59. 恋することで救われた(2)
叫び声と一緒に涙まで湧いてきたらしい。視界が湿って、歪む。
それでも顔は伏せないで。
「勝手を言うのね」
美波の震える声を聞く。
「あんたこそ黙りなさいよ。そして、その手をひっこめなさいよ、乱暴者!」
「厭よ」
押し殺した声を返す。
「言われるばかりは、厭」
「なんで」
「悔しいから」
まっすぐ、まっすぐ、声の聞こえる方に顔を向ける。
「あなたがどう思っていようと、わたしはみんなが好きなの。それを悪く云われるのなんて聞きたくない」
それに、と唸る。
「美波が好きなように過ごすなら、わたしも好きなことを、自分で納得できることをするわ。魔物に向かうのも、お洒落も、史琉を好きでいるのも、絶対に止めない。
それも、史琉に嫌われたら、できなくなるかもしれないけど」
すると美波は、クスリと笑んだ。
「嫌われたら嫌いになるなんて、かるい恋なのね」
「勘違いしないで、他のことよ」
むっと唇を尖らせる。
「嫌いになんかならないわ」
――想うことだけは許して。
ごしごしと顔を擦って、涙を振り払ってから。
もう一度向き直る。
「美波こそ。宮様を捨てないでね」
はあ、と美波は素っ頓狂な声をあげた。
「なんてこというのよ」
「お互い様!」
「宮様のことを嫌うなんてとんでもない。宮様にはわたししかいないし、わたしにも宮様しかいないんだから」
「あっそう!」
ふん、と横を向く。
その先は部屋の入口。
ふいに扉が開いて、濃紺の軍服を着た人が入ってくる。
「落ち着いたのか」
冷え切った表情の天音だ。
「怒鳴る声が聞こえたから、見ていたんだが」
彼女は長椅子の傍に立つと。
「叩いたほうが悪い」
と倖奈を見下ろしてきた。
ぎゅっと、心臓が縮み上がる。
天音の表情は揺らがない。
息を漏らして、俯く。首を振る。
美波は、かろやかに笑った。
「ほーら言われちゃった。やっぱり子供ね、倖奈ったら」
「そっちもそっちだ」
天音の声が被さって、美波の笑い声が止まる。
続けて溜め息が、高い場所から降ってきた。
「なかなかの
それで隣の赤い袖が全く動かなくなったから、倖奈はそろりと顔をあげた。
蒼褪めて、唇を噛みしめて。瞬きさえ忘れた美波がいる。
一瞬、倖奈も動きを止めた。
だから、喋るのは天音のほうが先だった。
「これは叔母様も手を焼くわけだ」
もう一度溜め息を吐いて。彼女は扉の外に顔を出した。
誰かと話をしている。それから、気配がひとつ遠ざかっていく。
振り向いた天音は。
「迎えに来てもらうからな」
そう言って、笑った。
「隊長たちに足止めを終えるよう指示を出した」
「足止めって……」
美波が呆然と呟く。
肩の上の髪をいじりながら、天音は笑った。
「万桜叔母様が、あんたに説教してくれるっていうから機会を窺ってたんだよ。それがたまたま今日だっただけ」
「何よそれ!?」
がばっと椅子から立ち上がり、美波は天音に詰め寄った。
「いつも、わたしと宮様を引き剥がすくせに! それだけじゃ足りないの?」
「足りないよ我儘娘。だから今日は、部隊長方にはいつもより大袈裟に宮に話しかけるようお願いした」
ふん、と天音は笑う。
「これに懲りて、軍に顔を出すのを止めていただけるなら私も助かる」
ぎゅうっと両手を握りしめて、深く息を吸って。
美波は部屋を飛び出した。倖奈が呼ぶ間もない。
草履の音は絨毯に吸い込まれたのか、すぐに聞こえなくなった。
長椅子にへたり込んだまま、茫然となった。
「美波……」
――万桜様とも話をしないの?
ぐすっと鼻を鳴らし、目元を袖で拭く。
その間に、天音は万桜が座っていた向かいの椅子に、とすっと腰を下ろした。
「酷い顔だ」
くすくす、天音は肩を震わせる。
「目も鼻も真っ赤だ。可愛い顔が台無しだぞ」
ええっと叫んで、巾着から
それから。
「ごめんなさい」
と項垂れた。天音は笑いだす。
「驚かされた分の謝罪と受け取ろう。だが、一番に謝るべき相手は違うだろう?」
「はい」
ぎゅっと手巾を握りつぶす。唇も噛みしめる。
ほら、とお茶の入れ直した湯呑みを差し出しながら、天音は笑みを深くした。
「落ち着いてから、逢いに行けばいいんじゃないか? どうも、秋の宮もあの子と話がしたいらしい」
「ずっと一緒にいらしたのに?」
「だからこそ出来ていなかった話があるんだろう――結婚とかな」
結婚、と繰り返して瞬く。
「誰の?」
「あの子と秋の宮だ。できなくもないが、周囲は頭を抱えるだろうな」
まだ瞬く。
「もっとも。あれじゃあ、お互い我儘ばかり言って長続きしない気がするけどな、私は」
そして、実は、と天音は笑みを苦々しいものを混ぜた。
「叔母様に、おまえとあの子に縁談を紹介するように言われていたんだ」
「そう……なんですか!?」
声が裏返る。天音は眉を下げる。
「本当に言い方は悪いが――先は長くないからな。さっさと安心したいんだろう。
だから、私の伝手で、軍の中から適当に見繕えればと思ったらしい。特に陸軍関係なら、『かんなぎ』に理解もあるだろうから。良いと思われたんだろう」
まっすぐにその顔を見ていると、その顔に浮いていた苦みが消えていく。
「だが、私が仲立ちをするまでもないんだろう? 倖奈は好きな人が居る」
思わず咽た。また差し出された湯呑みの中身を一気に飲み干して、さらに咽る。
「だって、だって。あの、その、それは」
「柳津大尉か」
ヒヒッと、おおよそ堅苦しい肋骨服に似合わない表情で、彼女は肩を震わせた。
「言えばいいじゃないか」
「誰に、何をでしょうか……」
「叔母様に、好きな人がいます、とね」
また表情を変えて。真剣なものに変えて、天音は淡々と話す。
「柳津大尉なら、叔母様も怒るまいよ。鎮台で何度も顔を合わせているのは知っているだろうし。
柳津ってのは陸軍内では有名な苗字だからな、叔母様の見栄も充たされるし。ついでに士官職で収入はしっかりしてる、将来に憂いはない」
「はあ」
「くいっぱぐれないって意味さ。万が一があっても年金は出るしな」
「あの……」
「ああ、不吉だったな。すまない」
ふう、と息をついてから。
「いいな」
天音は口の端をあげた。目尻は下がって、緩やかに寂しげだ。
「私は女らしいことを一つもしてこなかったから。喧嘩できるような女友達ってのもいないし、心底惚れられる男に巡り合えてもいない」
「お着物が好きだっておっしゃってたじゃないですか」
「お洒落な奴なんて、男にもいっぱいいるじゃないか」
はははっと笑う彼女に、倖奈はすこし笑って。首を振った。
「天音様は、天音様として凛としていらっしゃるから。素敵なんです」
まっすぐ見つめる。彼女は目を丸くして、それから頬を染めた。
「ありがとうな」
部屋を出る。
聞けば、万桜はまた馬車で屋敷へ送って行ってもらったらしい。
美波も秋の宮と共に去ったという。
それは、謝ることが今はできないということ。このままズキズキ痛むまま、過ごすしかないのだ。
――次はいつ会えるだろう。
無性に一人になりたくて、図書室に逃げ込んだ。
ここなら、軍人も、【かんなぎ】の仲間も、誰もいない。
背の高い棚と広い窓に囲まれたの一角。机の上、花瓶には桃の花が挿してある。遅咲きの一本だ。
こてんと上体を倒して、指を伸ばす。触れれば、まるい花が開く。
息を吐くと、それに乗った花びらが、増えていく。
一面、紅色で埋め尽くせそうだ。
「やっても何の意味もないのに」
心は晴れない。そう思っていたのに。
「魔物は花を嫌うんだろう?」
不意に降ってきた声に、飛び起きた。
「史琉」
「お疲れ様」
机を挟んだ反対側に史琉がいた。
「お仕事中でないの?」
「そうだよ。おまえと話したら、すぐに戻る」
言って、斜め向かいの椅子に腰かけて、彼は長い脚を組んだ。
濃紺の肋骨服の上で、軍刀の鞘が照る。制帽はかぶりっぱなしで、白い手袋もつけている。その指先で、制帽のひさしを持ち上げて、彼は机に肘をついた。
「何があったか聞いた」
う、っと唸る。身を引く。史琉は片目を細めた。
「一条少将からだ」
「……天音様から?」
「呼び出されて、おまえの行き先まで告げられた。何を狙っているんだか」
乗ってやるけどな、とぼやく史琉を見ているうちに、すうっと背筋が冷たくなる。
「わたしが何をしたか、聞いた?」
首を縦に振られる。
「呆れないの?」
小さく問う。今度は横に振られた。
「そりゃあ、ね。呆れもするし怒りもするさ。だが、その先だろう?」
彼は笑って、足を組み替えた。
「そこでいじけて何もしなくなる子じゃないと、さすがにもう分かってるよ」
それは期待なのだろうか、と。
背筋を伸ばす。そろりと、袴の襞をそろえる。
「怒ったのは――どうしても譲れなかったの。でも、叩くのは、駄目だったの」
言うと頷かれる。ほっと息を吐いて、笑んで。頭を強く振った。
「駄目だったことは駄目だったのだから。それを美波に謝りたいの」
それはいつ、と考えて。はっと目を開ける。
「秋の宮様の御屋敷に行けば、逢えるよね」
「そうだろうな。閣下が御邸に戻るのに一緒だったという話だから」
「行ってくる」
「今から?」
目を丸くした史琉に、笑って見せた。
「悪いと思ってるんだもん。だから、すぐに言わなきゃ」
すると、それでいい、と唇の動きだけで彼は伝えてきた。
「倖奈らしいよ」
ぎゅっと胸が縮み上がる。頬が熱くなる。
一度視線を伏せてから、彼は立ち上がった。
「今日こそ一緒に行ってやりたいんだがな――巡回だ」
「行ってらっしゃい」
倖奈は座ったまま。見上げる。
じっと見つめられたから、笑みが浮き上がってきた。
「行かなきゃ、史琉じゃない」
言葉もするりと飛び出す。
成程、と彼は笑った。
それはなぜか、とても嬉しそうで、寂しそうで。倖奈がきょとんとすると、もっともっと笑った。
「俺もおまえに嫌われぬよう、努めるよ」
彼は、床を革靴で鳴らして、回り込んできた。
すぐ横に立って、手袋を外して。
その、何も覆うものの無い両手で頬を包まれて、上向かされた。
腰を屈めた彼の顔が近づいてきて、慌てて目を閉じる。
またこの感触だ。
唇に、なにか、温かくて湿ったものが落ちてきて。離れていく。
目を開けて、まっすぐに見つめ合ってから。
「史琉」
知るなら今しかない、と声を絞り出す。
「何をしたの?」
「……わざわざ言わないとダメなのかよ」
耳元で、答えをささやいて。彼は部屋を出て行った。
扉の向こう、足音が小さくなっていくのに耳を澄ます。
それが聞こえなくなってあとに耳の奥で蘇ったのは、前になされた問いかけだった。
――
問いかけたのは真希だった。あの時は答えられなかったけれど。
「したわ」
呟く。体が、芯から熱くなった。
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