02 » 記号としての騎士王妃、光る腕輪、UNCR構想





 例えば誰かが傷ついて、その理由が自分にあるとわかったなら、きっと当該事象を客観的に捉えて互いの非の比率を正当に評価し、然るべき後に事態解決に乗り出そうとするよりもむしろ、剥き出しの心が動かした真紅の唇から萌え出でた十数の鮮烈な言葉たち、それらが無限大の複雑さを秘める相手の心の中で数度の屈折を経て咀嚼そしゃくされた帰結にその表情や仕草に浮かび上がったいびつな苦悶の紋章もんしょうにこそ心をとらわれるに違いない、と心臓に棲む小さな私が云う。だからこそいまも身を焦がしているのだろうと──骨の髄まで消し炭にするかの如き勢いで盛大にけ盛る、赤黒い慚愧ざんきの心情に。呆れと諦めをおどけで隠したような声色で何かを呟いたクラスメートを背にして、私は静々と教室の扉を開ける。

 思わず肩を落としたのを悟られないよう粛々と、されど力強く。心嚢に、幾つ目とも知れない人間失格の烙印を焼き刻んで。


 彼の声に棘はなかったが、十中八九好意的な言葉ではなかったのだろうと勘繰るには、手元に材料が揃いすぎていた。学級内でほとんど喋らない部類の私は、逆に珍しく何かを言えば角が立つ言葉しか飛ばさないという評判で一部では名が通っているのだということを、哀れにも私自身が熟知していたから。

 もし相手方に不快な思いをさせていたなら、あるいは自分に対して何かしらの悪い感情を抱かせていたならと考えただけで、居たたまれなさと申し訳なさが同時に胸に押し寄せた。八方美人を強いるような人付き合いは得意ではない。だから普段はほとんど話さないようにしているのに、時折話せば話したで、かえってそれまでに溜め込んでいた些細な自己顕示欲の積み重ねが発露してしまう。

 もう教師の顔も発言主の顔も見えないが、二人とも憐れむような表情で困ったようにはにかんでいるのだろうかと考えただけで、心に小さな憂鬱が渦巻いた。

 もし彼らが想像通りの顔をしていたなら、そしてその顔を実際に見てしまったなら、その裏に潜んだ感情が正であれ負であれ、あるいはその混合であれ、私はまたひとつ石を積み損ねたと感じてしまうだろう。対人関係を円滑に進めるための、御百度参り的な丸くすべらかな心の河原石を。その大事な印が石段を転げて落ちていくのを目に焼き付けるのは、つらい。だから私は振り返らない。


 ザックの中に眠る定期考査満点答案の束の価値が、急速に褪せていく。これがあらゆる細かな軋轢の原因。客観的に見れば私がその些細な自尊心を薄い胸の内に仕舞えばよかっただけなのかもしれないし、あるいは声をかけてきた体裁上の級友が狭量だっただけなのかもしれない。だがその真偽はわかりようがないし、敢えてわかろうとも思えなかった。考えれば考えるほど人と繋がりを持つことが苦しくなっていく。そして苛立ちと悲しさから奥歯を食い縛るが、感情の捌け口も遣り場もないから鈍器で軽く叩かれたような痛みだけが残るのだ。しかしこれはある意味で日常茶飯事。私こと模範的な人間になり損ねた愚者は、人との関わり合いにおいて経験からまったく学習しない。EQテストを受ければ間違いなく人生の赤点を叩き出すだろう。余計なことを言わなければいいのに、実際に言うまでその余計が何か理解できないから、今日も今日とてくだらぬ失態で自他の心に陰を落とす。心は終わらない日蝕。もちろん金環ではないほうの。

 レールを二歩踏み越えて後ろ手に引き戸を閉め切ると、真夏の熱気と湿気に満ち満ちた蒸し暑い廊下に躍り出た。当たっては跳ね返る空気分子が恐れを知らずに突進し、私の体を温めてくる。お前たちはいいよな、人間は当たったら砕けちゃうんだぜ。時と場合によっては。

 何気ない平穏。その甘美な響きに、私だって一度くらいは浸ってみたかった。

 それだけの学校生活だった。


 圧電素子が埋め込まれたCNF直交集成板床コンフィグ・クルト・フローリングを一歩ずつ踏みしめながら、汗で重くなったカッターシャツのボタンをひとつ、またひとつと解放する。

 単調に乾いたタップ音を聴くたび、昔の大衆小説から知識としてのみ知っているリノリウムなどという素材への憧憬が増すが──床を表現するにあたってなぜか確固たる地位を築いていたそれはともすればとうの昔にただの象徴に昇華していて、あるいは成り下がっていて、その詳細な材質などもはや関心の範囲外でありながら言葉が一人歩きしていたのかもしれないなどと思いもする──とはいえこの暑さが解消できぬうちは、床素材への興味など二の次でしかないのだが。

 学生の本分をまっとうするために勉学に励む部屋、すなわち教室たる空間には空調管理が行き届いていてもらわねば困るわけだが、廊下のような連絡通路となると必ずしもそうはいえないわけで。

 私の通っているような公立高校などどこも資金難に喘いでいるのが常なので、私立でもない校舎が未だに一部で原始的な造りをしていない道理はない。そもそも有限資源の浪費が許容されるほど高効率な循環型超文明は未だ誕生していないし、あるいは自暴自棄にすべてを無駄遣いしたくなるほど終末様な世界にも私たちは住んでいないのだ。贅沢はできない。

 私たち多感な時期のティーンエイジャーはさしずめ、「汝、全施設冷暖房完備の何某なにがしかの組織に所属したいと願うならば、人類の未来に貢献できる程度には優秀な人材になり賜えよ」と発破をかけられているのだろう。早いところ学業を修めて、後は整った環境で研究に没頭するなり就職するなり自由にしろということなのだ。そうでなければ、いまや国内すべての小中大学校が不安定な外界の天候と無縁になったこの社会において、高校生だけが真夏の太陽の遊び相手になっている理由がわからない。嗚呼、あらゆる感情を差し置いてただただ暑い。しかし教室に舞い戻るという選択肢は当然ながら却下されている。つい十数秒前に振り返ることさえ躊躇したというのに、いわんや再入室をや。


 進め、刻夏の大学受験生。私たちは多感な時期なのだ。


 首や背筋に滝のように塩水が流れ込んでくるが、こればかりはもう仕方がないので黙認する。制服は所詮ただの布切れで、ハイテクなクールビズはサラリーマンにでもならないと実践できない。ところでいまは何度なのだろう──と、そう思うが早いか遅いか、「この場所では摂氏三十七・三度C、また下沖町の地域平均は三十六・九度Cです。やはり建物内は熱が籠りますね」などと、音の感覚世界に直接干渉して声がする。難なく現実の音と混ざり合い、霧散して。

 それは喩えるなら、宵闇に並んだ定食屋か何かの店外待ちの列で、前に立つ連れに話しかけられたときのような感覚。距離感も、音量も。

 ただあまりに声が澄み渡りすぎるせいで、逆に実世界から浮いているのだが。

[あれ、心の声が漏れてた? いま]

 羽根のように軽いその声の持ち主に、私は思わずそう問いかけた。口は動かさず、頭の中で。「ええ、それはもう思い切り辟易した感じが伝わってきましたよ、八雲様」と、すかさず返事が脳に届く。すなわち彼女はそういう用途で開発された機械で、言うなれば人の心の声を読み取ったり、頭に直接話しかけたりできる汎用人工知能である。もちろん実際はそんなに単純な話ではないのだけれど。

 棲んでいる場所は両耳の裏側の付け根。そこに八尺瓊勾玉やさかにのまがたまのような流線形の機器が柔らかく取り付けられていて、彼女はその殻の中に搭載されている。

[そっか、教えてくれてありがとう。ついでだけど、一時間後の高崎がどんな感じか聞いてもいいかな]運動場で走り込みをしているどこかの部活動を窓越しに見遣りながら、私は自宅周辺の地域の予報も尋ねてみる。

「群馬県内での地域差はあまりありませんが、時間による低下は予想されます。ですがせいぜい四度Cほどの振れ幅です。一割強、ですか」

[ありがとう。いや、それで十分。体感で四度は大きいんだよ、少し寒いくらい]

「そうなのですか。まぁQOLに関する統計でも参照すれば知識としては知りえるのですけど」相槌を打った後も声は続く。「……なるほど、一時間で四度も低下したら風邪を引く方もいるのですか。これは失言でした」

 数ヶ月前に満を辞して世に台頭したばかりの彼女のシリーズがこの程度のことを理解していないはずはないのだが、今回のようにわざとらしく知らぬ振りをしたことに何らかの意図があったのかは、私にはさっぱりわからなかった。

 あるいはまるで気を引こうとしたかのようにさえ映るこの言動が、何かを意味していたのかということすらも。

「ともあれその辺りの感覚は身体のない私にはわかりかねますが、今後の対話の参考くらいにはしておきます」

 あるいはそれは、ともすれば人の心がわからないという私の欠点が皮肉にも機械によって浮き彫りになっているだけなのかもしれなかった。

 人に寄り添うよう設計された対話型AIとでさえこの調子なのだから、対人関係が円滑にいかぬのも納得だな、などとふと思ってしまい無性に哀しくなる。ただ彼女の諸々の表現に引っかかる箇所があったので、それだけは素直にフィードバックを試みようと考えた。[なんだかな、その感じ。参考にしますって言い切ったほうが、可愛げがあると思うよ]

「いつかあなたが名前をくださった暁に あかつき は、丸くなることも含めて考えてあげないこともないですよ」すると彼女も痛いところを突いてくるのだった。

 蛇腹の如く折れくだる階段を踏み鳴らしながら、私は何か上手い逃げ口上はないかと思案しはじめる。

[ふむ、またそれか。自分で好きに名乗ってくれていいって言ってるのに]

 彼女に名を与えないのには特に理由もなく、それはただ単に意地のようなものでしかなかった。あるいは所有者になった頃になんとなく先送りにしたきり、ずっと面倒さが優っていたからというべきかもしれない。

 それゆえに説明するのも路線変更するのも内心億劫で、いつもこうして言い訳ばかり探している。彼女には申し訳ないと思うのだが。

「また難しいことをさらりと言いますね。自分で自分自身のアイデンティティを規定するのは結構大変なことなんですよ? タスク的にはそれは楽勝ですが、なんだかこう、色々と考えてしまって。ほら、名前は後から変えられないですし」

[そんなこと言われたらこっちだって益々つけづらくなるでしょうが]

「むしろなぜそれほどいつも拒むのです? 他の皆さんは嬉々としてつけていらっしゃるというのに。ほら、いますれ違った人だってアーサー王なんて素敵な名前を……え、王までがお名前なんですか。それはちょっと……御愁傷、様です」

 どうやら彼女は他の生徒が身につけていた汎用人工知能と会話をしたようで、図らずもセンスのない名付けに潜む危険性に触れて意気消沈していた。好都合。

[それはいい。折角だからこの機に君のことは王妃グィネヴィアと名付けよう]

「いえ、最高に丁重にお断りいたします」

[残念]

「不義の恋で円卓の騎士に亀裂を入れた女性の名前など付けないでください」

[婉曲的な表現しちゃって。要するに不倫じゃん]

「最悪です」

[ま、なんやかんやで名付けってのは難しいものだよ。この話は終わり]そう言ってやんわりと会話を切った。


 ちょうど最後の階段を降りて一階の生徒玄関が見えたところだったので、自分に割り当てられた番号のロッカーボックスまで足早に歩みを進め、前に立つ。左利きの利用者向けに右手で開けられるようになっているその箱の扉に指をかけると、右腕の橈骨茎状突 とうこつけいじょう 起、あるいは踝の くるぶし 手首バージョンとでもいうべき出っ張りに綺麗にフィットするよう嵌められているチタン合金製の腕輪が半分だけ抹茶色に光り、点灯状態を保持しはじめた。上から見るとXの中心に横棒を挟んだような形状で、ミュラー・リヤー錯視で長く見えるほうの棒にそっくりである。同時にロッカーの錠が解除され、朝焼けの如き曙色をしたメレルのジャングルモックが立ち現れる。内履きとそのローカットピッグスキンレザーを履き替えた私は、短く息を整えて扉を閉じた。

 目の前で灯る自動施錠ランプバー。鼻先で光るX字型ブレスレット。腕輪の抹茶緑に光っていた部分は暗くなり、残りの半分は山吹色に光る。しかしすぐにその和風な黄色も消え、暗さが手首を染めた。抹茶は腕輪と他の機器との接続に反応して光る色なので、何かと接続しているあいだは常に点灯しているが、山吹はその逆、つまり接続が切れたことに対応して光る色なので、アクセス遮断を示すために明滅したらそれでおしまいだから。

 魂を連れた肉体が生徒玄関を抜ける。他の生徒が革靴を鳴らすなか、私だけが音も立てずに石造りの階段を下りていく。腕輪より肘側に通してあったシックなベージュの腕時計が十六時四分を刻み、腕輪は今日の学校生活の総集編とでも言いたげにしきりに山吹色に光る。そしてもう半分は何の反応もしない──と思えばすぐに緑に色付き、歩を進めるたびに何度も明滅する。幾度も、幾度も。

 この腕輪は決してロッカーの鍵番などといった特定用途向けの機器ではなく、もっと広範な存在意義を持つ最先端技術の結晶。様々な測定方法を駆使して腕から安全かつ迅速に生体情報を集め、半径三十メートル程度以内で交信可能な他の機器と超並列的に繋がり、リアルタイムかつ匿名で情報提供する、医療関連ネットワークの大事な中枢ハブ

 この社会の、小さな立役者。


 ◇


 UNCR構想、という言葉がある。

 それは社会生活が営まれる場としての街や都市を丸ごとたったひとつのネットワークの枠組みに取り入れることで、いかなる階級に属する人々の暮らしもより豊かに、円滑に、高効率に、そして高予測的にしようという都市開発の構想である。頭文字は Ubiquitousユビクィタス・ Networkingネットワーキング・ Citiesシティズ・ withウィズ・ Roboticsロボティクス ちなんでいて、二十世紀末から脈々と提唱されてきた「ユビキタス」系列の社会構想の中で最も現代的な立ち位置にある。純粋な人工知能研究では何十年間も他国の背中を追うことしかできなかった日本が、自国の強みとして長年かろうじて維持し続けていたロボット工学の観点からアプローチをかけ、約二年半前に掲げたものだ。煩雑かつ無秩序に高度情報成長を遂げていく世界情勢に歯止めをかけ、その混沌とした経済基盤を統合することで、国内の生活の質を高めるために。

 世界各国を見渡せば、先進国はどこも似たような構想を打ち立てている。だがどこかとどこかが仲良く手を取り合うということは極めて稀で、国境という区切りは未だになくならないし、競争も戦争も紛争も消えはしない。あるいは、すべての蒼氓そうぼうに行政が最低限の生活水準を保証するというベーシックインカムの考え方もあちらこちらの国で普及したが、そのような強い国家主義の縛りの中でさえ世界規模の資本主義はそう易々と息絶えてはいない。競争は人の本質だからだろう。緩やかになったとはいえ未だ金銭は人々にとって重要な財産だし、人生を華やかにするものだ。命ほどの価値はもうないだけで。

 錆びた校門を抜けて帰途に就いた私は、基本的には雨具として携帯しているドローン・アンブレラを日傘モードにして頭上に浮遊させた。直射日光を遮れるだけで幾分もありがたい。温暖化は虚偽だとうそぶいていたのはどこの誰だ、と文句を言いたくもなるくらいには近頃の夏は暑いのである。国連気候変動に関する政府間パネルが発表していた、最悪のシナリオ通り。むろん純粋な温室効果ガスの影響だけではなくて、異常気象の寄与も多分にあるのだろうけれど。


 汗と愚痴とを交互に垂れ流しながら、焼けただれたようなアスファルトの路肩を真っ直ぐ進む。浮遊傘は、歩行のぶれや速度変化も含めて寸分違わず私を予測追尾し、安定して影で覆ってくれる。そんな気休めの快適空間の中で私はふと、いま手先で振り子運動をしているブレスレットがなければ、この機能ひとつとっても安価に実用化されることはなかっただろうな、と考える。

 例えば傘自体に搭載されたカメラの映像や加速度センサーの情報だけを頼りにして、利用者が効果的に日陰に入っているかどうかを判定するアルゴリズムを用意しなければならなかったなら、傘の下にいる人が実際に感じる涼しさとその基準にどれほど相関があるのかを事前に調べなければならなかっただろう。そしてもし相関が低かったり、個人差があったり、あるいは状況によりけりだと判明すれば、どれほど技術が向上しても性能は頭打ちになっていたかもしれない。

 しかし実際にはブレスレットから常に伝達される心拍や発汗の情報の御蔭で、何かから間接的に探るよりも「当人が涼しくなっている」という判断がずっと容易になっている。そうなれば後は、諸々の情報を深層学習ディープラーニングや強化学習を組み合わせたDQN系のフレームワークにでも適当に投入すればいい。それだけで傘は勝手に賢くなって、利用者専用にスペシャライズされていく。

 十字路で立ち止まった私の横を自律走行車が通り抜けては、ぬるい微風が服に入る。電柱に取り付けられた物言わぬ街灯は、生体反応から路地を通る人の数を静かにカウントしている。その明かりに併設されていることが多い定置監視エージェントは、動画認識にとどまらず腕輪から得られる通行人の興奮状態等を考慮に入れることで、犯罪の事前抑制に大きく貢献している。遠目に見える自動販売機にも、露店にも、立派な建物にも、あらゆる情報は匿名か非匿名かに関わらず、絶えずこの社会を飛び交っている。この市街地を含めた日本国土の約二割の地域ではいまやどんなに些細な機械もUNCR構想のネットワークの内側にあるし、機械に限らず様々な非機械的物質、生き物、果ては社会運営の仕組みや構造までもがそうした目に見えない糸で繋がっている。もちろん私たち、人も。


 車の流れが止んだのを確認して細い路を渡る。右を向くと片道一車線の道路を挟んで真向かいに全国チェーンのハンバーガー屋があり、このまま進行方向に少し行けば左手にはビルに挟まれて個人経営のベーカリーが入っている。

 横断歩道は青、どちらにしようか迅考した結果、私は向きを変えないまま爪先を浮かせて信号を見送った。

 紅炎の装飾があしらわれたウィンドチャイムをしゃららんと揺らし、アンティーク調の扉をゆっくりと押し開ける。同瞬、ドアノブにかけた手から抹茶緑の光が放たれ、数度明滅し、ライトオンの状態がキープされた。戸枠上部のドームカメラとでも接続したのだろう。あるいは空調か何かかもしれない。

 相手方は腕輪と違い、何か目に見えて反応するということはないから、あくまで経験から来る推測でしかないが──。

 私は何も気にせずにトレーに手を伸ばし、金属製のトングを二度ほど癖でカチカチと鳴らしてから、棚に並んだ熱々のパンたちの吟味を始める。

 ブレスレットが何と通信したかは私の個人データクラウドに逐一記録されているし、スマートフォンを見たり耳に取り付けた汎用人工知能の彼女に聞いたりすればその確認は可能ではあるのだが、だからと言ってそれは日に百件も千件も蓄積されるようなリストの中でとりわけ知りたい事柄でもないので、頭の中に占める行動優先順位としては限りなく低い。SNS等の情報と違い自分で扱いようのないバイオインフォメーションなど、誰でも好きなだけ搾取してくれればいい。

 そもそも腕輪から飛ばされるデータは匿名化に加えて幾重にも階層的に保護処理が施されているし、前提条件として莫大な量の情報に取り巻かれて生きている私たち現代人に、個人の尊厳や肖像権を侵す範囲以外でもプライバシーを守らねばという危機意識はそれほど過剰にはないのである。だからある意味で極めて個人的なデータである生体情報を社会中から参照されることに抵抗はないし、それがどこに提供されていようと歯牙にも掛けない。

 それで巧く社会が回るのだから。

 それで美味しい食事が手に入るのだから。

 それで上手く、この世界の中で生きていられるのだから。

 私は半端な時間帯にも関わらず客でひしめく店内を二周し、結局いつもと変わらぬ品々を揃えてカウンターに身を寄せた。香ばしいチョコスコーン、細かなざらつきが唇に心地いいあんドーナツ、クリームチーズが濃厚さを演出する栗と焼き林檎のセサミバゲット、揚げたての衣に幸せを感じるカレーパン、皮の軽妙な焼き加減と中の生地のもちっとした柔らかさが病みつきになるシンプルなバターロールを幾つか、それに香辛料と抜群に相性がいいジグザグしたソーセージエピ──エトセトラ、エトセトラ──運動など滅多にしない割に胃袋だけは大きいので、これくらいは朝飯前に平らげられる。いや、どちらかと言えばいまは夕飯前だけれど。


 レジ打ち音がしているあいだ、私は茫漠と奥の部屋を覗いていた。敷地的に小さなこの店は非常にオープンな雰囲気作りに成功していて、パンを作っている工程がじかに見えるようにとのサービス精神か、こちらと作業室とを隔てる壁の上半分はほとんどが透明になっているのである。見えるのはいまどき珍しくもない機械だらけの空間と、しかしその中で手際よく何かをしている職人たちの姿。資金的に余裕がないのか未だに人力を借りているこの店ではあるが、それがパンを焼ける者がいない他の多くのパン屋とは違う味の魅力を生み出している、改めてそう思わされる。少なくとも彼らは誇りを持って仕事に望んでいるのだろうと、その仕草や表情、ときたま聞こえる掛け声の調子から理解できた。

 会計の人が焼きたてを別袋にしようとするのを手で制し、軽く頭を下げて商品が入った袋を受け取る。食べ歩くことを考慮すればひとつが扱いやすい。

 扉の取っ手に指をかけたとき、私はもう一度頭を下げた。心と目を閉じて、その数秒だけは無心になって。


「やっぱり今回も来たのか変態。ほんと変態だよお前」


 店を出ると唐突に声がした。

 ビル風に揺られ、ウィンドチャイムが涼しげな音を立てている。炎天下の駐車場には、ぼやける車は認められても人影は見当たらない。

 もしやと思い、玄関扉を正面から閉じた形ですぐ右手奥、赤茶けた煉瓦の外壁に隣接するウッドデッキのほうを見遣ると、普段は誰もいないその場所に男が腰掛けていた。ほとんどムードメイキング用のオブジェと化しているような、テーブルひとつに椅子二つだけの小ぢんまりとした屋外席。ワインレッドと黒が縦縞に走るオーニングが柔らかに日差しを遮り、彼の顔には藍碧らんぺきの影が落ちている。

 しかし一言聞けば、その声の主が誰かくらい瞬時にわかった。


「ハル。お前こそ今日も跡をつけて来たのかよ、相も変わらず暇人だな」 


 上空の風が雲々をぐ。街は隅々まで、隈なく眩しく統べられていく。

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