69. 無事を問う人
まただ。また、硬い寝台の上の薄い布団に寝かされていた。
此処は病院だ。
消毒液の匂いに眉を顰めてから、起き上がった。
目の前がわずかに歪む。倒れそうになった体を必死に立て直して、周りを見回す。
木枠の窓から差し込む陽光は天井にまだら模様の影を描き、吹き込む風が無地無色のカーテンを揺らしている。 簡素な寝台が置かれた部屋には、
だけど、開けっぱなしの扉の向こうからは、いくつもの話し声が聞こえてくる。その中に、魔物、という言葉が混じっていたから、唇を噛んだ。
通りを逃げるアオを、否応なく思い出す。
そろり、と足を床に付けた。 その素足には無地の布がぐるぐると巻かれていて、力を入れるとずきずき鳴った。
構わずに、生成の寝間着の襟元を押さえ、ずんずん進む。
いざ扉をくぐろうとしたところで、飛び込んできた人とぶつかった。
「おっと!」
その人は、がっしりと両手で倖奈の肩を支えてくれた。
「ああ、起きた! 良かった!」
「吉田さん」
顔見知りの衛生兵が、くしゃっと顔を歪めた。
「とりあえず、目が覚めたのは良かった。座って。急に動くとまた引っ繰り返るかもしれないよ?」
ずいっと寝台に座らされて。彼は倖奈の目を覗き込んできた。
それから両手で、耳の下、首の横と触る。
「うん…… 問題なさそうだね」
ほっと息を吐いてから。彼は正面に椅子を引き摺ってきて、腰を下ろした。
そのまま彼は、首を左右に動かす。軽快な音がした。
「……吉田さん、お疲れですか?」
「まあねー。最終的な縫合手術は別の医者がやったんだとしてもさー、初期手当をやった身としては、結果が気になるじゃん?」
うん、と首を振ると。彼は笑った。
「結果。柳津大尉は無事だよ」
だから、ひときわ大きく目を見張って。
「無事」
呟く。
ぼろっと涙が零れる。
「本当に?」
「うんうん」
吉田は首を縦に振り、がりがりと背中を掻いた。
「生きてるって意味では無事。意識も昨日のうちに取り戻してる。むしろ回復が早くて皆びびってるよ」
うん、と頷く。ぼろぼろと、涙はまた落ちてくる。
「良かった」
最後に抱きしめられた体の熱さと、倖奈の頬と着物を濡らしてきた血の流れを思いだして、ぎゅっと両手を握りしめる。
ふっと吉田が息を零した。
「これはもう一回お説教だな」
「え?」
「いーや。気にしないで」
大きな溜め息の後に、彼は真っ直ぐに倖奈を見てくる。
「回復がって意味ではね。君のほうがなかなか起きなくて心配したよ」
「わたし?」
「そう!」
一度言葉を切って、吉田は眉を寄せた。
「どれくらい寝てたと思う? もうすぐ一日だよ!」
だから。え、と呟く。
怒濤のように押し寄せる記憶が、背中に汗を浮かばせる。
「今は、何日の何時?」
「知りたい?」
「はい」
吉田は懐から、ぐしゃぐしゃになった新聞を取り出した。
その一番上に印刷された文字を示しながら、彼は口を開く。
告げられた日付は。記憶にあった翌日。
「お昼はとっくに回っている。おなか空いてるならご飯持ってきてもらうけど?」
「えっと……」
――どうしよう。
真希と菜々子と。あの日の三時に待ち合わせをしていたのだ。
出来上がった着物を見せてもらうために。そのついでにお喋りをするためにミルクホールに行こうとも言っていたのに。
「約束」
「ほえ?」
「破っちゃった」
俯く。
――でも。あんな時に、魔物を無視して出かけられるわけないじゃない!
ぎゅっと両手を握りしめて、唇を噛みしめる。
ぽん、と何かが頭に載る。
なんだろうと顔を上げれば、吉田の掌だった。
「いいなぁ。そういう悩みは若いからこそだよね! 俺や柳津大尉なんかじゃ、全く気に病まなそうな悩みだよ」
「そう……なの?」
この人や史琉が悩まないようなこと、ということは。今の悩みは子供の悩みなのだろうか。
眉を寄せる。ふっふっふっと笑われた。
「一度くらいで無くなるのは友情じゃない、とおじさんは言っておこう」
それから一つ、咳払い。
「ちなみに」
と、吉田の顔が引き締まった。
「一日近く寝てた理由を考えた結果で、端的に訊くけど。君には、傷を治す力まであるわけ?」
瞬く。吉田は渋い顔のままだ。
「柳津隊長の傷の回復が、マジで早過ぎるんだよ。あの人自身の体力とか、そういう問題じゃなくね。
隊長が頸を自分でぶった切った後、まず最初に傷に触れたのは俺だと思ってた。でも、その前に、君が隊長に触れている。その君はなかなか起きない。だから、君が何かしたとのかと考えが行き着いたんだよ」
じっと覗き込まれ、唇を噛む。
「心当たりは?」
涙は引っ込んだ。
その分、思考は裡で駆ける。記憶を辿る。
――ただ、抱きしめただけ。
頭を横に振る。吉田の眉間の皺が深くなる。
「そんなことないだろう? 君はこれまでにも、柳津隊長と同じように、魔物に乗っ取られた人に対応したことがあったはずだ。その時と合わせて思いつくことはないのかい?」
倖奈もまた眉間に皺を刻んで。
「わたしができるのは花を咲かせることだけよ」
唸って。
――花だろうが人間だろうが、相手に関係なくできるのではないか?
ふと、思い出した。
――相手に己の力を分けているんじゃろ? 生き延びる力そのものを、な。
そう評したのはシロだったか。
もし、それが、真実だったのだとしたら。
――とても嬉しいけれど。
ちいさくて、頼りない自分の手を、見下ろして。
「確証は、何も、ないから」
ぽつん、と呟く。
吉田は細く息を吐いた。
「まあ、ね。分からないものは分からないで放っておくしかないところもあるんだけどね」
「ごめんなさい」
「ああ、いや、別に。謝られるほどでもないんだけど」
そう言ってから、彼は、今度は舌を出した。
「謝らなきゃいけないことがあるのは俺だよなぁ」
「そう、なの?」
首を傾げる。彼はぱんっと両手を合わせた。
「怒鳴って悪かった」
「……そうでしたっけ?」
「そうだよ。君が隊長を抱えていたのを、手当の邪魔だと言ったのは俺だ」
瞬いて、ああ、と息を零す。
「でも、それは。吉田さんが衛生兵だから。お役目だったからだもの」
自然と浮かんだ笑みをそのまま向ける。
吉田はわずかに顔を赤らめて、口を開いた。
「怖かったんだよね。また、自分の隊で死人が出るのかって。しかもまた、隊長なのかって」
話す顔を見つめ、黙る。
「遠郷隊長の時、マジ辛かったからさ。こう、俺ができるのは応急処置だけだなぁってさ」
吉田はさらに溜め息を吐いた。
「命を救うって難しいよ」
そして、両腕を伸ばし、眉を下げた。
「まあ、今回はあれだな。新人が煩かったから、慌ててる場合じゃないなって思ったけど」
「そうなの?」
新人というのは颯太かな、と思えば。
「君も知ってる、バカデカイあいつ。出血見て大騒ぎだよ」
やっぱりね、と吹き出す。
「来ていたの?」
「まあね。隊長は留守だったけど高辻副官は居たからって、その場で出動要請があったから。いた奴だけで駆けつけたら、自分のとこの隊長が大出血だからね。そりゃあ狼狽もするって」
「そうよね」
もう一度、小さく笑う。それから真っ直ぐに吉田を見た。
「あの場にまだ、わたしの他にもかんなぎがいたでしょう。彼は――泰誠はどうしていますか?」
「ああ、雷出す人でしょ? あの人はぴんぴんしてる」
「常盤は?」
「ええっと。炎を出す人かな。その人はほら、魔物が中に入り込んでいる間に隊長が斬ったから、結構な出血でね。治療中」
「大丈夫なんでしょうか」
「ん。そっちはさらに問題ないよ」
吉田が大きく頷く。
「他に、訊きたいことは?」」
顔を覗き込まれ。一度息を吸って。
「史琉に会えますか?」
問うと、彼は苦笑いを返してきた。
「一応、今は面会謝絶。
さっきも言ったけど、吃驚するくらい回復してる。とはいえ、解放すると新聞記者とかがまた特攻してきそうじゃん。そういうわけで防衛中」
それに、と吉田はちょっとだけ意地悪な笑みを浮かべた。
「あの人自身が暴走しそうだし」
「暴走」
倖奈も吹き出す。
「なんて言ってね。君と隊長のことは分かってるし。まかせろ。ちょっと小細工してくるから」
「小細工?」
「むしろ、じっとしてろって君から言ってもらう」
「はい」
「そしたら大人しくしてくれると思うんだよね!」
「ええええ!?」
ぐっと親指を突き出して、吉田は立ち上がった。
「待ってて!」
足音が遠くなっていく。随分と軽い足音だ。
それが聞こえなくなってから、寝台の脇に置かれたままの新聞をつまみ上げた。
一面には、大きな写真。
皇都鎮台の前を南北に抜ける通りが映っている。そこを右往左往していたのだろう、濃紺の軍人たちの姿も。
何が映っているのかは分かるのだが、全体的に白く煙っている。
どうしてと思いながら記事の文に視線を動かせば、今度は通り一面に梅が咲いた、と書かれていた。
紅白の花弁の嵐が吹く中で、魔物の姿は見えなくなった。
軍部ではまた逃走しているものと見なし、追跡の体制を整えている。
その文章の最後の署名を探して。
「また斎!」
呻いた。
――そういえば、アオが出てきた時、一緒にいたんだよね。
「大丈夫だったのかなぁ」
そうは思ったものの。こうして記事を載っているということは。彼が無事だと云うことだ。あの後、鎮台を出ていけたということだろう。
そうだとしたら。やはり同じようにあの場にいた美波は、今、どうしている。
「それに、シロも」
何故か、居なくなった、と聞いた気がする。気がするだけだ。本当かどうか、最早自信が無い。
「吉田さんが戻ってきたら、もっと訊いてみよう」
よし、と拳を握って立ち上がる。今度はふらつかない。
コツコツという、部屋に近づいてくる足音にも気がついて、飛び出さずにじっと待つ。
足音が止まる。
息を吸う。
それから、入ってきた人を見て、目を丸くする。
「万桜様!」
結い上げた白い髪はまったく乱れない。だけど、額と唇の横に乾いた皺を刻んでから、育ての親であり師である女性は、薄紫色の袖で目尻を拭った。
「大方の話は美波から聞きました」
「美波から?」
「魔物と対峙した、とね。おまえは無茶をすること」
紬の袖の影から長い溜め息が聞こえる。
倖奈もまた息を吐く。
万桜が話を聞けたというくらいだ。美波は無事に違いない。
――良かった。
つい、寝台に座り直す。
それから顔を上げる。
「あの。シロも大丈夫ですか?」
そう、問うと。
袖がびくりと揺れた。
「いません」
その影から聞こえた声は硬い。
「消えました」
瞬く。それから、育ての親であり、師である、老女の顔を見つめる。
「消えましたって……」
「いいのです、これで」
袖が下ろされて覗いた顔は、しんと静まっている。
その静けさがかえって恐ろしい。
――シロは貴女の
倖奈がそれを声にする前に。
彼女は後ろについてきていた女中を振り向く。
その手から風呂敷包みを受け取って、倖奈は声を漏らした。
「着替え」
「それくらいはできますね? 起きているのなら、屋敷に帰りましょう」
拒絶は許されない。
だけれども。自分がいなくなっていたら、後で部屋に戻ってくるだろう吉田は驚くのではないだろうか。
――史琉は?
結局、自ら刃を頸に当てた様を見たきりではないか。
起きていると聞いた。だから。
――史琉に会ってから帰りたい。
声が聴けるだけでもいい。
願いは、喉に絡まってしまって、押し出せない。
着替え終わるなり、部屋の外に連れ出される。
ひょい、と馬車に乗せられる。御者は遠慮無く、馬に鞭を当てる。
開けっぱなしの窓から顔を出そうとしたら。
「無理せず座りなさい。全快したわけではないでしょう」
そう言われた。
横を向けば、ひんやりとした顔で、育て親は前を向いている。
煉瓦造りの建物はあっという間に森の向こうへと離れていった。
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