𝔓𝔯𝔢𝔣𝔞𝔠𝔢 » 序





 とあるひとつの壮大な、それでいてとびきり個人的でもある旅の終わりに、私はいま筆を執っている。

 この手記の執筆動機はあまりに複雑すぎて、ここで一度に説明するのは大変に難しいのだけれど──しかしそれはまたあまりに純朴すぎて、あるいは敬虔けいけんな現実主義者からは失笑を買う類のものなのかもしれない。

 これは私自身が自らのために半生を振り返る日記であり、心の最奥に棲まわせた最愛の女性に辿り着くための回顧録であり、世紀を跨ぐ世界の年代記クロニクルであり、そしてまた過去と未来の双方へ託す、私からのささやかな贈り物ギフトでもある。


 あるいは身も蓋もない事実関係のもとで刻まれゆく一編の語りを具象化するなら、これは「個人の数的同一性アイデンティティを規定する何某かの形而上学的要請」と「意識の時空間連続性」との相関、ひいては「魂」なる幻影の科学的取り扱いを追窮し続けたある研究者たちへの哀悼詩である、そういって差し支えないように思う。


 それからこれはもちろん顔も知らない誰か、すなわち潜在的な読者を想定して書かれる類の書物でもある。だが願わくば筆を預かった者としてひとつだけ註釈を加える許しを乞えるのなら、私はとある入り組んだ事情によってこの手記を、記録を、私が最も苦手とする個人的な独白然に仕立て上げなければならないのだということを予め告白しておきたい。

 つまりこれからこの手記は、決して不特定多数に語りかける形式で記されることはなく──むしろ非常に内面的な部分を小さな万華鏡と虫眼鏡を用いてつぶさに複写観察するかのような、極めて特殊な独り語りの皮を被らなければならないのだということを、あるいはまた潜在的な読者の前にただひとりだけ想定されている特殊な読者が存在することを、そして誰よりもまずその人物に向けて書かれるこの手記は、そういうふうに私が私を内面から綴り、それでいて私が私を現象的事実として俯瞰する視点で紡ぐよう束縛されているのだということを、これを読んでいるあなたに告白したい。


 そうした制約のもとで、この命と記憶は繋がれる。連綿と、粛々と。


 私はいま目を閉じきって、何も見えない闇の中で言葉を紡いでいる。周りに私以外の人の存在はない。静かに稼働する機械の息吹と温もりだけがここにある。

 もうすぐに風景や音も蘇り、永く遠い記憶の上映会が始まるだろう。それらは私の言葉とは別の経路で精密に鮮やかに、つつがなく記録され、この世界のどこかの抽斗ひきだしに密かに仕舞われるはずだ。

 しかしその記憶のフィルムを眺めながら、私は先に述べたように自身の言の霊で回顧録を、私という意識主体の歩みを、漸進と前進を、私という存在の存在証明を、紡がなければならない。

 その想いや内なる声もまた有用な形で精査され、未来への糧、鍵になるから。

 そしてそれはこの数奇な人生のなかで、たった一度だけ心に棲むことを許した女性に、もう一度辿り着くことに──いまは手の届かないところに眠る彼女を、生身のままでもう一度この腕の中に取り戻すことに、繋がるから。


 そうした誓約の許で、この白亜の世界に一縷いちるの光が刻まれる。

 壁に穿ち抜いた点穴が、最後には星座をかたどるように。


 外の世界では半世紀前に先送りにした様々なことを前に進める糸口がいま、かつて期待されていた通りに見つかっているだろうか。

 そのために割れんばかりの歓喜の声が、ひっそりと上がっているだろうか。

 それとも真理は未だ人が手を伸ばした先よりもずっと、ずっと遠いところにあったのだと、一世一代の博打に敗れた敗者たちが砕け落ちた宝石を前に、むせび泣いていたりするのだろうか。望むらくは前者であってほしいと想い希う。

 すべての記録が終わったとき、私はほとんどすべての記憶を失い──二度目の精神的な死を迎え、二度目の人格的な輪廻を経験するだろう。


 そのときこの旅の終着点は、紛れもなく新たな旅の出立点に姿を変えるんだ。

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