶を一切持たないうえ、十一歳からの生活には何も所持品を持っていけないような孤独の中で、初めて人生という時の回廊に自己存在を刻みはじめた。


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