64. 気づいてしまった
昼前の日の光が部屋の隅々までを明るくする。
その中で、これ、と渡されたのは紙一枚。
「第五部隊に届けてきて」
「……構わないけれど。これだけなの?」
倖奈がどれだけ瞬いても、年嵩のかんなぎの表情は変わらない。
「さっさと行ってこい」
睨まれれば、何も言い返せない。溜め息を呑み込んで歩き出すと、横を長着に羽織という姿のシロがついてきた。
「わしも、あっちの隊長殿に用事なんじゃよ」
「そうなの?」
「話が通じる相手というのは楽じゃな」
けけけ、とシロは笑う。
そのまま北向きの部屋に入ると、訳知り顔の軍人がすぐに奥へと通してくれた。
本や新聞、書類の束が山積みになった机の反対側に座る人も、すぐに振り向いてくる。
きっちりと釦のとまった濃紺の肋骨服に、ぴったりとはまった白い手袋。軍刀だけは腰から外れて、机に立てかけられていた。
「ご苦労様」
薄い唇に穏やかな笑みを浮かべて、彼は指を伸ばしてきて。するりと倖奈の持ってきた書類を取っていく。
途端、眼鏡の向こうの視線は一等険しくなった。
当然だ、と倖奈は唾を呑み込む。
「昨日、この建物の裏から逃げたと疑われる魔物は、捜索の結果、見つからなかった。
――だそうだ。これ以上の報告はない」
史琉が唸る。その後ろから覗き込んでいた高辻副官も、眉を跳ねさせる。
「軍をバカにしているのか、かんなぎ共は」
「あっちも誇りがかかっている。足下から敵が湧いて出たなんて、認めたくないだろう。出現時に即刻報告があっただけで良かったんだよ」
苦笑いを浮かべて、史琉は紙を机に置く。
そのまま別の書類に視線を落とした彼に、呼びかけようかどうしようか逡巡していると。
「のう、隊長殿よ」
隣に立っていたシロが先に声を出した。
「すこし話に付き合え」
へらっと笑う少年を一瞥して。
「忙しい」
史琉はすぐに視線を戻していく。高辻副官も静かに離れていく。
なのに、シロはニッと笑って、倖奈を振り向いてきた。
「ほれ、おぬしからも頼んでくれ」
「どうして!?」
「おぬしの頼みなら断れんかもしれんじゃろ?」
もう一度、史琉が顔を上げる。
シロは机に両手をついて身を乗り出した。
「な? 倖奈もこう言っておる」
「まだ何も言ってない!」
「可愛い恋人の頼みを無下にするのか?」
ぴく、と史琉のこめかみが引き攣った。
「公私混同する気はないぞ」
冷え込んだ声。うっとシロが唸る。
その彼の、煎茶色の羽織を引っ張った。向けられた顔を、ぎゅっと睨む。
「邪魔をしないで」
「つまらんのう……」
姿勢を直し、襟も直した上で、シロは天を仰いだ。
「その見つからなかった魔物についての話なんだが」
「それならそうと、早く言え」
史琉の溜め息が返ってくる。
「その話なら、付き合う。見つからなかった魔物がなんだって?」
改めて向けられた銀縁眼鏡越しの視線は、いつにもまして鋭い。
――もしかして、隈ができてる?
珍しい様相に何度も瞬く。
「昨日は、見てないので確実なことは言えぬと答えたがな」
シロは、笑みを滲ませた声で話し出す。
「よくよく気配を辿ってみれば――やはり、勾玉に捕らえているアオのような気がするんじゃよ。昨日出たという魔物は」
そして、と一つ息を吸う。
「まだ鎮台の中におると思うんじゃ」
つい、目を向いた。史琉の視線も鋭くなる。
「その根拠は?」
「勘」
シロはにっと笑った。
「分かっておるじゃろう? わしとアレはもともと一つの存在。だから、お互いなんとなく分かるもんなのじゃよ」
もう一度机の上に身を乗り出し、シロは史琉に顔を近づけた。
「今どの程度の力を蓄えているのか、何処にいるのか、なにをしてやれば鎮まるのか。そんなことがなんとなく分かる」
「分かるから、どうしろと?」
「今、鎮台の中を逃げ回っているだろうアオを鎮めるには――そうじゃな。鎮台の中の瘴気の元を断ってやらねばと思うのじゃよ」
ふん、と鼻を鳴らして、史琉は体をシロに向けた。
「それで? その瘴気の元は何処だと考えている?」
「残念なことに、かんなぎの寮の中なんじゃよ。だから、勾玉を祀る場所を変えてやったほうが良いかもしれぬな」
「例えば何処に?」
「いっそ、鎮台の外に出すのも手じゃ。例えば、
シロが言うと、史琉の顔がさらに険しくなる。
「妃殿下は軍人じゃない」
「だが、かんなぎだ。それも強力な。魔物を祓う武具を作るのも、閉じ込める場を作るのもお手の物じゃ」
それに、とシロは振り向いてきた。
「あの屋敷には倖奈が住んでいる」
心臓が跳ねる。
「……わたし?」
「そう、倖奈。さらにいうなら、倖奈の持つ花を咲かせる力がある。これを巧く使えば瘴気を弱らせることができるぞ。隊長殿も散々目にしてきただろう?」
「そうだが」
史琉の眉間の皺は深いままだ。
「咲かせた花で魔物を捕まえたり、人に乗り移ってきた魔物を追い出したり、逆に捕まえたり。それが魔物を弱らせた結果で出来ていたんだとは納得する。
……そこで訊きたいんだが」
史流は長い脚を組み替えて。シロをひたと見つめた。
「おまえ、まさか、試すために倖奈を連れ回していたのか?」
え、と呟いた。シロも目を丸くする。だが、次の瞬間には腹を抱えて笑い始めた。
「そうだな。最初にこの娘の力を見てから、アオを消すために使えるんじゃないかとずっと試していた」
もう一度。え、と呟く。シロは笑いっぱなしだ。
その彼の胸元に、机越しに史琉の腕が伸びた。
ぐいっと、右手が襟を掴む。
前屈みになったシロが、おっと、と呟く。
史琉も身を乗り出した。
「これは俺の私人としての警告だ」
ふっと口許が緩む。目の端は吊り上がる。三白眼は冷え込んでいく。
「倖奈を危険に巻き込んでくれるなよ」
囁く声は、聞いたことのない低さ。
「そうしたらどうなる?」
頬を引きつらせたシロが問うと。
「簀巻きにして、川に放り込んでやるよ」
史琉は、口の端を片側だけ持ち上げた。
部屋を出るなり。
「ふむ。面白かった」
シロは満足げに笑った。
「何が?」
倖奈は横目で睨む。
「そりゃあもちろん、大尉殿の反応が、に決まっておる」
「自分がしたかった話を聞いてもらったのに、面白い、だなんて」
さらに睨んでも、シロはけらけらと笑うばかりで。
「公私混同しない、と言いつつ、最後の最後で混ぜてくれたのう」
にやけた顔を向けてきた。
「実はな―― 今朝、かんなぎの寮の食事で噂だったんじゃよ」
何が、と訊けば、笑みが深くなる。
「第五部隊の隊長殿とかんなぎのおぬしが
瞬間、顔が火を噴いた。言葉は喉に詰まる。
シロは目を細めた。
「秋の騒ぎは思わぬ方向に進んだ、と皆言っておった。まあ、わしからしたら、もともと惚れておったおぬしが報われたんじゃ、文句はない。
話が分かっていたから、あの
「誤魔化すって……」
「おぬしの可愛い頼みを聞いてくれってことじゃ」
だが、とシロは口の形をにゅっと変える。
「ここについては公私混同しないな。あの様子だと、大尉殿自ら文句を言いに乗り込んできそうじゃ」
「当然じゃない」
――大事な話を誤魔化そうとするなんて!
「赦せない」
ぎゅっと両手に拳を作ると、シロがさらにけたたましく笑った。
戻った寮では、つい、きつい口調になってしまった。ただ、受け取ってもらえた、と告げるだけなのに。
年嵩のかんなぎは、不機嫌そうに口を曲げて去っていった。
シロは、散歩と出て行った。
残った倖奈は、居間として使われている大部屋に顔を出した。
親しい顔は、と見回していると、後ろから笑い声が飛んでくる。
振り向く間もなく、背中を叩かれた。
「聞いたわよ、倖奈!」
年上の、女性のかんなぎたちだ。その瞳をまっすぐに見つめて、思わず唸る。
――そうか、この人たちも知ってるんだ。
その予想どおり、聞いてくるのは史琉のことばかりだ。
だが、やりづらい。
――真希や菜々子なら、いくらでも話せるのに。
ぎゅっと唇を噛んで、横を向くと、さらに笑われて、肩を叩かれた。
「困ったことがあったらいつでも相談してね」
「応援してるわ!」
おざなりな『有難う』にも、彼女たちは華やかに笑って去って行った。
窓際の一角に陣取っておしゃべりを始めた彼女たちから目を逸らし、踵も返したところで。
階段を上がっていく赤い袖が見えた。
「美波!?」
部屋から出てきていたのか、と驚く。
考えるまでもなく、追いかける。
駆け上がって、部屋の扉が閉められる前に、その袖を掴んだ。
「どうしたの!?」
「うるさいわね、放っておいてよ!」
着物は綿の部屋着。手入れが悪いのか、色は褪せて、ところどころ解れている。
白粉も紅もつけていない顔は、蒼い。乾いて、粉を吹いている。
すこしひび割れた唇からは、鋭い声が飛び出してきた。
「あんたから話すことなんて何もないんでしょう!?」
「ある! 部屋から出てきたなら、ちゃんとご飯食べて。いつまでも落ち込んでないで――」
「落ち込ませてるのはあんたじゃない!」
まっすぐに倖奈を見下ろす、美波の目は赤い。
「なんで黙ってたのよ!」
何を、と問いかけて、はっとなった。
美波は真っ赤な顔で。
「いつ、大尉殿と恋人になったの?」
と、言った。
一歩、下がる。
袖は掴んだままだったから、美波が踏み出してくる。
「なんですぐ教えてくれなかったの?」
「そ、それは」
「わたしは宮様とのことをすぐに話したじゃない?」
「そう…… だったっけ?」
「そうよ! 恋人になった時も、分かれた時も、すぐに、すぐに話したじゃない!」
それなのに、と美波はきつい目を向けてきた。
「倖奈はなんで、わたしに黙ってたの? 言いたくなかったの?」
問われ。一つ、息を吸って。
美波に伝えたくない、と体が震えた。あの感触を思い出す。
「そうよ」
答えを吐き出す。
「言いたくない! 何を話したって、美波は笑うんでしょう!?」
声は甲高く響く。
「お似合いじゃない、とか言うんでしょう? いいえ、もしかしたら、史琉のことも悪く言い始めるんでしょう。あることないことを、面白おかしく!」
だが、止まらない。
「魔物退治に役立てるようになった時も、調子に乗ってるなんて、悪口を言って。お洒落だって、わざと似合わない服を用意して邪魔をしてきて」
湧き上がる言葉は、一つの形にまとまっていく。
「わたしが美波より出来損ないじゃないと、美波は嫌なんだ」
――ああ、そうか。
勢いで飛び出してきた言葉に、目の奥が熱くなった。
――仲良しだなんて、嘘だったんだ。
黒い瞳が揺れて、長い睫毛が震えるのも見える。
「うるさいわね、どっちが相手をバカにしてるのよ」
返ってきた声も掠れて、小さい。
だけれども。
わざとらしく腰に手を当てて、胸を反らす。すこし高い位置にある美波の眼を見上げる。
「わたしは美波みたいになりたくない」
頬が濡れていくのはそのままに、まっすぐ立つ。
「努力しないで、いじけてたりしない。誰かが頑張っているのを邪魔したり、笑ったりしたくない。好きな人の邪魔になりたくない。
自分を誇れるようにいたい」
そう、と言って、美波はゆっくりと背を向けた。
「勝手にすれば」
そのまま、音も鳴く歩いて行く。
ぱたん、と扉がしまる。
倖奈は溜め息を吐き出した。それからやっと、顔を手の甲で拭う。
両腕をだらりと下ろしたところで。
「廊下で騒ぐな」
声がかけられた。
「常盤」
振り向いた先にいたのは、臙脂色の着物と墨色の袴を着た、かんなぎと。
「……泰誠」
同じく緑色の、書生姿の仲間だ。
床を鋭く鳴らして近寄ってきたのは、常盤が先だった。
「おまえらが仲違いをしていると、こっちの心臓に良くない」
「ごめんなさい」
「泣くくらいなら、最初から喧嘩するな」
「だって」
決定的なことを言ってしまった気がする。
――わたしはもう、美波を好きになれない。
俯いた横を擦り抜けて、常盤は部屋の扉を叩いた。
「おい、美波。開けろ。入るぞ」
そのまま何か話し始めた声が続くが、内容は聞かない。
くるりと背中を向けると、今度は泰誠と目が合った。
「酷い顔をしてる」
そう言って、彼は懐から
「触らないで」
「分かってるよ」
クスッと彼は笑って、手巾だけを差し出してくる。
「もう、完全に、僕の負けだから。困らせることはしないよ。だからこそ、放っておけない。友人として、慰めさせておくれよ」
唇を噛む。
「友人って」
「同じ力を、志を、持つ仲間としても、ね」
彼はさらに笑う。だから、手巾を受け取った。
「有難う」
今のは、心の底から湧いた言葉だ。
泰誠の穏やかな笑顔が、引き出してくれたものだと分かるから、さらに泣いた。
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