第弌話 » 一なる意識に共存する私と僕、巨視的と微視的な二種類の離散性リエゾン、あるいは黒筐に眠る世界五分前仮説的な何かのセゾン

Track01 "Show me your justice", said the boy inside my head.

01 » 反芻した。終わりが終わった、と。





 例えば私が傷ついて、都会の喧騒から心理的に遠く離れた水族館にセンチメンタルにも癒しを求めようとしたなら、きっと珍しい生き物や生命起源の神秘に想いを馳せる時間などよりもむしろ、剥き出しの鉄筋でできた漆黒の天井から真っ直ぐ投下される数百の白い億燭燈あかり、それらが数十の魚影横切る水槽を数度の屈折を経て透過した帰結に壁や床に浮かび上がる極光似オーロラライクな薄光の紋様にこそ心を奪われるに違いない、と頭蓋骨の中の小さな私が云う。だからこそいまも見惚れているのだろうと──すでに光子に満ち溢れた仲夏の教室をもゆらゆらと揺蕩たゆたう、鈍い光の戯れに。窓辺に垂れた光の雫、誰かのシャープペンシルがちりばめた天井の光の舞踏会、カーテン越しの陽光が壁に織りなす単色のタペストリー、皆が皆揃って煌々と、かつ白く皓々こうこうと輝いている。彼はわらう。

 それらすべての存在の御蔭でやっと、私は私の席からは見えない夏の銀の粒がいまも蒼穹に君臨していることを、確かに知ることができるのだと。

 やおらドの音が白日調和を叩き割り、失笑が漏れるほど異様に荘厳な音色で、最後の鐘が鳴る。しかし不思議と心に響かない、無機質な旋律を従えて。

 もはや奇跡とも思える不整合。上辺の聴き心地ばかりをいじっていないで、惰性で続くメロディの方を変えるべきだと思うのだが、浅学せんがくだろうか。律儀に響かれているものなど、いまとなってはもうどうせ空気ぐらいだというのに。

 自慢にもならないほど細く真っ白な十指で紙類を掴み、持ち上げる。そこからプリントだけを選別し、それらを神経質に四辺すべてで整え、ファイルの角にぴたりと合わせてから奥まで押し込めた。

 机の中身と机上に散らばっていた教材たちはまとめてザックに仕舞い込まれ、二つのスライダーがファスナーの端で出逢ったのを幕引きに、仲良く光を失う。

 終業だ。帰ろう。

 机の縁に両手を乗せ、前傾姿勢気味に体重をかける──しかし僅かに腰が浮いた刹那、なぜか不思議と鬱屈とした気分に襲われて、私は思わず動きを止めた。

 感じるのは胸骨が過剰に圧迫されるような若干の抑圧感。思えば一向に聞こえてこない高校生らしい喧騒。対照的に未だ鳴り止まない古風なチャイムベル。それとなく辺りを見回すと、誰も席を立つ気配を見せていないことに気付く。

 直前の授業担当は未だ彫刻像よろしく腕を組み、無表情に腕時計を見つめているが、よもや皆そのせいで動き出すのを躊躇ためらっているのだろうか。

 なんだこの不毛な雰囲気。

 弱冷風が頬の産毛を縫ってそよぐ。顔が熱くなっている。このようなときは初めの動きさえあれば後ろが続くことは理解している。しかし私がその初めのひとりになるのは些かならず気が引けた。そうまでして早く帰りたい、甲斐性のない人間には思われたくない。それは不服だ。

 そもそもただでさえ学級活動に消極的な人間にとって、くだらないことで株が下がるのは致命的。個人の瑣末さまつな欲求だけは、積極的に自重するに限る。

 そんな時間にして一瞬の熟考の末、私は元から立とうとした事実さえなかったかのようにそっと、自席につき直した。同瞬、絶妙な空気椅子の姿勢に密かに限界を迎えていた貧弱な大腿筋と腹筋たちが解放を喜び合い、大群の乳酸を発散しはじめる。

 大音量の鐘が実効支配した空間は、教師が号令を命ずる気概すらも、生徒が騒ぎ出す気力すらも、等しく虚無にし蓋をしている。

 なんと迷惑で、退屈な数十秒か。

 足先を閉じたり開いたりしながら溜息を短く切り、肩をほぐすために首を回す。そしてふと考えてしまう──お前はどうしてこうも無駄に長いのだ、ウェストミンスターの鐘よ、と。

 些細な心のささくれが、罪なき十九世紀のオルガニストに喰ってかかる。私の知る限りこの開始と終了のための合図はいつだって、時間軸上にのびのび線を引いて寛がなかったためしがない。時間枠の区切りというたかが一瞬を伝える目的で採用された使命など、もう清々しいくらいに無視である。

 数秒で鳴り止めばいいというのに、間延びした音を締まりなく反響させては静寂。余韻が引ききる前に、無風流にも主張を上書きするソレミド。ああ、いまやっと七小節目、四回目の繰り返しがはじまった。

 終わりとは一点に定義される概念ではなかったのか。ならばこの号令は、果たしてどこをその一点として抽出すればよいのだろう。


「はい、じゃあ終わって」

「起立、礼」


 だがそんなことを考えているうち、いつの間にか当の鐘は残響ごと姿を消していた。新しく生成され続ける現在いまが今日の全課程を過去に押し流し切り、クラスはあっという間に放課後を迎えている。

 抜けていた音声端子をテレビに挿した瞬間の爆音のように、誤って引き抜いた防犯ブザーのように。

 賑やかな雑踏が無遠慮に空気を割り、終わりが終わったと私に教えてくれる。

 溜息にもなれない小さな息を、またひとつ。左からザックを背負い上げ、右腕を通すために肘を曲げる。そのときふと反芻した。終わりが終わった、と。

 考えてみれば、そうした表現を創作シーンで見かけることだってしばしばあるわけで。なんだかそれがマジョリティだったらと考えた途端、終わりが幅を有していてもおかしくない気がしてきた。怖きかな、多数派同調バイアス。

 ただそれならそれで、そもそも気まずく動きを止めた空間には時間など流れていないも同然だという気も、しないことはないのだが。

 小さい頃に読んだ科学雑誌で、どこかの偉い教授が言っていたのを思い出す。「宇宙はこのまま歳を重ね続ける。しかしブラックホールの蒸発も確認できなくなった遙かな未来まで考えるなら、宇宙は飛び交う光子のみに満たされ、物質の動きはないと見做せるようになるだろう。そこまで行けば、確かに時は止まると考えてもよさそうだ」


「悪いけど先に机運んでくんないかな」


 突然の声に思わず背筋が伸びた。はっとして横を見れば、またしても気付かぬうち、役割もはっきりしないままに掃除がはじまっている。たまたま見据えた視線の先、前から二番目あたりの席では、黙々と読書していた女子が慌てて鞄に本を突っ込んでいた。その隣には先程の声の主が立っている。

 自分に向けられた声ではなかったのか、よかった。私はほっと胸を撫で下ろすと、前席のクラスメイトに続いてガタガタと机を動かしはじめる。

 誰がほうきをするかで揉めている掃除当番たち。立てかけてあった壁を滑り伝い、耳障りな音を立てるモップの柄。こればかりは年中変わらぬ光景。空っぽになった教室後方では、窓から差し込む陽気が舞い散る埃を神秘的に輝かせている。仕方がない、誰もいなくたって教室は毎日汚れるのだから。

 清掃中のエリアを横切るのを申し訳なく思い、私は狭い机の隙間を縫って教室前方に躍り出る。するとまだ教壇にくだんの数学教師がいたので、できるだけ自然な表情でこんなことを言ってやった。


「暗記ゲーじゃつまんないって言ってるじゃないですか、先生。次もこんなんじゃまた勝ちますよ」

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