68. 将軍閣下は宣言する

 視界が赤い雫で埋め尽くされていくような気がしたから。

 叫び声を上げて、走り続けて、もう一度石畳の上に崩れ落ちる寸前だった人の体に両腕を伸ばす。受け止める。

「史琉!」

 抱きしめた体は熱い。肩口に顔を埋めると、頬が濡れ、錆びた匂いが鼻をついた。

「いやだ!」

 両腕に力を込める。 いつもなら倖奈を支えてくれる体を、強く抱きしめる。

 途端、視界が白く弾けた。

 体中から、何かが流れ出ていく。

 瞼が、頭が重くなって、両足から力が抜ける。それでも必死にしがみつく。



 離してたまるか、と。



 それなのに。

「邪魔だから!」

 金切り声とともに、襟首を引かれた。

 抗う間もなく、腕の中から温もりが抜けていく。

 目を開けられたけれど、かくっと膝が折れて、その場にへたり込む。


 辺り一面には、馥郁たる香り。紅白の花弁の嵐。

 悲鳴と話し声が騒がしい。石畳を打つ軍靴の音もだ。


 正面にはいつの間にか、濃紺の肋骨服で、左袖に白地の臂章りょしょうを付けた男。

「吉田さん…… 史琉が」

 言うと、睨まれた。


 両腕で力を失った体を抱えたまま、吉田は何よりも大きな声を上げる。

「そこ! 新人は喚かない!

 高辻少尉はさっさと指示出してください! 何のための副官ですか!」

 それでもって、と吉田は息を継いだ。

「しっかりしてくださいよ、柳津隊長!」


 眉間に力を入れて、彼は抱えていた体を石畳の上に横たえた。

 そのまま、動かない人の肋骨服の釦に手をかける。

 ブチと音を立てて引きちぎられた前身頃はあっさりと避けられて、流れる血があらわにされる。

 その出所に手を伸ばした吉田は、さらに渋面になった。


「あの」

「煩い!」

 鋭い声。へたり込んだまま、後ろに体を引く。

「手当ての邪魔だ!」

 声も手も出ない。


 そのまま硬直した肩を後ろから叩かれた。

「倖奈。大丈夫かい?」

 柔和な声。泰誠だ。

「怪我のことは衛生兵のほうが詳しいから。任せよう」

 覗き込んできた顔は、いつもより険しい。


「常盤もさっき、軍の人が運んでいってくれた。彼も治療してもらえると思う」

「うん」

「大丈夫だよ。柳津大尉も、きっと」

「でも」

 倖奈の着物までべっとりと濡らした血は、きっと、を信じさせてはくれない。

 なのに、それよりも、と泰誠は眉を寄せた。


「シロが消えた」


 倖奈は首を傾げた。

「柳津大尉の体から、魔物が飛び出してきた後かな――それまでは僕のすぐ隣にいたはずなのに」

 泰誠の表情がどんどん渋くなる。

「いつ消えたのかも気付かなかった。なんだけど、常盤、大尉殿と続いて、乗っ取られた、とかじゃないよね?」

「そんなの」

 今はどうでもいい。

 史琉の体から魔物が、アオが飛び出したということのほうが大事だ。


 ほっとしたら、すうっと瞼が落ちた。

 泰誠が何か叫ぶのが聞こえたが、それさえも気にならない。




 *★*―――――*★*




 カツカツカツカツと、革靴が硬い音を立てる。

 煉瓦造の建物の中を進む秋の宮の表情も、強ばったままだ。


「このまま真っ直ぐ突っ込むつもりか?」

 後ろから同じ歩幅で歩いてくる天音の声に、振り返らずに頷く。

「だって、急いでいるし」

 すると、天音は喉を鳴らした。

「宮の口からそんな言葉が聴けるとは思わなかった」

「だって」

 そう口を開いてから。秋の宮は苦笑いを浮かべた。


「僕にも思うところがあったんだよ」


 すると、もう一人ついてきている秘書官が呟いた。

「そのお蔭で、即刻呼び出しに応じるかたちになりましたから、非常に結構です」

「僕は正直、今はこんなことに時間をかけていたくないと思ってるんだよ!?」

 振り返って叫ぶと。

「同感だ。なんで今、報告が必要なんだ」

 天音の溜め息が続く。


「だからこそ、何の策もなく突っ込んでいくと面倒になるぞ。我らをお呼び出しの相手が、誰だと思ってるんだ。エラい奴だぞ」

「身も蓋もないなぁ」

「実際のご身分も性格もエラい奴だ。

 想像つくだろう? ご身分を武器にネチネチ言ってくるに決まっている」

 もう一度、溜め息。天音は渋い表情だ。

「一方的に怒られるだけというのは不愉快だ」

「僕もだよ。っていうか、みんなそうだよ」


 年をまたいだ騒動を思い出す。

 魔物を取り逃がして、責められた一件。

 それが、秋の宮自身が引き篭もる理由にもなったし、天音が鎮台の副司令に任じられることに繋がった。

 ぐるりと巡って、もう一度ここに立つ理由にもなった気がするけれど。


 考えている間にやがて、足音は小さくなった。

 三人の早足が収まったわけではない。足下が、素っ気ない床から、柔らかな濃紅の絨毯に変わったからだ。

 そこから深い飴色の扉の前に辿り着くまではあっという間。


 木の扉を叩こうと手を上げて、ふっと息を吐いた。

「駄目だ、やっぱり緊張する」

「それ見たことか」

 くっくっと低い声につられて振り向けば。

 天音の頬はすこし蒼かった。さらにその向こうにいる秘書官に至っては、この数分の間で頬が痩けたような気がする。

「君たちも緊張してるんじゃないか」

「……煩い」


 自分はどうだろう。もっと情けない顔になっているのだろうか。


「よし、みんなお揃いだ」

「宮と一緒にされるのは納得がいかない」

「お二人とも、ここで言い争いは止めてください。火種が増える」

「筒井君の言うとおりだよ。だから、さっさと終わることを祈って、仲良く一緒に入ろうか」


 今度こそ、扉を叩く。ずっしりと重いそれを押して、さらに踏み込んでいく。

 奥は、鎮台のよく似た部屋よりも一回りも二回りも大きい、皇国陸軍の総司令の部屋だ。


「叔父様」


 わざと気安い呼びかけをしながら、ゆっくりと右手を上げて、敬礼する。天音と筒井秘書官が倣う気配がする。


「お呼びと聞いて、参上しました」

「そうか」


 正面の大きな、磨き上げられた机。そこに両肘をついて、組んだ手で口元を隠しながら。

 老齢の男が順に三人を見遣った。値踏みする、という表現がしっくりする目で。


 ああ、この目だ、と秋の宮は腹の底で笑った。

 冬の間ずっと、この目に責められて、厭になったのだ。

 だけど、と奥歯を噛みしめる。


――言われっぱなしには、もうならないんだ。


「また市中に――都の中で魔物が出たそうだな。しかも今回は、軍に被害があったと聞いた」

 渋い声が耳に届く。

 誰よりも光沢の強い肋骨服。肩にも腕にも並ぶ勲章。それらが立てる音にも気圧されながら。

「おっしゃるとおりです」

 頷いて、続ける。

「かんなぎが二名、軍人が一名、意識不明の重傷です。他にも軽傷者が複数」

「軍人、とな」

「はい」

 だけど、と一度背を伸ばした。

「市民に被害は確認されていません。今日は」


 そう言い切ったあと。数拍おいて、また問いかけが飛んでくる。


「魔物はどうした」

「……申し訳ございません。現在追跡中です」


 すると、姿勢を全く変えないまま、陸軍の総司令は深いため息を吐いた。


「またか」

「……また?」


 頬が引き攣る。横で天音が首を捻る気配がする。

 総司令は淡々と続けた。

「部隊長が死んだあの時も取り逃がしていたな」

 だから、喉の奥で呻く。

「遠郷君のことですか?」

 彼のことしか思い出せない。もうすぐ四年が経とうとしている、市外での掃討戦での犠牲。

「そういう名だったか? 名は思い出せぬが、殉職に伴い特進したことは覚えていく」

 机の向こうからずっしりとした声が返ってくる。

「殉職といえば聞こえがいい。だが、負け犬ではないか」

 つい。身を引いた。

 その分、天音が踏み出る。

「閣下! 今とその話に何の関係が――」

「私は宮将軍に伺っている。一条少将は黙るように」

 冷えた視線を向けられて、天音は口を閉じた。だが、体の横では腕が、拳が震えている。


 それを一瞥して、総司令はまた、秋の宮に向いてきた。

「命を賭けると魔物を取り逃がすのか、おまえのところの部隊は」

 目を剥く。

「無能どもめ。負け戦で命を落とすのは、非常に腹立たしい」

 総司令は冷たい目だ。

「今度は特進を認めない」

 加えて、そう続いたから。

「柳津君はまだ死んでないですよ。そんな報告は届いてない、勝手に殺さないでくれ」

 身を傾けて、叫んだ。

「それに、今日は、市民に被害はなかったんですよ! 一番大事なのはそこじゃないんですか?  おっしゃるとおり、鎮台の役目は、都を、この街に住む人たちを魔物から護ることだ。だからこそ」

 と、秋の宮は胸を張った。


「その身を張って街と人を護った彼を、英雄とは呼ばないんですか?」


 ぴくり、と司令の眉が跳ねる。

 今度は動じない。背筋は伸びたまま、秋の宮は声を続けた。


「今大事なのは、軍人が死にそうになっていることを責めることじゃなくて、彼が食い止めた被害を本当に広げないようにすることでしょう?」


 すると、天音が笑い声を上げ始めた。

「よく言った」

 鼻を鳴らし、彼女もまた、総司令を睨んだ。

「あんたも同じように最前線で刀を振ってみろ。ちびって何もできないくせに」

「天音、止せ」

 肩を掴んで、下がらせる。

「僕にもできないよ」

 彼女に笑いかけてから、眉間に力を入れて正面に向き直った。


「叔父様。引き続き、魔物に対応する許可をください」

 ぴくりともしない相手を、つよく睨む。

「頂けないんでしょうか」

 机に肘をついたまま、でも表情は苦々しいものに変えて、総司令は首を振った。

「一任する」

「有難う存じます」


 もう一度挙手の礼をとり、すぐに踵を返す。後ろにいた天音と筒井に笑いかける。


「行こう。の役目を果たしに」



 鎮台に戻るなり、筒井秘書官は部隊長全員を呼び集めてきた。

 そう、全員だ。

 それなのに、一つだけ席が空いている。


「柳津君の容態について、何か話は届いている?」

「意識が戻ったと先ほど連絡がありました」

「そうか」

 ふっと肩から力が抜けた。目の端からもだ。


「良かった」


 横に立った天音が瞬きを繰り返す。

「柳津大尉は、自分で自分の首の動脈をスパッと切ったって話だろう? そんなに派手に出血していて本当に大丈夫だったのか?」

「大丈夫だったのだから、いいじゃないですか」

 そう受けた筒井秘書官の頬は、またふっくらとしたような気がする。


「ちなみにどうして、柳津大尉はあんな手段に出たのか分かる?」

 秋の宮が見回すと、一人、別の眼鏡が喋り始めた。

「第五部隊の隊員やかんなぎから聞いたところ、既に、魔物に取り憑かれた者を斬ったらどうなるかを確認していたようですね。彼は何回もそういう事態に対応していますから、次遭遇した場合を考えていたのかもしれません」

「それだから、全く関係無い人だったら斬れぬが、自分だから迷いなく斬ったってことなのか?」

「推察ですが」

「帰ってきたらお説教だね。自分も大事にしてくれなきゃって」


 それだけではない、と笑う。

――君が目覚めた時、僕は胸を張っていたいんだ。

 役目を果たした、と。

「エラそうに出迎えられるように準備しないと」


 両手で自分の頬を叩いて、席から立ち上がった。


「いなくなったと云うくだんの魔物を捜し出す。もう一度捕まえる。叶うことなら斃して、あいつのことは全ておしまいにしたい」


 言い切って、目を瞑って。 秋の宮はゆっくりと顔を上げた。


 副官としてついてきた従妹。振り回してばかりのような秘書官。そして部隊長たち。皆が一斉に頷いたのが見えた。

 笑みが浮かぶ。


「目的はあるけれど、僕一人に力はない。勇気もない。だから、みんなを頼りにする。

 言ってくれ。どうしたらいいと思う?」


 では、と巨躯の隊長が手を上げる。

 そこからどんどんと、話が続く。

 渦巻く熱気に、背筋は伸びていった。

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