70. この身に背負えるものならば
「ふざけるなよ!」
叫び、高辻副官は拳を壁に叩きつけた。メキメキ、という音がして、木の壁に亀裂が入る。
大きく息を吐いて、吉田曹長は天井を仰ぐ。
その他数名の先輩諸氏も同様。
寝台に腰掛けたままの柳津隊長は、片手で額を押さえていた――とはいえ。
「壊すな、馬鹿」
大怪我を負って寝込んでいたと思えないほど、その人の呟きがしっかりと響いたので。
颯太は、部屋の隅で直立不動のまま、瞬きを繰り返した。
さして広くない病室。その一番奥の寝台に腰掛けているのが、他でもない、颯太が所属する隊の指揮官だ。
濃紺の肋骨服の前は開いている。中に着たシャツも首に近い方の釦は止まっていない。首から肩にかけて包帯が巻いてあるからだ。
――やっぱ、ひどい怪我だったんだよね。
白い布からそっと目を逸らす。
その頃には、壁から拳を退けた高辻副官が、ゆらりと姿勢を立て直していた。
「やはり遠郷隊長を踏んだ
「気付いていたのかよ」
また、柳津隊長が苦笑いで応じる。
だけど、高辻副官の反応は不思議だった。颯太はこの場で初めて聞かされて、驚いている。
――西の郊外のお社から逃げ出した、魔物のくせに建物を壊したりできるアイツは、この部隊の前の隊長を殺したヤツ。
直接面識がない颯太でも震えるのに。事件の場にいた人たちの想いは如何程だろう。
「くそ迷惑な魔物だな」
ぱん、と。先ほどは壁に叩き付けられた拳を、反対の掌に当てながら、高辻副官が笑う。
「とっ捕まえるだけではもう、気が済まないんだが」
「ああ、気が済むまで暴れていいぞ。俺が責任を持つ」
柳津隊長も笑ったが、すこし色合いが違う。
「おまえは俺をなんだと思っているんだ」
「猪突猛進な副官だ。手綱を引くのが俺の役目だと心得ている」
まだ笑っている声に、副官は眉を跳ねさせた。
「ならば、勝手に死なれては困る」
一斉に皆が頷く。視線が集まる。
柳津隊長も、笑みを引っ込めた。
「そうだよな」
小さな溜め息。手袋をつけていない、長い指が頸の包帯に触れる。
「悪かったよ」
誰かが、鼻を鳴らすのが聞こえた。
「慕われていて俺は幸せだな」
悪人面が緩んで、皆を見回す。
自然と背筋が伸びる。
「そうとあれば、気合いを入れ直すとしますか」
隊長も、座ったままながら、真っ直ぐに体を立てた。
「高辻副官。引き続き部隊の指揮を。市街での捜索を任せる。部隊を小さく分けて、機動を上げろ。
吉田曹長。新聞やらなんやらの捜査は頼む。
連絡専任で動く奴がいるな。誰がいいか――」
その場にいる皆の名とやるべきことが次々と言葉になっていく。
応じる声が続く。
「駒場。この場に呼ばれている理由は分かるな」
鋭い視線をがっしり受け止めて、颯太も頷く。
「魔物の情報を探せってことですよね」
三白眼が真っ直ぐに颯太を捉えている。逃げない。手を挙げる。
「頑張ります」
「よし」
さて、と大尉は長い脚を組み替えた。
「今回の作戦で第五部隊は待機だと高辻副官は聞いているらしいが、大意で合っているんだ。動かせてもらおう。細かいことをうだうだ言う奴には、柳津まで会いに来いと言っておけ。
指揮をしているのは俺だ。だから、俺が責任を取る」
口の端を上げて、隊長は立ち上がった。
全員が背を伸ばし、挙手の礼を取る。
「絶対に斃すぞ」
応、との声が響く。
颯太もまた、唾を飲み込んだ。
――負けられないよ、ねえ菜々子。
各々が動き出し、部屋を出て行く。
隊長はまだ、衛生兵の吉田曹長と話している。
――まだ、怪我の具合が良くないのかな。
しゅん、と眉を下げて、聞き耳を立てれば。
「今回は、偶々生き残った、とは言えないからな」
隊長がそう言ったのが聞こえた。
*★*―――――*★*
翌日も、万桜は倖奈を外に出してくれなった。
斎からは、魔物の行方の目星と史琉の怪我の具合を教えてほしいと電報が来ていた。
話が楽な方に、楽な方にと向かってばかり――と、腹が立ったから、返信はしていない。
――美波に訊けばいいじゃない!
その美波からは音沙汰はない。
「何も気にしてないのかな……」
自分の行動が、アオの封印を解くことに繋がったとは思っていないのだろう。
「でもきっと、言い逃ればっかりするんだ」
溜め息が零れる。
屋敷の外、塀の向こうも、どんより曇り空。溜め息が重なって、と雨戸を閉じようとしたとき。
縁側を歩いてくる足音がした。
一つではない。ということは、屋敷の使用人たちではない。
誰かと振り向いて、声を上げる。
「天音様」
「見舞いに来たぞ」
濃紺の肋骨服に、膝丈の下衣。肩では近衛の標が、袖では位を示す刺繍が輝く。
制帽を脱いで、片目を瞑っ彼女の後ろに。
もう二人いる。
「真希! 菜々子!」
ぱっと。気分が浮く。
前のめりになると、笑われた。
「どうして」
「新聞を読んだのよ」
真希が両腕を広げて、飛びついてきた。
「絶対あんただと思ったのよ」
「何が?」
「怪我した女性のかんなぎが居るって書いてあった」
そうだっけ、と首を捻る。むぎゅっと頬をつままれた。
「出来た服を送るのに、住所聞いてたからさ。来るのは簡単だったんだけど」
「お邪魔しますって言うまでが大変だったわ。こんなに大きなお屋敷だと思わなかったんだもの」
菜々子が肩を落とす。
「住所から、広いお屋敷が並ぶ街だとは思ったけど。思った以上!」
「ふうん?」
「あんたがお気軽にほいほい店に来るから! こんなだと思わなかったの!」
その向こうでケラケラと天音が笑った、
「ああ、だから。ずっと屋敷を見て行ったり来たりしてたのか」
「声をかけてもらえて、助かりました」
気にするな、と天音は続ける。
「倖奈の友人とあらば、連れてこない理由はない」
「よく、わたしたちが友達だってお分かりになりましたね」
倖奈が言うと、彼女はさらに笑った。
「服かな」
だから、三人で顔を見合わせた。
真希は紺色に何色もの小花が散らばる柄の着物。帯は小豆色で、その上の飾りは、洋渡りの花を思わせる、朱色のもの。
学校の制服のままの菜々子は、朱色と胡粉色と緑青が格子柄になった手提げを持っている。
そろっと自分の服に目を落とす。これまた朱色の模様が浮き出る、卯の花色の長着。
「……似てます?」
「ああ」
天音は力強く頷いた。
「街で連れ立って歩いていたら、知り合い同士だと間違いなく思うな」
つい頬が緩む。そこをまた摘ままれる。
「何喜んでるのよ」
「え? 二人は大事な友達だなって」
「あっそう……」
顔を真っ赤にして。真希は腕を緩めてくれた。
「ごめんね、約束の時間に行けなくて」
四人で縁側に腰を下ろして、お茶を啜りながら、あらましを告げる。
「心配したわよ、莫迦」
真希には改めて頬を引っ張られ、菜々子に睨まれた。
「戦うって怖いね」
視線の強さを変えぬまま、菜々子はぎゅっと湯飲みを握りしめて呟いた。
「こんな簡単に、怪我したり、死んでしまったりするのかって思った」
「今回は死人は出てないぞ、幸いに」
天音は鼻を鳴らして。
「まあ、死人になりかけたんだが」
な、と視線を向けられて。そっと顔を伏せる。
「菜々子はね、彼氏が心配なのよ」
横で、真希はカラカラと笑った。
「こいつの幼なじみ、鎮台にいるんです」
「ほほう。
「……ほっといてください」
にやけた天音に眉を下げ、菜々子は、表情を渋く変える。
「これからも…… 心配しなきゃいけないのかな」
「颯太を?」
言ってから、しまった、と口を押さえる。
「……なんで」
「ごめんってば!」
「ちょっと待って、倖奈。誰が彼氏か知ってたの!?」
「えっと。知ってたんじゃなくて、その」
背が高くて、いつも元気で一生懸命な、成長していく彼が。
菜々子のことを思っている人だと気がついたのは、会話の隅っこの呟きだ。
――会いたいなぁ、菜々子。
思い出すとにやけてしまう。だが、目の前の菜々子が般若の形相だから、必死に口元を引き締める。
「まあ、いいや」
彼女は肩を落として。それから、真っ赤な顔を向けてきた。
「颯太は…… その。勉強が嫌いで、本当は、喧嘩が苦手で」
「うん」
「軍人になんかなったって、臆病になって戦えないって、わたしは、思ってたのに」
「大丈夫。史琉はきっと分かってくれてる」
だから、彼が苦手だと喚いても、書類の整理に向かわせるのだろう。
ほっと息を吐く。
「でも、臆病なんかじゃないよ?」
「本当に?」
「そうだよ」
刀を振ることを知った彼を見たら。
彼女はさらに真っ赤になってしまうのかもしれない。
ちょっと見てみたい、と思う傍で。
「なんだ。今話題の第五部隊にいるのか」
天音の笑い声が続く。
「じゃあ、臆病なんてことはないぞ。自分の犠牲も厭わないあの男が率いる部隊だからな」
「そうですよね」
倖奈も笑うと、天音の視線がすこしだけ逸れた。
「今だって水面下で何を企んでいるのやら」
溜め息も。
「好い方向に転がれば、私は文句は無いんだがな」
わずかに響いて。
「すこしでも怪我の心配が無くなる話をしようか」
それから、天音は三人の顔を順に見遣ってきた。
「私は、一切の魔物がいなくなるのが一番とは考えているが。取り合えず、今問題の大きな奴をとっ捕まえるだけでも、相当平穏になると考えている」
揃って頷く。天音の視線が瞬間、鋭くなる。
「だから、問題の奴を追跡し、斃す算段を整えているところだ。
今、鎮台はヤル気だ。なんと言っても、あの宮将軍がヤル気なんだからな」
「宮様が」
穏やかな秋の宮の顔を思い出し。それから否応なく、赤い着物の彼女を思い出す。
「ようやく、爛れてしみったれたところから抜け出してくれたんだ。絶対うまくいく。いや、成功させてやらないとな。また拗ねたら困る」
天音が言うのに、倖奈は吹き出した。
それからもうすこし、着物の話をした。
天音が店に行きたいと言ったら、真希も照れてしまった。
大笑いを続けながら、彼女たちを玄関まで見送る。
「雨降りそう」
雲はますます重く、分厚い。
「気をつけて帰ってね」
真希と菜々子がガチガチになって辞儀をする横で、天音はいつもどおりだ。
「駅前まで馬車で送るから安心しろ」
その彼女の袖を引く。
「天音様は聞いてますか? 史琉――柳津大尉はどうしたって」
「まだ病院だ」
彼女は鼻に皺を寄せて言った。
「あそこの衛生兵がまだだと判断するのでな」
「そう…… ですか」
万桜に連れられて、出てきてしまったから。
何もかもが中途半端になっている気がする。
――吉田さん、どうしたかな。
ぎゅっと眉間に力を入れていると、そこを天音につつかれた。
「隊長があの
な、と笑われて、曖昧に微笑む。
「魔物がどうしたこうしたとか考えていないで、しっかり養生しろ。大尉もだが、倖奈もだ」
くしゃりと頭を撫でられたので、首を縦に振る。
よし、と言った天音を先頭に、お客様たちは去って行った。
一人、取り残されて。
布団の中で丸くなって、ぽつんと呟く。
「のんびりしてていいのかな」
頭の中を、声が
――生き残ってしまったからには、何かしたかった。
春の初めの頃の、夜だった。
手を引かれて、帰る途中。彼が穏やかに話してくれた、昔話の最後に出てきた言葉。
その以前から気になっていたこと。
「史琉の夢って何なんだろう」
はっきりと語ってくれなかったけれど。
――目の前で死んでいく人がいるのはご免だ。
これがきっと、真実。
だとしたら。軍人として、誇り高くある彼は。
「こんな時に、じっとしている?」
真冬はとうに通り過ぎて、春爛漫が近いというのに、寒い。
横たわるだけの夜。雨が街を濡らす音を聞いた。
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