67. 赤は絶望を誘う色

 だから、息を呑む。ゆっくりと振り返る。


 扉は開いたまま。そこに美波の背中――真っ赤な着物と絞りの花が鮮やかな帯の太鼓が見える。

 問題は、さらにその奥。


――アオ!


 黒い靄は一度大きく広がって、それから集まって、人と同じ形に固まった。

 だけど、ぶん、と振り上げられた腕は、天を向いた瞬間太くなる。拳も膨らむ。たしかな質量をもって、床に叩きつけられる。

 もう一度、悲鳴。ガシャンという音が響いた。


「美波!」

 呼んで、ためらいなく踏み出す。扉の向こうへ飛び込む。

 部屋の真ん中に、黒い靄は渦巻いている。

 美波はその真正面に立ち尽くしていていたから、後ろから袖を引いてやった。フラフラと下がった彼女を、さらに自分の後ろへと押しやる。


 いま一人、斎は。珈琲色の背広に皺を寄せ、膝を揺らしている。

「な、なんだあいつ」

「魔物」

 短く返して、部屋の中を見た。


 白木の祭壇は崩れ、引きちぎれた注連縄が揺れている。床には御幣と果物が転がっていて、砕けた石――もともと勾玉だったものも散らばっていた。


「壊れちゃったら、もう一回閉じ込めることもできないじゃない!」

 声を上げる。

「仕方ないでしょ、勝手に落ちたんだから!」

 応じた美波の声には、振り向けない。


「そんなこと言って、落ちるきっかけを作ったのは誰なのよ!?」

「作ってないわよ、きっかけなんて。もの」

「……それって、触りはしたってことなんでしょ?」

「ちょっとつついてみただけ。それだけで出てくるなんて思わないじゃない」

「触らないほうがいいって言ったじゃない!」


 口から飛び出したのは金切り声。同じ瞬間、形をはっきりさせた魔物が、名状しがたい声を上げた。


 背格好はシロそっくりだ。だけど、人とは違う。真っ黒で、輪郭が定まらなくて、はっきりした瞳も無くて。

 腕が太くなったり、爪が伸びたりを繰り返す。

 人間とは違う、と奥歯を噛みしめる。


「なんとかしなきゃ」


 目を凝らせば、床には、榊の枝も折れて散らばっていた。

 一つ摘まみ上げて、両手で包み込む。


――この部屋いっぱいに広がってくれると助かるの。


 ひらりと掌から滑り落ちた葉は一枚二枚と増え続け、ついでとばかりに白い花も開く。

 狭い部屋を埋め尽くさんと広がった榊に、アオが足を踏み鳴らす。

 まなじりを吊り上げて、それを見守る。


「お願い、静かにして」


 倖奈が睨む先で常緑の葉がアオを包み込んでしまおうとしている間に、バタバタと足音が近づいてきた。


 振り向く。

「シロ!」

 灰汁色の長着の裾を翻し、右手で狐の面を弄りながら現れた彼は。

 部屋に踏み込むなり、顔をしかめた。

「本当に出てきておったのか」

 溜め息まじりの視線が向けられて、首を振る。

 だからなのか、彼はその視線を斎へ、美波へと動かしていった。


「おぬし、何をした?」

「知らないわよ! ちょっとつついてみただけだってば!」


 また、美波が叫ぶ。そして、へたりと、床に座り込んだ。

 シロは溜め息を響かせる。


「突いただけ?」

「そうよ。ちょっと指先が触れただけ」

「それだけで?」

 一度、首を傾げ、シロは目を細めた。

「おぬしだから駄目だったんじゃな。相性が良すぎたか」


 相性、と倖奈は口の中で繰り返す。

 シロは一人、ブツブツと続けた。


「このところずっと、瘴気に変わりそうなものをばらまき続けていたものな、おぬしは。

 アオは、自ら出てきたのではなくて、引きずり出されてきたか。この間の出没騒ぎも、如何にして勾玉から出てきていたのかと思っていたが、成程、娘に誘われていたか」

「ごめん。話がまったく見えないんだけど」


 入り口傍に留まったままの斎が口を挟む。

 一瞥して、シロは鼻を鳴らした。


「素人は黙っておれ」


 斎が口許を歪める。シロは肩も竦める。


「誰が玄人かも分かったものではないがな」

 そのまま、しらけた視線は美波へ向かった。

「かんなぎ、というのは建前だけか」

「な、なによ……」

 彼女が自分の腕で体を抱きしめるのに。

「あれだけ真っ黒なものを纏っておいて。本当に自覚無かったのか?」

 シロは首を振る。

 視線が向けられて、倖奈も一歩退いた。

「おぬしも、何も思ってなかったのか?」

「何も?」

 問い返すと、笑われた。


「倖奈はわしと同じものを見てくれるようだと思っていたんだがな。アオを祓うために何が要るかを考えておるかと」

「祓う?」

「まさか、ずっと閉じ込めておけるとは思ってなかったじゃろう?」


 ぐっと、言葉に詰まった。

 ただ目を見開いて、彼を見つめ返す。


「それに、わしは此奴が在る限り、人間には戻れぬのじゃよ」


 もう一度、シロは笑って。

 さて、とアオに向き直り、首を傾げる。

「これで部屋から出さぬことはできるかのう?」

 倖奈も向き直る。話している間に、アオは榊に埋め尽くされていたらしい。

 だが、枝と葉の合間から、にゅっと黒い腕が飛び出してくる。

 開いた手が、バキバキと音を立てて、常緑の葉を砕く。


 丸く開いた隙間から、にゅる、と靄が滑り出る。大蛇のように、ぐるりと宙でとぐろを巻いて、それから一つしかない窓へと頭を進めていく。


「待って!」

 手を伸ばす。両手で掴んだ尻尾は、びり、と引き千切られて。本体は、形を再び変えた黒い靄は、しゅるしゅると細い隙間から流れて出て行く。

 ああ、とシロは天を仰いだ。

「閉じ込めておけなんだか」

 その声を聞きながら、窓に駆け寄る。硝子越しに目を懲らす。


 庭を見れば、アオはそこをまっすぐ突っ切っていく。

 その場にいた人が、叫び、腰を抜かしているのも見える。


 玄関を回っている暇は無い。

――ままよ!

 散らばった榊の葉をもう一度かき集めて袖に入れ、窓を開ける。

 えい、と膝を上げて、身を乗り出す。

 枠の上で体の向きを変えて、外へ飛び降りる。

 白い足袋の裏が、湿った土の上について、ぐにゃりと沈んだ。


 躊躇いは一瞬。

 泥を跳ね上げて、駆け出す。


「止まれ!」


 アオは、思ったよりも遅かった。

 必死に走れば、追いつく。捕まえられる。念じて、駆ける。

 腰を抜かしてへたりこんで人の横、駆けてきた軍人の前をすり抜けて、進む。


「止まれってば!」


 影に手を伸ばそうとした瞬間に、顔の横を真っ赤な光がかすめて通った。

 決して熱くはないけれど、たしかに魔物を食らう焔。

 背中に受けたアオは塀から落ち、低い木立の間を転げていく。


「常盤!」

 倖奈は振り返った先の、同じかんなぎを呼んだ。

「魔物が逃げる!」

「分かってるから、そこを退け。邪魔だ!」


 襟元から立て襟のシャツを覗かせた、小袖と袴姿。いつもと同じ、臙脂色の着物を着た青年。

 拳にまとわりついた焔は、負けずと赤い。鋭く光り、アオへと一直線に飛ぶ。


 魔物を呑み込んで、大きく膨れた、焔は。そのまま弾け飛んだ。


「あれ?」

「なんだ?」


 常盤がまゆを寄せるのが見える。

 そして、倖奈が瞬いている間に、アオは土に立って、天を仰いで口を開けた。そこに、散らばっていた焔が吸い込まれていく。

 転げた時に付けたのだろう、枯れ葉や小枝を貼り付けたままで。


「……ふむ?」

 いつの間にか横に来たシロが顎を擦る。

「かんなぎの力を吸い取ることを覚えたかのう」


 え、と瞬く。

「あの小娘で味を占めたが」

「それって――」

「まずいな」

 シロは乾いた笑いを浮かべた。

「おぬしたちの攻撃が効かなくなるということじゃな」


 焔を全部吸い尽くと、ぱかりと口がなくなる。そして、アオは跳ねた。一直線に常盤へと向かっていく。


 逃げられなかった。のし掛かられ、背中から倒れ込む。

 二度、土の上で、彼の体とアオは跳ねた。黒い掌が彼の喉を押しつぶした瞬間。

 ぐるん、と常盤の眼が回る。


 見たことがある、と思った。

 神社で、同じようにご神体の鏡から出てきた魔物が、神主に取り憑いた時だ。


「嘘だ」


 しゅるしゅると、靄は消えていって。常盤の体は起き上がる。

 びょん、と跳ねて、もう一度、塀をよじ登っていく。

「外に向かっていく!」

「逃がすな!」

 叫びが上がる。背中を押されて、もう一度走り出す。

 今度は、塀の向こうへの先回りを狙うしかない、と腕を振る。


 追いついて、何ができるとも思わない。

 それでも。

 塀の向こう柄、鎮台の外へと急ぐ。


 足袋だけの足の裏。石畳は硬く、痛い。


 通りの空気は、一瞬のうちに色を変えた。

 悲鳴が上がり、人が一斉に走り出す。

 がらんどうになった真ん中を、悠然と歩いて行こうとした常盤がピタリと足を止める。


 その正面に立ったのは、濃い緑の鳥打ち帽と襟巻きをつけた書生姿。

「何がどうなっているんだい、常盤?」

 バチバチ、と両手に雷を纏わせて、泰誠は肩を震わせている。

「魔物に乗っ取られたとか、冗談きついよ……!」

 叫びとともに、雷光が走る。


 それも、ぱかっと開いた常盤の口に吸い込まれていく。

 おや、と言って、泰誠が動きを止める。

 その後ろに、倖奈は全力で駆け寄った。


「逃げて!」

 勢いを付けて、ぶつかる。

 グキッ、という音が聞こえた。

 二人で石畳の上に転がると同時に、黒い爪が空間を裂いていく。

「寄らないで!」

 叫び、袖のうちから取り出した葉を投げる。

 常盤は叫んで、飛びすさっていく。


 その隙に起きあがろうと腕に力を込めたら。

「ちょ、腰、腰……!」

 下敷きになっていた泰誠が呻いた。


「今ので、き、きた……!」

「何が?」

「腰がやばい……」

「……腰痛持ちなのか」


 三つ目の声が混ざって。

 瞬いて、振り仰ぐ。声の主――濃紺の肋骨服に軍刀を下げた人を見て。

「史琉」

 呟くと、笑われた。


「おまえは本当に、どこからその根性が出てくるんだ」

「え?」

「足、血が出てるぞ」


 指さされた先。白い足袋は、土と血でぐちゃぐちゃだ。


「この騒ぎなら、もうすこしで吉田たちも出張ってくるだろ。すぐに手当してもらえ。

 ……泰誠殿は、復隊を狙うなら、すこし鍛え直した方がいいんじゃないですかね」

「耳が痛いなぁ……」


 泰誠は転がったまま。

 史琉は、喉を鳴らしながら、視線だけを動かす。その先は、眼球がひっくり返ったままの、常盤だ。


「倖奈」

「うん」

「あれは魔物に取り憑かれたのか?」

「そう、なの」


 一度、息を吸って。

「あれは、アオ、なの」

 告げると。


「ふざけんなよ」

 ぎらり、軍刀が抜き放たれる。

「勾玉に入ってたんじゃないのか」


 ガン、と革靴が石畳の上で鳴る。

 音で振り返った常盤へと、史琉が走る。


 振り込まれた軍刀を常盤は素手で握り、そのままパカッと口を開けた。

 呻いた史琉は、刀を振り切って、後ろに跳ぶ。

 勢いで常盤の指が落ちる。それに動じることなく、口から焔が吐き出される。


「常盤の技だ」

 泰誠が呟く。

「これ、この後、僕のも出てこないよね?」

「出てくると思うのう」


 気の抜けた声。

 見れば、シロもやってきていて、手を叩いた。


「頑張っておるな、大尉殿」

「手伝え、くそ爺」

 常盤から視線を外さずに下がりながら、史琉が声を張る。

「最近のおぬし、ずいぶんと口が悪いぞ」

「コレが素だ。だから手伝え、おまえもかんなぎなんだろう?」

「そうなんじゃが、残念なことに、儂らには打つ手がなくなってしまってなぁ」

 ニヤニヤしたまま、シロは肩を竦める。

「見たじゃろ? かんなぎの攻撃は吸い取ってしまう――アオの力を増す手助けになってしまようなのじゃよ」

「ふざけんなよ」


 はあ、と史琉が息を吐く。

 シロは笑うのを止めた。


「おぬしの軍刀が頼りなんじゃよ」

「そう言われちゃ、仕方ないな」

 史琉が刀を握り直し。ちら、と視線を投げてきた。


「ちなみに? 魔物が取り付いた人を斬るとどうなるんだっけ?」

「魔物は斃せるが、人も死ぬ」

「そうだったな」


 短い溜め息。

 それから、また彼は走った。

 今度は突き込まれた刃を、伸びた黒い爪が受け止める。


 爪と刀が切り結ぶこと、数合。

 絡まり合った時、不意に、史琉が常盤の横腹に膝蹴りを入れた。


 殴られた常盤の体から。ぐぅ、という人の呻き声が上がる。

 同時に、雷が――常盤のそれがちょろりと吐き出されてくる。

 小さくて短くても、その雷は効いたらしい。胸に受けた史琉が顔を歪め、膝を付く。


「まずい!」

 叫んで、泰誠が立ち上がって。また腰に手を当てて、うずくまる。

「役立たずめ」

 シロがぱん、と手を打ち鳴らす。

 ぼんっと音を立てて生まれた、透すきとおった球は、ふらりと流されていく。


 頼りなく進んでいっても、肩をかすめた球は、効いたらしい。常盤が動きを止める。

 顰めっ面のままの史琉が、常盤のみぞおちへ頭からぶつかっていく。

 それで吹っ飛んだ常盤は、背中から道に落ちて、弾んで、動かなくなった。


「しばらく動くなよ」

 両膝をついたまま、史琉は咽せ始めた。

「大丈夫、かな?」

 よろめきながら立ち上がった泰誠が、呟く。


 皆が見る中、動かなくなった常盤の体から。

 黒い靄が立ち上ぼる。

 しゅるり、と揺らめいて。


 向かった先は史琉だ。

「止めて!」

 叫ぶ。それで止まるはずのない靄は、彼の体に食い込んでいく。


 刀を握りしめたまま。どさり、と彼は道の上に崩れ落ちた。


 追い出さなければ。そう思って、走り出す。


 向かう先で、大切な人が体を起こす。目を開ける。

 ひっくり返った瞳じゃない、大丈夫、と胸の裡で笑んだ時。


 彼の唇が緩やかに綻んだのが見えた。


 そのまま、手にした刃が喉を裂く。

 赤が吹き上がる。

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