03 » ハレノチハルに鍬月の心を込めて。





 例えば誰かが深切で、喜ばしくもそれがとりわけ私にのみ向けられた優しさだということを私自身が知っていたなら、きっとその特例聖人君子的な人物に対する日頃からの甚大な謝意を愚直に言の葉に託すよりもむしろ、駆け出した衝動が毎日のように口走りかける片手指に収まる数の想い、それらを八万六千四百秒の時の中で幾つかのありふれた行動として表出する帰結に彼または彼女が実際に拾い上げてくれる気持ちの欠片にこそ誠実でありたいと思うに違いない、ともやがかった情動の奥で私の統制官が云う。だからこそいまにもほころびそうな顔を引き締めて、ました態度を装っているのだろうと──かつて自分を不登校の谷底から引き上げてくれた、掛け替えのない恩人ひとりを目の前に。


 突如として現れた完全な晴れ間は南から少しだけ西に傾いた空の一角に切り拓かれていて、両脇を種々の建造物群に挟まれた南北向きの道路に光を注ぐには最適な角度でそこにある。西を向くベーカリーの玄関は斜めから差し込む陽光にまばゆく照らし出され、屋台骨や植物が織り成した奇怪きっかいな隙間の芸術は光波の回折スリットの役目を果たしているようだった。明暗の連峰をかたどった光子の群れがまるでポリゴンに透過テクスチャを貼るかのような趣で彼の髪に被さり、毛髪の一本一本の、その重なり具合はぼやけたままで、飴色の茶髪が曖昧に、それでいて印象的に輝く。Pain du soleilパン・デュ・ソレイユ と彫られた看板の字が、下手なグラフィックデザイナーが闇雲にかけたブラー効果のように白む。

 片一方の木椅子を占領していたエナメルバッグが持ち主の右肩に帰され、ショルダーベルトに手を通した際の動作的遊びを持て余した指先が近くに巻き上がっていたつたの根を優しく触りはじめる。オーニングポールと外壁とを覆うようにして絡まり合っていた幾種かの植物壁を、彼は引き、そして撫でる。

 それは彼が引っ張るにつれて局所的な緊張の度合いを高め、彼が手を離すともったりと弛緩して落ち着いた。彼は数度それを繰り返し、少しして満足そうに腰を上げる。それは始まりと終わりのわからない緑色の迷路で、点的負荷に強いネットワーク構造の現実への射影で、あるいは単純ノード化不可能な数理グラフだった。その無機的胎動と刹那的構造安定化作用がほんの数秒のうちに数え切れぬほどせめぎ合い拮抗するたびに、それを知覚しているこの脳神経には贅沢な経験知識が注ぎ込まれる。例えばそれは、この世界の些細な仕組みをより学ぶための。

 椅子の脚を擦った音がして、私は我に返った。片手でハンドリングしたせいか後ろに重心が偏ってしまったようで、不穏な姿勢で傾いたボディが彼の右手に危なっかしく支えられている。その手はしばらくそれを細かに押したり引いたりしていたが、結局のところそれ以上不快音を立てないようにとの配慮か、あるいはただ純粋にこの状況に辟易してか、いまさらのようにもう片方の手を動員して対象を持ち上げるに至っていた。

 そうして二度手間三度手間を経た挙句、最後だけは実に静かに前脚を設置させていたけれど、それは一連の不手際に対するささやかな抵抗だったのだろうか。

 こちらに向かって歩いてくる身体像が、次第に明度を増していく。降り注ぐ光雨に彼の皮膚や服が濡れていく。それから私の手元に提げられた袋が彼由来の視線に貫かれるなり、苦笑い混じりの特徴的な声が聞こえてくるのだった。

「見るたびに思うけどさ、一度に買いすぎだろ。家族全員の一食ですってレベルだよ、それ」

 鼻を小さく鳴らして笑った。彼と、私と、二人の間を吹き抜けた風とが。

「そんなんで晩飯食えるのか。ま、食えるから買ったんだろうけど」

 玄関前のポールを掴み、おそらくは手の平に心地よい痛みを伴う摩擦熱を生み出しながらくるりと半回転した後ろ姿に、私も続く。夏蔦とともに登攀とうはんしていたヘデラ・ヘリックスのゴールドハートが彼の肩に触れ、後に尾を引かない一瞬だけの葉擦れを鳴らしたが、彼は気にしていただろうか。

 彼が笑いかけたのにつられて私もそのとき口を弧状に伸ばしていたのだけれど、彼は気付いていただろうか。

 右肘に通した袋から真っ黒なショコラベーグルを取り出し、ポリエチレンの個包装を半分ほどまくって両手で口に運ぶ。ココア生地に角切りのチョコレートチップがふんだんに練り込まれている、個人的には極上の逸品に分類される一品。それを頰の裏で二口ほど丹念に味わってから、私は気のないような口調で返事をする。「さあな、まぁ食べきれなかったらそれこそ家族用にするよ。うちには食べ盛りがいるからな。まず間違いなく余らない」

 一瞬の間の後、すかさず「嘉賀城かがしろもじゃん。本当、兄妹揃ってよく食べるよ」と返ってくる。彼の顔は前を向いていてこちらからは見えなかったが、たぶんまた笑ったのだろう。声色からそう推察できた。

「それより部活はどうしたよ、ハル。主要選手だろ」

 不意に熱風が吹き込み瞳を刺す。私は思わず足を止めつつも、気がかりだったことをひとつ口から取り出す。彼が出場を決めている競泳の関東甲信越大会までは、もう一週間もないはずだった。

「休み。そもそも学校には籍置いてるだけだからいいんだよ。そんなことより、今回の期末も全勝したのか?」彼はぶっきらぼうに答えると、話題を逸らした。私には判断がつかないが、おそらく半分は本当で半分は嘘。学校の練習も彼の通うクラブチームの練習も、休みであるはずはない。だが敢えて追及もしない。

 彼がそうだと言うなら、私はいつもそういうことにしておくのである。

「化学の計算がちょっと間に合わなくてそれだけ惜しかった。でも後は全部満点だったよ。だからこそのご褒美だろ、ソレイユに寄ったのは」私はさも当たり前だという口調で、淡々とそう言った。

 ショコラベーグルを一口噛み千切り、舌の横に転がして味わう。やおら多幸感が全身に広がっていく。ベーカリーに寄るのは自身を労うときと決めてあった。そこに付加価値を授くために、特別なことがあったとき以外は訪れないようにしているのである。それはもはや半ば儀式化しているし、彼もそれを知っている。

「相変わらず化け物じみてるなあ。何勝目? 連続だっけ」

 理解しているからこその彼の今日の跡追い、受け入れているからこその彼のこの質問であった。

「そう。満点教科数勝ち越しで言えば、一年の三学期から数えて十三戦全勝。夏期休暇前だから余計気分いいよ。全教科満点は八回止まりだけれど」

「羨ましい限りだよ。なら今回はどれだけ許可されるんだ? 砂紗サーシャの利用権は」

「利用って言い方はあんまり好きじゃないけど、まぁ最大でだいたい一・六ヨタフロップスかな」私は教師から提示されている条件を彼にそのまま伝える。

「いってんろくよた」

 声の調子から察するにスケールが掴めていない様子だった。私は親切にも補足をしてやる。「エクサフロップスの千かける千倍の一・六倍だよ。もしくはテラの百万倍の百万倍の一・六倍」どうやらこれでようやく想像がついたらしい。

 ハルはモニタスリープを解除するが如く一瞬間に表情を明るくし、スイッチを二連打されたミニサーボモータよろしく首を急回転急停止させてこちらを振り向いた。「すごいな、そんなに何に使うんだ」端的にいって驚きすぎである。

「そんなにっていうか、まぁ、処理速度の話だし。容量の話じゃないからな」

 しかし残念なことに単位をバイトか何かと勘違いしているように思えた。ならばこれ以上、無駄な言葉は紡ぐまい。大きい数だと伝われば、与太話としてはまずまずなのだから。

 私は彼の横に並ぶ。私も彼も前を向いて、それからは何事も喋らない。風が吹き、前髪がなびき、視界の画質は低下し、私はそれを掻き分けてやや顎を引く。四次元時空のパン・ドゥ・ミは無言のまま刻一刻とスライスされ、三台用駐車場を抜けて元来た道に出る頃には四切れ一斤ぶんくらいが消費されている。

 ところでパン・ドゥ・ミといえば、ソレイユで食パンを買い忘れたことにふと思い当たる。妹はなんというだろう。聞えよがしの愚痴か呆れか。なんにせよ悪態をつかれる未来しか見えないが。

 とまれそのような思考は一旦傍に置き去り、駅を目指す流れに身を委ねよう。

 日差し、汗、酷暑。二つの日傘が互いに間隔を保ち、内側をこちらに見せつつ上手に接触を避けて飛んでいる。太陽は前方にあるので、私たちの前で後退している格好になる。ちょうどいい距離感。人付き合いもこれくらいが気楽でいい。

 ジャングルモックを動かすペースはメトロノームのように周期的なテンポを刻んでいる。隣でともに歩く者がいても遅れも狂いもしない。私たちは言うなれば絹を二枚重ねただけのような関係のもとにあった。人ひとりぶんとしての繊維構造を比較的頑強に備えている私たち二人は、軽く柔軟で、干渉しない間柄であることに一種の心地よさを見出している。互いに。

 布なので、相手の形状に合わせてどこまでも近接できる。しかし他我と自己は明確な境によって分かたれている。

 布なので離れることは容易だ。しかし敢えて留め具は設けない。

 私は私の色と模様で、彼は彼の色と模様のままがよく、それぞれを形作る糸をほつれさせてまで自分の生地に相手の要素を混ぜようとも思わない。もしほどくことがあるなら、それは外界とのインタラクションとして協働で一枚の布を織るときだけだろうと考える。

 それがどういうときかは、具体的には発想できないが。

 県道三号線が横向きに貫く五叉路を正面に迎え、赤信号だからと足を止める。俯いていても、点字ブロックの横で紅蓮に輝いている埋め込み式表示灯を見ていればタイミングを間違うことはない。プログレスバーは徐々に寿命を削り、十分の九、十分の八と縮んでいく。赤い人型シルエットはコミカルに動き続ける。腕時計を覗いたり、腰ポケットから端末を取り出しては仕舞ったりして。

 聞こえるのは車の音、自転車の音、たまにモーターバイクの音。それらが事故も混乱も起こさずに、複雑に統制された秩序の中で流動していく音。相変わらず言葉はなく、駅まではもう道程みちのりで百四十メートルを切っている。しかしそれでいい。こうして言の葉が茂らない時間も、私は嫌いではない。言葉が頭に浮かんだら宙にも浮かべ、頭が空っぽのときは宙も空っぽにしておく。無心は清らかである。それは強迫観念に駆られてまで、他者由来の雑音で満たすような代物ではないはずだ。決して。

 だから学校は苦手なのかも、そんなことをふと独りごちた、そのときだった。

 俺がいるだろ。

 呟いた、否、そう聞こえた気がした声は──青に変わった信号のメロディに上書きされて、曖昧なままに消え去る。余韻すらも爽やかな春風に運び去られて。

 私はハルの顔を覗いたが、彼の視線は私のほうにはなかった。かといってそれは横断歩道の方向にもなく、彼はいま海星ひとで型に道路が収束する交差点の右肩付近で、かつ図に素直に従えば上から下を向いて進んできたという現状で、すなわち青になったばかりの信号がその向きに進むことを勧めているという状態で、その図における右、つまり彼にとっての左を向いている。そして実際そちらに歩き出してしまう。

 言葉にならない言葉が、口から零れた。それは私をたじろがせ、どうやら心が明らかに戸惑ったらしいことを私自身に伝える。

「いまちょっと考えてたんだけどさ、よかったら付き合ってくれないか」

 ハルがそう言ったので、緑に変わった灯りが着々と磨り減っていく中で私は辛うじて問うたのだ。「どこに?」

「すぐそこだよ。わかるだろ、あの青い」

 指された方向には歩道にはみでる形で、黄色地に青文字ののぼり旗が見えた。新旧全品何割引とか、周辺機器がお買い得とか、そのような広告が印字されている。

「パソコンでも買いたいのかね。それともゲームハードとか?」

「いやまぁね、色々と見たいものがあるのですよ。今日ちょうどセールやってるみたいだし、いいかなって思ったわけさ」

「秋葉原でも行けばいいと思うけどな。こんな地方に大したもの売ってないよ」

「いや、業界の不況を乗り切ってまだ経営してるだけの力はある」

「『と、信じたい』が、後ろに足りないんじゃないか? 確かにまぁ、あながち間違ってもないんだろうけどさぁ」

「いいだろどうせ毎日暇してるだろ? 嘉賀城がいると安心して選べるんだよ」

「おぅ、畳み掛けるように無礼な言葉を挟むな。でもいいよ、付いてってやるよ。どうせ毎日暇してますからね」

 私は信号に背を向けた。これで本日二度目。

「さっすが、本当ありがとう。今度一緒に遊んでやるからお楽しみに」

「まったく、ハルのほうが弱いくせに何言ってんだか」

「一年五ヶ月も引き籠ってた人間と一緒にしてもらっちゃ困りますね」

「それで凄腕なんて言ったらゲームで食ってる人に失礼だけどな」

「運営ひとつ立ち行かなくして出禁になってるのにどの口が言えるのかね」

「それ半分くらいは誤解だから」

 私は彼の横に並ぶ。私も彼も前を向いて、しばらくは何事も喋らない。風が吹き、前髪がなびき、視界の画質は低下し、私はそれを掻き分けてやや顎を上げる。日傘が右手に移動しているので空が見える。綿雲が流れている。四次元時空のパン・ドゥ・ミは靴底が歩道のタイルブロックを蹴る音に連動して刻一刻とスライスされ、五台用駐車場を抜けて白と青塗りの店内へ入る頃にはすでに、十二切れ三斤ぶんくらいが消費されている。


 ◇


 何やら揃えたい機材があると言うのでてっきり既製品を見るものだと思っていたのだが、ハルの宣言した行き先はそこではなく、種々の規格対応品を豊富に取り揃えているという三階の部品売り場だった。群馬も片田舎にいうほど立派な取次店があるのだろうか、騙されたと思いつつも非常灯だけが照らす薄暗い階段を足早に上がり、1F、2F、3Fの板を見送る。私は彼の言うようにそれなりに年季の入ったゲーマーではあったものの、必需品のすべてを通販で済ませる性分だったために、この場所には未だお世話になったことがなかったのだ。それはいってしまえばかつての不登校時代に醸成された思考様式の名残であり、つまりはそうした精神の漆黒しっこく期にれてしまった対人恐怖症という名の心の桎梏しっこくではあったものの、現代の便利なライフスタイルに好きなだけ甘えられる世界においては根治するはずもなく、またさせる必要もなく、いまに至るまでそのまま放置されていたのだった。

 あるいはより現実に即して表現するなら、いわば「人なる生物とは等しくそつなく関わりましょう」とでも押し付けたげな一般民的モラルに消極的な意味しか見出せない私とこれだけ近い距離感で接することのできるハルという人間のほうこそ、なかなかに特殊で奇跡的な立ち位置を独占する若き巧者ごうしゃなのかもしれなかった。

 開かれた防火扉をくぐると、真っ白な有機EL照明によってうるさいほどに明るく染められた店内が私たちを出迎える。天井から下がるタグプレートを見れば、デスクトップやラップトップを含めた自作PC用のコーナーがエリアの大半を占めていることが容易に把握できた。

 しかしながら、彼はそちらには目もくれることなく、ヘッドマウントディスプレイ換装パーツの陳列棚へと迷わず歩いていく。

[この店の評判ってどうなの?]

EALLイールによれば悪くはないようですね。都心部の店舗を除けば、顧客満足度は高いランクにあるようですよ」

[上位三つの理由は]

「充実の品揃え、パーツオーダーメイドショップとの強いコネクション、穴場的高揚感のようです」

 なるほど私は合点した。彼は大方「いまのところ普段使いしている機器は買い替えたいが、出費がかさむのである程度自作したい」というような動機で、しかし詳細に関する知識がないため私を同伴させたのだろう。

 水を差すようだが正直なところ、フロアのアシスタントロボに訊くのが最も手っ取り早くて便利な気がしないでもない。とはいえ気心の知れた同年代と喋りながら何かを選ぶほうが楽しげがあるという心理も理解はできるので、私は胸中で彼の行動選択に無理なく賛同の狼煙を上げた。全自分自身に告ぐ、砕けた雰囲気で彼の買い物に淡泊な華を添え賜へ。重いと気持ち悪さで悪寒が走るから要注意。委細承知。

 ずんずん先へと進む彼の背後で、私はおもむろに足を止める。ここで一からすべて購入するのか、あるいはすでに彼の手元には雛形が用意されているのか、それによって私の対応は変わるな──漠然とそのようなことを考えながら、ひとりでに商品の物色を始めた。性能向上のためには何から考慮すべきだろう。最初に考慮すべきはコアの形式か、それとも──。

「おいおいおい、なんでそんなとこで止まってるんだ。勝手に俺の目的察したつもりになってないで、最後までとりあえず付いてきてくれよ。話はそれから」

「え」腰を屈めたまま、思わず顔だけが彼のほうに向く。

ヘッドHマウント  M ディスプレイD関連なのは間違いないけど、ちゃんとプラン立ててあるんだよ。相談したいことも決めてある。まったく零からじゃない」

 はたから見ればそのときの私の目は、きっととびきり間抜けな色を滲ませながら丸くなっていたことだろう。あるいは少々の気恥ずかしさや、ばつの悪さも浮かんでいたかもしれない。

 それは彼が予定を調整していたということに対してではなく、読心していることを読心されたことに対する驚きだった。だがすぐに、彼は基本的に鋭いが、とりわけ自分の思考が読まれることに関しては人一倍敏感に反応する人種なのだということをおもい出した。彼は私の中では決して優秀な観察者には分類されていないけれども、特定の心理状態においては若干自意識過剰の嫌いが窺えるような、健全な男子高校生には分類されていたから。

 というのは、きっと彼にとって彼自身の考える事柄や未来は認知空間の大きな部分を占めていて、だからこそある段階ではまだその世界に適合するはずのない事象が前もって起きた際、すぐその不自然さに気がつけるのであろう、というこちらの勝手な予想に基づく。いまのことに関していえば、「まだ何の部品を揃えたいかは口にしていないのに、嘉賀城はその棚をピンポイントで検討しはじめているようだ。ならば思考が読まれたに違いない」、おそらくそのような具合。

「ほら、他人ひとの考え読んでる暇があったら付いてきてくれって」

 また読心を読心されたようだった。でなければ冗談か、鎌掛けか。いずれにせよこの場は彼が優位だと判断できたので、私はいつの間にか固まっていた視線を彼の鼻の辺りからすっと外し、手に取っていた商品パッケージをそっと陳列棚に戻した。次いで首から下も方向転換させ、大人しく彼の後に付き従う。

 大理石調のセラミック床を靴底がはじき、硬いタップ音が最高に単調な調べの皮を纏って厳粛にき奏でられる。隊列を組んだ軍隊のような気分で、そういえば今日はこの背中を見てばかりだななどと脈絡もなく思った。そのときやおら数ブロック先の通路から白い物体が曲がってきて、私の視線はそちらに移る。見ればそれは第三世代のアシスタントロボで、人に似せることを潔く諦めた御蔭で獲得できた雪達磨ふうのポップな体を振動させながら、静音オムニホイールを転がしてこちらに進んできていた。

 ハルは右腕を控えめに上げ合図して見せる。ロボのツインアイが緑色に光る。

 彼の服のしわが肩甲骨の周りに寄ったが、汗ばんでいたせいか戻らない。

 ロボのボディに浮いた塗装裂傷や染みがぐるぐる回転しているが、因果の螺旋も輪廻もこの世に実在しなければ、廻るメタファーが時を戻したりもしない。


楪葉ゆずりは脩悠はるちか様ですね。はい、ご予約を承っておりますよ。そうですね、お品物はちょうど本日に入荷したようです。お持ちしますので少々お待ちください」


 合成音声とはっきりわかる合成音声のしたほうを見遣る。ロボの胸部では幾つかの製品の概要が表示されては切り替わっていたようだったが、ハルは最後に一度だけ頷くと顔を上げ、カウンターに向かうロボに小さく手を振った。

「商品は手配されていたのですね」

[らしいね、一部かもしれないけれど]

 彼の後ろで私たちは秘密談義を繰り広げる。

「八雲様を連れてきた理由は何なのでしょう」

[それがいまいちよくわからない]

「先に断っておきますが、あのロボットからデータを貰うことはできませんよ。主にセキュリティの問題で」

[そんなことはわかってるよ。流石にそこまで非常識なことは期待してないし、それにどちらにしてもどうせすぐわかることだろうと思うしね]

「そのお言葉、どこまで信用していいのだかわかりかねますけど」

[どういう意味かな]

 所在なくなった私の両の眼球は、気がつけば何の気なしに右斜め上を向いていた。しかし無垢な光にすぐ瞼は閉じ、染みる泪に疲労の皮を無駄に一枚剥かされる。ささくれた心象風景の端に映ったのはそのときちょうどこちらを振り返ったらしいハルの顔だったが、そのまま店内をふらふらと見回していた私の様子に初めての場所への興味を持ったようだと満足したのか、それは最後まで何も言わず正面に向き直ってしまった。

 彼はいま彼の汎用人工知能と、この先の動きの相談でもしているのかもしれない。はたまた頭の中で、私にかける言葉の最終調整をしているのかもしれない。それはこちらからは窺い知れなかったが、相変わらずくうを刺す照明光は煩かった。そのようなことを考えている内、勾玉もどきの微弱な排熱に耳たぶがほんのり温かくなる。神経を集中すれば、動作の瞬間は察せたりするのである。


「そのままの意味ですよ。内閣府公認の潜在的危険因子保持者ペド・シークエンスホルダー様」


 しかしそれは率直にいって、気持ちのよい返答からは最も遠い台詞だった。

[その情報はすでに棄却された虚構だし、そもそもその話はするなと言ってあるだろう]この殻の中のスピントロニクス素子の塊は、いま一体何を考えている?

「あなたが私に名前をくださったときには綺麗さっぱり忘れて差し上げますよ。八雲様」私の脳にイオン流を走らせているこの仮想音声の生成源は、一体何が楽しくて終わった過去を蒸し返している?

[君を脅迫罪で訴えられないのが残念だ]冗談のつもりで言葉を浮かべたのに、想像以上に冷淡なトーンで声が想起されてしまう。だがそれはあるいは正解だったのかもしれない。「私は人ではないのにですか? 仮にするとして、罪状は何でしょう?」例えばこの言葉を聞く限りにおいては。

[──嫌味な訊き方だね。確かに何も罪には問えない。仮に君が人だとしても]

 プログラムの不備かもしれないなどと考えて、私は無理に心を落ち着けた。相当な自由度で自律学習することを義務付けられた汎用人工知能AGIだからこその経験不足であるとか、柔軟で人間味に富むコミュニケーションを実現できるからこそ生まれる必要悪的非礼が暴走したのだとか、可能性だけならいくらでも穏当な理由を考えられる。私は彼女をテンポラリスリープにして無効化してから、対話チャンネルを切り替えて開発元のコールセンターに接続した。問い合わせの窓口に進みフィードバックを送る。例えばそれは、モラルの欠如について。

 対応に出たのも人ではなかったが、極めて丁寧な応対でストレスは溜まらなかった。ただそれは十数年も前に作られた紋切り型人工無能の系統でしかなく、したがって人間により近い思考形式を搭載した耳のAGIよりも、ずっとただの鉄屑に近い。だから人以外の存在に対話可能性を定義することは難しい。それは長い間の課題。さらにいえば、永きに亘る、哲学的な問い。

 チャンネルを元に戻しても、AGIの彼女は黙ったままだった。相談内容が聴かれていた心配などあるはずもないのに、もしかすると裏口バックドアが設けられていて話が筒抜けだったかもしれないとか、被害妄想的な想像が浮かんでは消えていく。

 本当はただ会話の土壌が掃けて静かになっただけだと、わかっているのに。

 なぜならいま、まるでちょうどこちらの会話事情にタイミングを合わせたかのようにしてハルが近づいてきていたから。おそらく偶然に違いなかったが。

 脱力して垂れ下がった彼の両腕の先には、それぞれ色の違う厚紙パッケージが握られている。片方は情熱的な群青色で、もう一方は耽美的な竜胆りんどう色。人の頭より一回りほど大きいその箱はパッケージのデザインから鑑みるにおそらく特注品に思えたし、あるいはもっと特別なもののようにさえ映った。

 店内周回軌道に戻ったアシスタントロボを背にし、満面の笑みで歩を進めてくるハル。彼は竜胆色のほうを私の胸前に突き出して言う。

「これ毎度の通り、百点勝負の連勝記録更新お祝い」

 固まった私を後目しりめに一拍置いて、「て言いたいんだけどさ、驚いてるだろ、だっていつもは大したもの買ってないから」

 耳元で排熱を感じたが、何も聞こえないまま冷える。

 あるいはそれは、私自身の体から生まれた熱だったのかもしれない。

「でもなら何かって言えば、それは勘のいいお前ならもうわかってるはずだよ。ま、ちょっと早いんだけどさ、そこはご愛嬌ってことで」

 呆然と立ち尽くす私の腕を塞がったその手で器用に引っ張り、彼は差し出した薄紫の箱を持たせてくる。それは想像よりも軽量で、重かった。

「本当は明後日に渡すのが筋なんだろうけどその日は学校休みだし、いま二つ合わせて一緒に祝うよ」

 彼は自分の箱を私の箱にぶつけて、笑う。

「嘉賀城、十八歳の誕生日、本当におめでとう」

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