71. 戻れない変わらない

「あー、もう!」

 叫び、倖奈は布団を撥ねのけた。

「眠れない!」

 じっとしていられるはずがないのだ、と唇を噛む。


――こんなしている間にも、アオが誰かを傷つけてしまうかもしれないじゃない!


 シロも。あの日に『消えた』と聞かされたままだ。

 万桜に捜す気はないらしい。 他のかんなぎの仲間は、鎮台の軍人たちは如何考えているのだろう。

 溜め息を零す。

「お水飲んでこよう……」

 寝間着の上に薄い肩掛けを羽織って、廊下に出た。雨戸が閉じきられた縁側は暗い。

 ひたひたと足音を殺して進んで、ガラス窓の傍を通る時に。

 庭を見て息を呑んだ。


「シロ!?」


 雨で煙る庭に、捜したい人を見た。

 長着の上に、楽しげな狸や狐の柄の当てがある羽織。手には狐の面。あの日に着ていた服のままだ。

 だけど。

 はっきりしない輪郭は、すぐにでも黒い靄ち為らんとしているように見える。


――貴方は人間? 魔物?


 問いかけることはできない。声は届かない。

 ただ、その背中が、庭の端へと向かっているのは分かったから。



――確かめに行かなきゃ。



 翌朝は驚くくらい晴れた。


 鏡台に向かって、伸びてきた髪を梳き、編み込む。

 以前のようにお下げにするのではなくて、耳の上や襟足にくるくると飾って、飾り布を結ぶ。

 萌黄色に桜文様の、手縫いの品だ。

 同じ布を半襟に選んだ。二尺袖は菜の花色で、苔色の袴をつける。

 がま口やら手鏡やら手巾ハンカチやらを空色の巾着に放り込んで。


 それから、棚からくしゃくしゃになった紙切れを取り出す。

 史琉がくれた最初の一筆。ただ倖奈と彼の名前が書いてあるだけで、あれからもっといろんな事を手紙として貰ったけれど、それでも思い入れがずば抜けて強いもの。

 それを、一度唇に寄せてから、巾着に押し込む。


 立ち上がる。

 胸を張って、歩き出す。

 向かうのは庭の先。シロがただの人間だった頃に書斎として利用していた倉だ。

 幸い、先に彼の部屋を覗いたら、鍵はすぐに見つかった。


 結局、そこにあるものの全てを倖奈は見せてもらっていない。

 だからこそ。

 見て、知って、シロを捜す手掛かりがほしいと思ったのだけれど。


 玄関口が騒がしいのが気になった。

 無理に通ることもないけれど、と思いつつ。顔を出して、すぐに後悔した。


 まず見えたのは、銀鼠の留袖の背中。その向こうに、紅緋の振袖。

「万桜様。美波」

 呼び声はごく小さいものだったはずなのに、二人とも振り返る。

「おはよう、倖奈」

「あら、元気そうね」


 柔らかな頬紅に鮮やかな口紅が映える顔だ。髪はまっすぐにくしけずられて、艶を放つ。そして、薔薇の花籠が染められた振袖に、白地に空色の格子柄の帯。

 にっこりと微笑んだ美波もまた、元気そうだ。


 しくり、胸の奥が軋む。

「なんで此処に」

「鎮台にいると煩い奴が来るんだもの」

 美波は唇を尖らせた。

「あの新聞記者、魔物がどうなったってしつこく訊いてくるのよ。わたしが知るわけないのに!」

いつきにそんなこと言っても通じないわよ」

「そういうのこそ泰誠が出てきてくれればいいのに、それどころじゃないとか言ってピリピリしてるし」

「それはそうよね。……常盤は?」

「まだ病院。起き上がれるほど怪我が良くなってはいないみたい」

「そう」

 ぎゅっと唇を噛んで俯く。


 その傍で。

「とにかく、今、鎮台のかんなぎの寮はバタバタしてるんです。魔物を捜せって皆血眼になってて、わたしも落ち着かないのに、新聞記者だけはしつこいの」

 美波のお喋りは続いていて。

「だからしばらく此方で過ごさせてください、万桜様」

 区切りがついた後、細い溜め息が響いた。

「仕方のないこと」

 育て親でもあり師匠でもある人は、まんざらでもないのだ。

 倖奈も溜め息を吐き出す。

――此処は万桜様のお屋敷であって。わたしが決めていいことではないし。

 ひっそり呻いて、黒漆の草履を履く。


「おまえは出かけるのですか?」

「敷地の中にはおります。その…… 以前シロに見せてもらった本を見たくて」


 そろっと見上げる。

 万桜は渋い顔だ。


「あの倉に入るのですか」

「はい」


 止められるか、と身を縮める。だが、彼女はまた溜め息を吐いただけで、去って行ってしまった。

 真っ白な髪。細い肩、薄い背中。この一瞬のうちに、さらに小さくなったように見える姿。

 倖奈はそれをじっと見送るしかできない。


「何かおっしゃりたかったのかしら」

 美波が顎にほっそりとした指の先を添える。

「どうでしょうね」

 首を振り、草履を履き直して、立ち上がる。


「ねえ、倖奈」

「なに?」

 ぎゅっと眉に力を入れて振り向くと、艶やかな笑顔が見えた。

「今から行くところ、何があるの?」

「本、かな」

「一緒に行っても平気?」

「来るの!? なんで!?」


 目が丸くなる。美波もきょとんとして、それから気怠そうに呟いた。


「だって。逃げてきたのはいいけど、やることなくて。暇になっちゃうんだもの」

「あのねえ!」

 思わず、叫んだ。

「どうして、アオが勾玉から出てきて、逃げていったと思ってるのよ」

 すると、美波はゆるやかに瞬いた。

「逃げていったのは、捕まえられなかったからでしょ?」


 声が喉の奥で凍える。


「大通りで常盤に取り憑いて大騒ぎしたんだって、あの記者が言っていたわ。その後、柳津大尉に乗り移って、それで大尉は自分で首を切ったんでしょ? そうやって、せっかく我が身を犠牲にされたっていうのに、逃がしちゃったなんて、やるせないわ」


 視線も動かせない。

 ただ、倖奈の胸の奥にも、晴らすことのできない澱みが広がっていくだけ。


「それで」

 と、美波の声は呑気に響く。

「付いていっていい?」

「お好きにどうぞ」


 から、と草履が鳴る。

 侘しく、鳴る。



 そうして、敷地の奥。白い壁の倉へ。

 鍵は、軋んだ音のわりにすんなりと開いた。

「すごい埃ね」

 美波が顔を顰める。 倖奈は黙って、踏み入った。


 変わらず、明かりは天井近くの窓から差し込むのみ。

 シロがやったのかどうかは分からないが、あの日以来、中には風が通されていたらしい。黴臭さは減っている。

 入り口近く一番手前、崩れた冊子の山はそのままだ。


 だが。

 山の上にひとつ、埃が取れた冊子がある。

 手に取って、頷く。冬の日にシロが『当たり』と評した一冊、読めということだ、と。


 あの日何を喋っていただろうか、と記憶を辿る。

 ここに彼が書き留めたのは、アオを生むに至った瘴気を作る時の話と言われたはずだ。

 魔物は瘴気の塊。その瘴気は人が産む。だから、わざと荒れさせて、瘴気を生み出させて、掻き集めてみた結果、彼自身が魔物になった。

 聞いていたとおり、延々と、道ですれ違っただけの人に喧嘩を吹っ掛けた、店から物を盗んだ、偽の通報で軍を振り回した、大臣を罠にはめて失脚させた、ふるい友人を私刑に巻き込んだ、等々書き連ねてある。

 連れ合いである万桜を怒らせたことも、また。


「思いつく限りやったって感じね」

 溜め息を零した。


 その結果で集めた瘴気から生まれたのがアオだ、というのがシロの弁。

――でも、アオはシロの一部でもあるんだ。

 集めた瘴気をその身で纏ったというのだから。

 他者を苦しめるだけ苦しめて集めたものを、自分の都合で棄てようとしている。なんて図々しい、とふと思って。

 首を捻る。


「本当に戻れるの?」


 シロは瘴気切り離した、それがアオだと言っていた。

――だけど、どんなに相反することをしていても、荒れた部分と和いだ部分は分けられない。荒魂と和魂はひとつの中に同時に備わっていて、わたしたちから見える部分が違うだけだと思う。

 そもそも、真実二つの別の存在になったのならば、アオが暴れる時にシロも倒れるということが続くはずもないのだ。


「そうか」

 大通りで。泰誠は、シロがと言った。

 それはもしかしたら、常盤から、史琉からその身に負わされたきずを補うために。

「アオとシロが元どおりになっちゃったのかも?」

 そうすれば、昨日の穏やかならぬ姿にも合点がいく。

「やっぱり、ひとつのおなじ存在なんだ。分けられっこない」

「なに一人でブツブツ言ってるのよ」


 急に顔を覗き込まれて、はっとする。

 美波はあからさまに不機嫌だ。倖奈もむっと唇を尖らせる。


「付いてきたのは貴女じゃない」

「なによ、相手にしてられないっていうの?」

「そこまで言ってないでしょう!」

 これまた図々しいのが居る、と思って。ふっと笑った。

「美波は戻ったのね」

 ぴくっと彼女のこめかみが引き攣る。

 倖奈は冊子で顔を隠した。だけど、クスクスという声は抑えきれない。

「あれだけ、散々、わたしのことを莫迦にしてたのに。普通に話そうとするんだ」

「それは」

 ぷい、と美波は横を向く。

「わたしだって、あんたがわたしに黙っていたことを赦してない」

「そう」


 笑いを止められないまま、顔を上げて。ぎょっとする。

 美波の背中。

 紅緋の着物の紋様に混じって、離れて、黒い靄が浮いている。


――瘴気は人が産む。

 そして。シロはずっと言っていたではないか。美波の周辺が穏やかならぬと。


「駄目よ、そんなことしちゃ!」

 冊子を宙に投げ、美波に飛びつく。

 二人で本と埃の山の中に倒れ込む。

「なんてことするのよ!」

 金切り声を無視して、振り仰げば。美波の体から離れ宙に浮いた靄は、くるりと回ってから、窓の外へと流れていった。


 その様を睨みながら、呟く。

「瘴気だけを切り離すことはできる」

 今のあれは、美波が自分で産んだもの。

「その人が産んだ魔物は、その人から離れていくことができる」

 でも、シロに集まったのは違う。直接であれ間接であれ原因は彼が作ったのだとしても、産んだのは彼以外の人。


 それに、と唸る。

「今は、なにもなかったよね」

 花を咲かすときのように。人の手助けをしたときのように。自分の中から何かが抜けていく感覚はなかった。

「その人が自分で生む分には、何でもできるんだ。それで、勝手に入ってこられた人は、取り憑かれた人は、自分のものではないものを追い出すことができる」

 だが、シロは違う。彼は、望んで集めたのだ。

 つまりそれは。


「シロには、瘴気を集めて離さない何かがあるんじゃないの?」


 気付く時は一気に考えが及ぶものらしい。

「誰かを傷つけて集めた瘴気だから? そうして出来た魔物だから?」

 思い返せば、西の郊外の社で飛び出してきた時もそうだった。アオはいつも瘴気を吸って回っている。瘴気が浮き出るのを誘っている。

――今、魔物の素が外に出て行ったのだって、もしかしたら。


「ちょっと! 退いて!」

 下からポカポカと叩かれて、はっとした。下敷きになったままの美波が涙目になっている。

「重いのよ、あんた!」

「美波より小さいから軽いもん。多分」

「多分って何!?」

「推測の話だってことよ」

 言いながら、立ち上がる。 倉から飛び出す。


 眩しい日の光の下。木の陰にいた存在に、やっぱり、と微笑んだ。

「シロ」

 声を出すと、輪郭を解きそうになったままの人はゆっくりと振り返った。

「アオとは呼ばないね。わたしが知っている貴方は、シロ、だから」

 その視線を受け止めて、静かに呼びかける。


「人ならざるものと為った人」


 ふっと。相手も息を零した。

「そのようじゃのう」

 銀鼠の長着に、賑やかな継当てだらけの枯茶色の羽織。その袖を振って、彼は言葉を続ける。

「どうじゃ、何か分かったか」

「気がついたことなら」

 頷き返して。


「貴方はもう、貴方の望む直人ただびとには戻れない」


 告げると、首を傾げられた。

「おぬしの力を使っても?」

「できない」

 倖奈もまた、首を振る。

「祀られる魂は和魂にぎみたま荒魂あらみたまがある。荒魂と和魂を分けるモノは『気持ち一つ』で。荒魂というのが、魔物の、瘴気のこと」

 声も体も震えない。ただ、想いだけが口を突く。

「わたしは、花や人に力を貸しているだけなのでしょう? だから、違う存在に取り憑かれたのだったら、体を取り返すお手伝いができる。

 でも、望んで瘴気をその身に集めた貴方は、他の人と同じように、瘴気だけを魔物だけを追い出すことはできない。自ら生んだ瘴気をではないから、離すこともできない

 もう人じゃないから」


 一度、息をついて。シロを見つめる。


「瘴気も含めて一つの存在である貴方を変える方法をわたしは知らない」


 返ってきたのは咆吼。 その源、開いた口の中は、真っ暗だ。

 目が窪んで、輪郭もどんどんぼやけていって、それなのに着物と肌の色は分かる。


 塀の向こうで、悲鳴と黒い靄がいくつも上がる。 大きな口は、それをひとつずつゆっくりと吸い込んでいく。

 握っていたはずの狐面が土に転がる。 それを踏み割って、シロは跳ねた。


 塀を跳び越え、びよん、びよん、と通りを進んでいっているらしい。

 つられて、走り出した。


――今度こそ。


 捕まえて如何する。それを考えるは後だ。

 今は追いつくことだけを考える。

 何故ならば。


――目の前で死んでいく人がいるのは御免だ。


 彼はそう願っている。その夢のために、自分の身を賭けることさえ厭わなかった。

 だから、腕を振る。


――貴方に恥じるところのないように。


 春間近。芽を膨らます桜並木の下を、ただ、走る。

 軍の警笛が響くのが聞こえた。

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