61. 沈んでいく、澱んでいく
咄嗟に思い浮かべたのは、想い人の顔だった。
――史琉。
その影を、頭をぶんぶん振って、思考から追い出す。
彼は今、軍の哨戒に出ているはずだ。これが今すぐ話したい事だからといって、その中に走り込んでいくなどしたら。
――美波と一緒になっちゃう。
ようやく脳裏に浮かんだ捜し人の影に、息をつく。
夕暮れの中へ出ていったという彼女。何処に向かっただろう、と唸る。
――万桜様の屋敷、はないよね。わたしもそっちに帰ったら、今日もう一度外出するのは難しくなるかもしれないし。
だとしたら、鎮台に向かうのが一番かしら。泰誠や常盤たちもいるし。
よし、と頷いて。
秋の宮へ礼を述べるのもそこそこに、鎮台へと走った。
赤い煉瓦造りの建物の、玄関を飛び込む。
共用の居間として利用されている部屋をのぞけば、
「倖奈。万桜様と帰ったのではなかったの?」
首を横に振って、目を見開いた彼に走り寄る。
「それどころじゃないの。……ねえ、美波を知らない?」
すると、こくりと頷かれた。
「さっき帰ってきたよ」
あっけない、と瞬いて。
胸をなでおろした。
「良かった、変なところに行ってなくて」
まったくだね、と泰誠も穏やかに笑んだ。
「三ヶ月ぶりかなぁ。ようやく、宮様のところから出てきた。
万桜様に怒られて心を入れ替えたかな」
「それはない、と思うけど」
自分の部屋にいるよ、と話す泰誠と階段を登る。
その間も、思うことは一つ。
――ちゃんと謝るんだ。
両手で自分の頬を触る。触れ合った唇の感触を思い出す。
それなのに。
扉の前にいた影に、思考はプツンと切られた。
「シロ」
見かけだけは倖奈と同じ年頃の少年。
胡桃色の長着に、羊羹と同じ色の帯を締めた姿で、右手では白い狐面を回している。
「ちょうど良いところに来たのう」
振り返ってきた彼は、ニヤリと口の端を上げた。
「何をしてるんですか、あなたは」
泰誠は声を荒げる。
「そこは女性の部屋なんですよ!?」
「ほほう、それは知らなんだ」
「知らなければ、一人で突っ立ってていいってものじゃないでしょう!?」
こめかみを引き攣らせる泰誠を尻目に、シロは、倖奈を手招いた。
「なあ。分かるか?」
「……なにが?」
「この扉の向こう。非常によろしくない」
くるん、と狐面を一回転させて、シロは続ける。
「瘴気に満ちておる。今にも魔物が生まれそうなほど」
「冗談でしょう」
「本気だとも」
顔をしかめても、シロは呵々と笑い続けた。
「おぬしには、瘴気を産むものがなにか、は教えたな」
笑顔をにらみつけて、唸る。
「瘴気は人が産むもの――人の魂の荒ぶる部分、なのでしょう?」
すると、にっこりと笑われた。
後ろの泰誠からは歯ぎしりの音がした。
「以上からよしなに推察してくれ」
「美波が怒っているとか、とにかく気分が荒れているってことよね?」
「そうそう。なんとかしてやらねばならんのう」
「当然よ」
応じて、一歩踏み出す。
「中に入るのか?」
「他にどうしようもないじゃないの」
謝るにしても、瘴気を払うにしても、とりあえずは中の様子を見てからだ。
ひとつ息を吸って、戸を叩く。
「わっ!」
叫んだのはシロだ。
なのに、倖奈も泰誠も肩を揺らす。
「驚かせないでくださいよ!」
「そうよ、本当に魔物が出たのかと思ったじゃない!」
「悪かった、悪かった。そこまで驚いてくれると思わなんだ」
腹を抱えたシロに背にして、もう一度戸に向き直る。
すると、ちょうど開いたところだった。
「なによ、騒々しいわね……」
緑の黒髪に、赤と白の格子柄の振袖。
美波だ。
彼女は、三人の顔を順に見て、最後、倖奈をぎゅっと睨んできた。
「何をしに来たの?」
「あの――」
謝りたくて、と言いかけて口を噤む。
もつれた髪の先。乾いた部分の目立つ頬に、わずかに窪んだ目元。
それを見てしまったら、声が詰まった。
だというのに、シロは呑気な声だ。
「おぬし、何をしておった?」
美波は低い声で応じる。
「なんでもいいでしょう?」
「良くはないな、気になるから訊いておる」
くるん、ともう一度狐面を回したシロは止まらない。
「おぬし、酷い顔をしておるぞ」
「ほっといてよ!」
「泣いていたかしれぬが、そのついでに何を考えておった? 碌な事でないだろう? 誰を憎んでいるか、恨んでいるのか」
「そんなことないわよ!」
「笑止」
シロがぴたりと手の動きを止める。
狐面で口許を隠し、弓なりになった目元だけを覗かせて。
「そこまでどす黒い瘴気をまき散らしておいて、醜くないと
おぬしは魔物の母となる気か? 他者を傷を負わす者となりたいのか」
美波も一つ瞬きをして。ぎゅっと唇を尖らせた。
「余計なお世話。いやね、年長者ぶって、お説教は大嫌いよ」
そのまま目の前で閉められそうになった扉に、倖奈は慌てて手を出した。
めいっぱい引いて、隙間を作って。美波の手が取っ手から離れた隙に滑り込む。
「勝手に入ってこないでよ!」
「ごめんなさい。あと、さっきも。叩いてごめんない。ごめんなさい」
まくし立てながら、彼女の向こうの部屋を見る。
大きい桐箪笥に背の高い鏡台、飾り棚の置かれた部屋。
秋に覗いたときよりも殺風景――棚や机の上から小物が消えているのは、しばらく不在にしていたからか。
部屋の真ん中には、旅行鞄が口を開けておかれていた。
「帰ってきたばかりで落ち着かないとは思うけど。あの」
「なによ」
ぶすっとなった美波の顔をひたと見つめる。
「無理しないでね」
すると、鼻で笑われた。
「余裕なのね」
今度は倖奈が瞬く番だ。だが、美波はひたすら笑っている。
「私が帰ってきたって知ってるってことは、どうせ知ってるんでしょ」
「なにを?」
「カマトトぶらないでよ。知ってるんでしょ」
「だから、何を?」
くしゃり、と美波の顔が歪む。
「どうしても私に言わせたいの? 嫌み?」
髪を掻き上げた左手に、指輪はない。
だから、鋭く息を呑む。
ゆったりと吐き出された、
「わたしね」
と言う言葉に、
「言わなくていい!」
叫び声を被せる。
美波は、充血した目を見開いて、唇で弧を描いた。
「知りたいくせに、なに言っちゃってるのよ。私の不幸を笑えば良いわ」
「そんなことない!」
もう一度叫んで、右手を伸ばしかけた時に。
「わたしね、秋の宮様にフラれたの。出て行けって言われたのよ」
美波があっさりと言うから、それを止めた。
「あんたはこのあいだ、大尉さんにフラれてるでしょ?
だから、わたしとあんた、これ一緒なの」
違う、という言葉もすんでの所で呑み込んだ。
もう一度、彼の姿を思い出す。
まっすぐに立つ背中、魔物を切り裂く刀。それを振るう腕に、倖奈に触れてくる掌。
向けられた視線に、唇も。
美波に伝えたくない、と体が震えた。
両腕を自分の体にぎゅっと巻き付ける。
「また仲良くできるわね、嬉しいじゃない」
伸ばしかけの手に、ほっそりとした手が近づいてくる。だけど、払った。
「触らないで」
「なによ、結局、わたしに付き合う気がないのね」
鼻を鳴らされた。
「用が終わったなら、出て行ってくれる?」
「……食事は? 取らないの?」
「気分じゃない」
肩を落として、きびすを返す。戸を半分開いたところで、振り返る。
「あのね。叩いたのは、本当にごめんね」
「……そう」
ギイ、と音を立てて戸が閉まる。
「なんで倖奈まで酷い顔になってるの」
泰誠の声に、苦笑いを浮かべた。
「酷い顔、してる?」
「頬が痩けておるぞ? なんぞ甘い物でも食うか?」
シロまで眉を下げるから、ますます笑った。胸の底は重いままだけれど。
「で、美波はどんな様子?」
泰誠の問いかけに首を振る。
「また明日、話してみる」
こう答えるので、精一杯だ。
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