我輩は本である 〜白紙が紙くずになるまで〜
波野發作
第1話 企画書はA4で2枚で
我輩は本である。名前はまだない。たぶんかなりギリギリになるまで決まらない。
ここは本の街で有名なあの駅から歩けるところにある小さなビルだ。古いか新しいか言うといろいろまずいので言わない。雑居ビルではない。創業者が遺産相続対策のために建てた自社ビルらしいが定かではない。そもそも、本である我輩には関係がない。
会議室のドアが開いて、受付の新人社員に案内されて一人の若者が入ってきた。中肉中背の男だ。若者かどうかは微妙ではあるが、まあ若い部類だろう。ジーンズにポロシャツというイデタチで、足元はあまり高くなさそうなスニーカーを履いている。肩からかけているPCバッグはパンパンに膨らんでいて、見るからに重そうだ。
ドアを開けたまま、打ち合わせテーブルの椅子に座った。そこは上座ではない。こういうときは来客者は立場に関係なく上座に座るのが世界の常識であるが、この業界ではそんな常識は通用しない。出入り業者は下座に座るのだ。
若者が15分ほどスマホをいじって待っていると、この会社の社員である中年男性が現れた。中年であるが少し若々しくもある。メタボリックな体型ではない。彼もジーンズにポロシャツだが、若者が全身ユニクロなのに対して、もう少し高いブランドで揃えている。足元も若者のものの3倍の値段のスニーカーだ。
「いやあ、申し訳ない。ちょうど入稿タイミングだったんだよ」
「いえ、全然」
待たせた方に悪びれた様子はなく、待たされた方もヘラヘラとしている。若者は実は内心はスマホゲームを中断したので、もう少し遅くてもよかったと思っていた。
「すみません、お時間いただきまして」
「ああ、いいよ全然。社長さんは今日は?」
「すみません、今日は私だけになりました。別件で呼ばれまして」
「ああ、そう。大変だねえ」
何で呼ばれたかだいたい察しがついたらしい。それ以上話題にはしなかった。
この若い方の男は編集プロダクションの社員である。編集プロダクションとは、出版社から書籍の制作を下請けして、中身を全部作って収めるのが業務の企業のことである。普通は社員数10名以下の零細企業だ。若者の会社も彼を含めて8名しかいない。社長と経理を除くと6名である。そこは主にビジネス書や自己啓発書を得意とする会社であるが、依頼があればだいたいどんな本でも受注する編プロだった。彼は制作を担当する編集者だ。実用書の制作をすべて仕切るのが仕事である。たまに原稿も書くことがある。編集制作者とでもいうべきだろうか。まあ編集者でいいか。
一方遅れて入ってきた中年男性は、この建物の会社の社員である。ここはそこそこ老舗でそこそこ名の知られている出版社である。出版社は業界用語で版元という。江戸時代からずっと版元という。そして編集部の人間である。つまり版元の編集者だ。担当は実用書関連であり、先ほど入稿したのは来月新たに店頭にならぶ予定のダイエット本である。監修者のゴーサインがなかなか出なくて時間が押してしまったのだった。が手離れしたので今は開放感で一杯だった。
彼らは二人とも「編集者」であるが、その仕事内容は全くちがう。編集者とは、会社員や公務員と同じぐらい広義の言葉なのである。
「えと、今日は企画書持ってきてくれるんだったよね」
「はい、そうです。御社に合いそうなものをいくつかお持ちしました」
若者はPCバッグから消防庁のクリアファイルを取り出して、中身の書類を社員に差し出した。彼は消防庁とは全然関係ない。たまたま取材した相手からもらったものを愛用しているだけだ。ホチキスで2枚ずつまとめられた書類は5種類あった。これらは企画書である。実用書の企画提案が書かれているものだ。A4用紙タテに文字だけで、タイトルと概要と仕様、章立て案が書かれているだけのシンプルなものだ。出版業界では企画といえばこういうものだ。パワーポイントなどで凝ったりはしない。作る方も読む方も時間の無駄だからだ。企画1つにつき、だいたい2枚まで。3枚もあると読む方が面倒になる。
「拝見します」
中年男性は、企画書の束を手にした。5つの企画の並べ方にも若者の作戦はあった。並べる順番しだいで、担当編集者に刺さるかどうかが決まると言っても過言ではない。まだ一度も自分の企画が通ったことはないが、今日こそはと若者は意気込んでいた。
一本めはいかにもこの会社で出しそうなテッパンの企画だ。ダイエット企画。今日は来ていない社長の企画である。確かにこの出版社の動向をよく考えている。内容もしっかりしているし、監修者の人選も具体的だった。
「あー、このダイエットかー」
「どうでしょう」
「んー。惜しかったかな。実はここだけの話だけど、来月同じの出るんだよ」
「あら」
「ちょうどこの監修者さんで」
「あらー」
「目の付け所はさすがだなあ社長さん。よろしくお伝えください」
「はい」
出版前に企画段階でネタがかぶることはよくあることだ。社長もテレビを見ていてこの監修者に目をつけたので、こういうことはよくあるのだ。発想は唯一無二だと思っていても、その発想の元が視聴率15%のテレビ番組だったのでは、どうしてもかぶる。アンテナを張ってるようでも、他のメディアの後追いではどうしても出遅れてしまうのである。
二つ目の企画はこの若者の企画書である。今回の提案の本命というところだろうか。彼自身そろそろ企画を通したいと切に願っているし、社長もいい加減通る企画を出せとも言っている。そこで満を持して長年温めた企画をここで投入してきたのである。ただ、彼の編プロでの事前会議ではやや懐疑的な反応ではあった。
「みんなの世界地図?」
「はい」
「どういうの?」
「ええと、各界の著名人に白紙をお送りしまして、何も見ないで5分間で世界地図を描いてもらいます」
「へえ」
「送り返してもらって、後日電話インタビューをします」
「ふうん」
「横長の本にして、片ページに地図、対面にインタビューを載せます」
「なるほど」
「いろいろ面白い地図が並ぶと思うんです。みなさん経験や興味によって、世界というものの捉え方がちがうじゃないですか。いろんな地図が集まると思うんです」
版元編集者は、メガネをズラして詳しく読みはじめた。2枚目には依頼する候補のリストが並んでいる。芸能人もいるが、スポーツ選手や文化人、中にはイラストレーターや画家、一般の主婦や板前さん、運転手、パイロットなどさまざな職業があった。
「この人らには話通してるの?」
「いえ、まだです」
そりゃそうだ。企画が通ったわけでもないのにオファーするわけがない。
「やってくれるかねえ。ギャラ払うの?」
「いえ、これはチャリティー企画なので、印税分はユニセフに寄付します」
「へえ」
よく見たら企画書の冒頭にそう書いてある。版元編集者はふむふむと改めて概要を読みはじめた。
「話題にはなりそうだなあ。面白いんじゃないかな」
「ありがとうございます」
「これって君の企画?」
「あ、はい! そうです」
「じゃちょっとこれはこっちに」
ダイエットとは別の方に置いた。可能性はあるということだ。若者は密かにガッツポーズをした。
三つ目の企画は編プロの先輩が提案したもので、定番のレシピ本だった。レシピ本は何かひとネタか、監修者次第ではあるが、編プロの提案が通ることは少ない。案の定今回は候補の監修者に魅力がないということで、社長と同じ方に積まれた。
四つめの企画書は、ビジネスマンむけの自己啓発本で、朝起きて5分間でなにをするかで、20年後の人生が変わるというものだった。昨年出た夜寝る前の3分間で10年後の人生が変わるという本の著者が売り込みにきて、続編をやらないかということで生まれた企画である。昨年の本もこの編プロとこの出版社から出されたので、まずはここにということで持ち込まれたものだ。
「あー。これ」
「はい、去年の」
「続きあったんだ」
「そうらしいですね」
「今度は朝かぁ」
「どうですかね」
「うーん。どうかなぁ」
実のところ、前作はそれほど売れなかったのだった。5000部刷ったはいいが、返本率が高かった。当然重版はかかっていない。版元編集者もすっかり忘れていた本だった。
「とりあえず、著者さんの手前もあるから会議にはかけておくよ」
「よろしくお願いします」
ここがダメなら他に候補となる版元もある。反射的に若者は脳裏に数社挙げていた。そもそもこの版元は自己啓発はあまり得意ではない。昨年は流れた新刊の穴埋めにその本が出されただけで、通常であればやっていないはずだった。
「あとはこれか。……筋トレダイエット?」
それはこの編プロの新人社員女子が初めて書いた企画書だった。若者は企画書の書き方を手取り足取り教えて、どうにか体裁を整えたものだった。概要の書き方はだいぶ拙いが、章立ては見事なものだった。社長がOK出したので一緒に持ってきたが、若者は内心忸怩たる想いでいっぱいだった。彼が書いた企画書が版元に持ち込まれたのは、入社して3年も経ってからだったからだ。だから5番目にしておいたし、なんだかんだで印象を悪くして却下させようとは思っていた。しかし同時に、企画書が通れば感謝もされるし、笑顔も見られるのではないかとも思っていた。嫉妬心と恋心に揺れるアラサー編集者は苦悩していたのだった。
「ぷはは! なんだ筋トレダイエットって。面白れえじゃん」
「そ、そうですか?」
「君の?」
「あ、いえ、新人なんですけどね」
「へえ、面白いんじゃないか。これ。ぐるっと一周回って戻ってきたみたいな」
「え?」
「ダイエットに筋トレって当たり前すぎて誰も言ってないよね。あはは」
そうだっけ? と思ったが否定も肯定もできなかった。予備知識がないからだ。こんなことなら本屋をざっと見てからくればよかった。と若者は思ったが元の木阿弥である。そうですかね、と曖昧な返事しかできなかった。
「わかりました。じゃあまずはこの2つを預かります」
「え?」
「朝5分のこれと、筋トレダイエット。わはは。ツボ入ったわこれ」
「あ、こちらのは……」
「世界地図かぁ。ごめんね本屋で見たことないからなあこういう本」
「はぁ……」
社長のとレシピ本と若者の企画書は、元の消防庁のクリアファイルに戻された。若者はそれを力なくPCバッグに収めた。
「じゃあ、追って連絡します」
「あ、はい。よろしくお願いします」
若者はペコペコとお辞儀をして帰っていった。中年男性は電話が来たと呼ばれて慌てて編集部に戻っていった。またペコペコとお辞儀をして電話口で何度も謝っていた。
我輩は本である。名前はまだない。そしてこの5つの企画書のどれも私ではない。
つづく
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