60. 将軍閣下、回れ右
いつも喋っている美波らしくなく、馬車に揺られている間ずっと無言だった。
屋敷について、段を降りるために手を貸した時にやっと笑んだ。
「どうしたの。嫌なことでもあった?」
秋の宮が問いかけると、頷かれた。
「宮様にはすべてお話ししたいですけれど…… ここでは止めておきますわ」
それはここでないところならば喋るということか、と考えて。秋の宮も笑う。
「僕も、君に話したいことがあったんだ」
「わたしと?」
一瞬だけ、美波の顔が
「そう。僕と君だから、話さないといけないこと」
秋の宮は笑みを浮かべて、手を引いて。寝室とつなぎになっている、自室へと向かった。
女中がお茶を持ってくる。西洋渡りの紅茶だ。砂糖と練乳をたっぷり入れられた、甘いとわかるそれを二人分置くなり、すぐに出て行ってしまう。
香りが充ちる部屋の中に残されて。
どう切り出そうか、と秋の宮が唇をわななかせている間に。
美波が先に、白磁の器に口をつけてから、ゆるゆると息を吐いた。
「倖奈に叩かれましたの」
咄嗟に、その言葉が意味した内容を把握できなくて、きょとんとなった。
言った当人は、ぎゅっと眉間にしわを刻んだ。
「叩かれたんです」
「誰が、誰に?」
「わたしが、倖奈に」
「あの子が、そんな乱暴をするわけが」
「ありますの。だって、ほら。わたしの左頬、赤くなっていませんか?」
何度か瞬いてから、秋の宮は美波をじっと見つめた。
はたして、どうだろう。
泣きはらしたのか、目は真っ赤で、まぶたが腫れぼったくはなっているけれど。
頬は変わらない、ような気がした。
だから。
「そんなに目立たないよ」
と、言ったのだけど。
「わたし、叩かれたんです!」
美波は叫んだ。
「喋っていただけなのに、叩かれたんですよ。悪いのはあの子じゃない!」
「うん…… そう、なのかな」
「決まってます!」
彼女の目の端に、じわりと、雫が滲む。
「顔が腫れてなければいいわけじゃないんです。
わたしは、悪くないのに。悪くないのにどうして、ひどい目に遭わないといけないの」
ボロボロと涙をこぼしながらも、はっきりと、思っていることを伝えてくる声。自分に正直な、美波の声。
今は少し、この声を、うるさいと思った。
――なんで。
こめかみを両手で押さえながら、秋の宮は目を閉じる。
すると、先ほどの出来事が思い出された。
自分が指揮を執っているはずの、皇都鎮台の司令官室での事。
この部屋に、補佐として送られてきた天音がいないのは、久しぶりだった。
だからといって、ゆっくりさせてもらえる訳ではなく。十人いる鎮台の部隊長たちは、代わる代わる部屋に入ってきた。取り次ぎをする秘書官が、途中からは泣き笑いの顔になるほどの目まぐるしさで。
「また、柳津君?」
本日三回目となる相手の顔をじとっと見遣る。
「お伝えし忘れていたことがございまして」
中肉中背の体で濃紺の肋骨服を着込んだ彼は、眼鏡をかけ直しながら、応えた。
「これで最後です」
「本当に?」
はははっと笑って。
彼が隊長たちの中で唯一、自分と同年齢だと分かっているからこその、気安さで。
「意地悪だなぁ」
と口をとがらせる。
「一度にたくさん話したら、僕が忘れていくかもとか考えてない?」
「さて」
いつもひんやりと落ち着いている顔は、今も変わらない。溜め息がこぼれる。
「それにしたって今日はどうしたの。細かい報告を次から次へと」
「閣下がなかなか鎮台においでにならないので、溜まっているのです」
「本当に? みんなして僕を試してるんじゃないのかって思うよ。
君もだろう。こっちになかなか異動してこなかったこともさ、僕を試していたんではなくて?」
すると、柳津大尉は、眉を跳ねさせた。
「それをそのように評されるのは心外です」
そのまま鋭い視線を向けられる。
「義父の法要のためと申し上げたはずです。義父は生前、都には帰りたくないと申しておりましたので、墓をあちらに立てました。だから、法要もすべて向こうでやりたかったのです」
「本当にそれだけ?」
「そこまでお疑いになられると、私も大変やりづらいのですが」
銀縁眼鏡の奥で、三白眼が細められる。秋の宮もすうっとまぶたを下ろす。
「だったら、北に帰るというかい?」
彼は制帽のひさしをわずかに下げて言った。
「御命令であれば」
「……言わないよ」
首を振る。
「言ったら、本当に情けないじゃないか」
机に肘をついて、手の上に顎をのせて。また、息を吐く。
「自分で呼んでおいて、嫌いになるなんて、そんなの……」
ぐしゃり、と秋の宮は両手で自分の頭を抱えた。
「分かってる。僕は、先生に選んでもらえた君に嫉妬してるんだよ」
返事はない。だから、一人で喋り続ける。
「生まれた時もうすでに、僕は二番目だった。兄が――主上がいたから。だから、期待も構ってもらうのも、いつも二番目だった。何かひとつでも一番になれたら良かったのに、何ひとつそうじゃない。学校の成績は常に上がいたし、家での勉強も天音に負けるし、先生は『息子』に君を選んだ。
でも、もし、生まれが違ったら。僕はここにいない。先生にも会えていない。それはそれで、どういう暮らしを送っていたのか、想像できないよ」
そこまで喋ったら、ようやく。
「そういうものでしょうね」
と、小さい声で返ってきた。
「俺だって、何か一つ違っていたら、柳津と名乗ることはなかったでしょうから」
だから、顔を上げる。じっと見つめると、彼は珍しい笑みを浮かべた。
「願って手に入れたものなんて少ない。あとは偶然です、理由なんてない。
それでも、思いのままになることが一つでも増えればいいと願いますが」
ますます、目が丸くなる。
「思いのままになることって……」
「なんでもいいんですよ。今夜の飯が肉じゃがだったらいいとか、その程度で」
「安いなぁ……」
吹き出した。
「そんな程度で、嬉しい?」
「ついでに旨い酒も欲しいところですけどね」
言って、彼は眼鏡の縁を指先で押し上げた。
「戯れ言を失礼しました」
「いや、いいよ……」
笑う。
じっと眼鏡の奥の瞳を見上げる。
机を挟んだ反対に立つ彼は、一度瞬いて、薄い唇を開いた。
「それで、本題ですが」
「ああ…… 今度の報告は何?」
「先日の市街地での作戦で被害のあった建物が複数ございます。そちらへの、軍からの補償とその手続きについてです」
今までなら伝えられなかったようなことだ。それを何故と思うけれど、黙って聞く。
「細かい手続きは、引き続きお願いしていい?」
「承知いたしました」
右手で礼を取ってから、彼は静かに出て行った。
取り残されて。
「聞きそびれちゃったじゃないか」
椅子の背もたれに、体を預ける。
――思いのままになることが一つでも増えればいい。
「そのために何をしてるのって」
そもそも、『思いのまま』が何なのか、と。一人で苦笑いを浮かべる。
ぐるりと部屋を見回せば。
此処は、皇都鎮台の司令官室だ。白い壁紙に、焦げ茶色の什器。そして分厚い書類が置かれた部屋。
その血筋に生まれて、どうしても軍に入ることしか想像できなかった。自分にその才があるかどうかは関係なく。
ただ、働くなら、少しでも気楽に、と。兄から離れた場所を望んだ。周りが最適と判断した場所は天音に押しつけて。
そう。ほんのすこしは、自分が望んで来た場所のはずだ。此処は。
――ならば、一つでも。僕がいて良かったと思えることが出来ればいい。
同時に、耳の奥で響いた言葉を、頭を振って追い出す。
「僕は悪くない、僕が可哀想ってのは、違うんだよ。美波」
椅子を軋ませて、立ち上がる。
扉の向こうに、気配はない。さすがの隊長たちもネタ切れだろうか。
そう考えて、外で控えていた筒井少尉を呼んだ。
「美波を呼んできてくれる?」
彼はわずかに唇を曲げた。
「もう、お帰りになりますか?」
「今日はね、ごめんよ。明日もちゃんと来るから」
両手を合わせて、頭を下げて。
「美波に話して、ちゃんと終わらせてくるから」
言えば、彼は、困りましたね、と言って応接間の方へと小走りで向かっていった。
秋の宮はその場で、両手で自分の頬を叩く。
「ちゃんと言わなきゃ」
――きっと、僕はこのままじゃ駄目なんだ。
パンパン、ともう一度、己の頬をはたく。
「一応、訊きたいんだけどさ。なんで叩かれたか、理由はないの?」
じっと見ると、頬が膨らんでいく。くすり、吹き出す。
「君に非はないと信じるよ。でも、その前に、二人で話していたりしたんじゃないの?」
「……それは。喋ってましたけど」
と、美波は視線を泳がせた。
「何を」
「ええっと……」
実は、と彼女はすこしだけ視線を横にずらした。
「そのまえに、万桜様に、ちょっと――お小言を云われたんです」
「お小言?」
頬が引きつる。どんな、と訊いても、彼女はそのまま横を向いてしまった。
だけど、と秋の宮はまた頭を抱えた。
「おばさまが君に怒ったっていうのは、結局は僕が情けないってことなんだろうな」
向かいに座った美波が揺れる気配がした。でも、顔は上げられない。
「一人で出かけなければいけないところにも君を連れて行って。結局何もできなくて、君と一緒に閉じこもって。
でも、そうやって、甘えていちゃいけないんだよ」
うう、と呻いてから、深呼吸を繰り返した。
それでようやく正面を向けた。
赤い着物の彼女は、今日も艶やかだ。その姿をしっかり見つめる。
「美波。君が僕に向けてくれたのは優しさだと思ってる。だから」
――このままでは、僕は自分を嫌いになるばかりだ。
「僕が一人でやっていくためには、君がいたら駄目なんだ」
まっすぐに、まっすぐに。黒い、潤んだ瞳を見る。
「出て行ってくれ」
彼女は何か言おうとしたのだろう。二度、三度と、膝の上で拳を揺らした。
でも、それだけ。
するりと立ち上がる。カツ、カツ、と草履が床を叩く音を響かせる。
そのまま、赤い振袖も緑の黒髪も、樫の扉の外に出て行った。
両手で顔を覆い、秋の宮は床に倒れ込んだ。
控えめなノックの音が響くまで、そのまま。
のろのろと起き上がり、誰何した。
顔を出した家令に、苦笑いを見せる。
「何? 急ぐこと……?」
「取り次ごうか悩んだのですが」
美波の友人が来ているのだという。この三ヶ月で初めてだ。
――よりによって、今。
「美波は?」
「……荷物をまとめて、出て行かれましたが」
「引き留めなかったの?」
家令は黙って頷く。それに首を振ってみせる。
くしゃくしゃになりかけていた肋骨服を伸ばして、大股で玄関まで行く。
立っていた少女を認めて、唸った。
「倖奈」
よりによって、が多すぎる。
二尺袖に袴を合わせ、手首に赤い巾着を下げた彼女は、秋の宮と目が合うと、両手をそろえて腰を折った。
「突然押しかけて、申し訳ございません。
美波に会えれば良かったんです。まさか、宮様においでいただくなんて思わなくて」
真っ赤な顔で話す彼女に、秋の宮は、大丈夫、と苦笑する。
「僕はいいんだけどさ。肝心の美波は」
と、言うと、今度は顔を真っ青に変える。
「出てきてくれないんですか? わたしだから……」
「違う、そうじゃないよ」
苦笑いを深くして。秋の宮は努めてひらたい声を出した。
「美波は出て行った。今、この屋敷にいない」
倖奈の顔が、もっと蒼くなる。
「いない……」
「ああ。どこに行ったのかは僕も知らない」
「そう、ですか」
肩を落として、でもすぐに、彼女は指先を顎に当てた。
「美波が行きそうなところ。何処だろう」
呟いて、顔をしかめる。
それを見下ろして、息を呑む。
――こんな子だったっけ?
小さくて、引っ込み思案な、子だと思っていた。嫌いではないが、特別気になることもなかった。
それが、どうだ。
顔色をすっかり元に戻して。彼女は顔を上げた。
「捜しに行ってきます」
言うなり、すこし赤みを帯びてきた空気の中へ、飛び出していった。
袖と手に提げた巾着を揺らす、その背中に問いかける。
――どうすれば、変われる?
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