58. 恋することで救われた(1)

 棚の引出を開けて、しわくちゃになった紙を取り出した。

 それにはただ、名前が書いてあるだけ。夏の終わりに手に入れたその紙は、まだ倖奈の手元に在る。

 書かれた文字は、目をつむっていても思い出せるくらいに眺めていたのだが。もう一度。もう一度、見つめる。


 大好きな人の字というだけで、こんなに愛おしくて、元気になれる。


 跳ね払いの強い字を、目が痛くなるほど見つめてから、立ちあがった。

 支度を終わらせねば、と頬を叩きながら。



 菫色の二尺袖を着て、朱色の帯を締め、深緑の袴を穿いた。髪はしっかり梳いて、首の後ろでひとつにまとめて、最後にぎゅっと藍色のリボンを飾る。手首に練香水も擦りつける。控えめな、桜の香りだ。最後、ひとつだけ軽やかな色――梔子くちなし色の巾着を手に提げて、早足で進んだ。



 今日は万桜が一緒だ。彼女も既に用意を終えて待っていた。

 着ているのは、青灰色の小紋。帯は桜並木の刺繍が施されたもので、帯留めの丸い鼈甲は、滑らかな飴色を放っていた。

 袖の先では、細い乾いた指先が、忙しなく動いている。


「行きましょう」

 促されて、屋敷の前に横付けされていた馬車に乗り込む。

 その段を上る時に、六十を超した彼女が足をもつれさせるので、慌てて手を出した。


「無理して出かけなくても」

 と、掠れた声で訴えても。

「いいえ。呼び出しても来ないでしょうから、こちらから行きませんとね」

 師匠であり養母である女性は頑として首を振った。

「間違いを伝え、悟らせるのは私の役目です。そのためには会わなければ、顔を合わせなければなりませんから」

 声もはっきりと響く。


美波みなみには困ったこと」




 皇都の鎮台は、万桜の邸から見て西。

 一目散にかけた馬車は、その煉瓦と格子でできた門の前でピタリと止まる。


 その前では、軍服姿の女性が待っていた。

「天音様」

 倖奈が呼ぶと、彼女は片目をつむり、挙手の礼をとった。

 金糸の縫取りがなされた濃紺の肋骨服、膝丈の脚衣に長い編上靴。長い髪は一つに束ねられて、肩の上で揺れる。その下で徽章が太陽の光をはじく。


「倖奈、怪我は?」

 まず問われて、瞬いた。

「この間の捕獲作戦で、顔を怪我したと聞いてな」

 ああ、と瞬いて、頬を指さす。

「もう大丈夫です。跡もないでしょう?」

 ならば良かった、と天音は破顔した。


「それで第五部隊が大騒ぎだったと聞いた。柳津隊長も、作戦の後は気もそぞろになっていたしな」

「そ、そうなんですか?」


 違う形の瞬きを見せると、天音は大きな笑い声を立てて。

「まあ、そんなわけでお疲れ様だったな。ご協力に感謝するよ、倖奈」

 馬車を降りてくる万桜に手を差し伸べた。


「御足労頂いて申し訳ございません」

 二人の先に立って歩きながら。

「のこのこと二人連れだってとやってきたところを、筒井秘書官が巧く引き剥がしてくれたんですよ。それで、一人で別室で待たせています。

 これは、莫迦将軍との馬鹿げだ関係についてガツンと叱っていただくいい機会だと思いまして。お呼びしてしまった次第です」

 イヒヒヒ、と彼女は笑った。

「秋の宮は、筒井秘書官と部隊長たちが、報告と相談という名の足止めをしていますから」


 そうして進んだ先には、手の込んだ彫細工の樫の扉。この奥に入るのは初めてだ。訊けば、鎮台に見える来客をもてなすための部屋だという。


「この問題を自力で解決できない軍の非力はご寛恕いただきまして。よろしくお願いします、叔母様」


 扉が開く。

 部屋の中、長椅子に深く腰を下ろしていた少女はぎょっとして、立ち上がる。


「万桜様。倖奈」

「久しぶりですね」

 その声を聞いた瞬間。胃がぎゅうっと縮み上がった。


 今日も赤い着物だ。

 赤と白の格子柄の上に、春の花。襟元や帯揚げには青緑。冬の雲が払われていくような明るさを放つ着物。


 小さな卓子テーブル、大福と煎茶が乗っただけのそこを挟んで、万桜と、美波と倖奈が座る。


「倖奈も何しに来たの」

 美波が睨んでくるのを。

「万桜様のお供よ」

 そっぽを向いてそらす。


 咳払いのあと、万桜はゆっくりと皺の多い口許を震わせた。


「かんなぎとして働くのだと言ってから、すっかり顔を出さなくなって。風邪などひいていませんでしたか? 魔物の討伐に同行したりはしたのですか?」

「それは…… ええ、ちゃんと、してましたよ」

「そうですか。ですが、あなたも倖奈も元々、実戦の場にはさほど顔を出していなかったでしょう――常盤が行ってばかりで。行くことが増えたのですか」

「ええっと。それは、その」


 問いかけに合わせて。美波ももごもごと口を動かした。


 ふう、と養母はまた息を吐いた。


「諸々、おまえ自身の口からもう一度聞いても良いのですが…… 何が起こっていたのか、天音から聴きました。倖奈からも」


 その言葉を受けて。キッと厳しい視線を美波は向けてきた。

 何を喋ったのだ、という無言の問いかけから逃げようと、またよそ見をして。両手で袴を掴む、皺を寄せる。

 浮かれていない、と示すための濃い色の着物。美波はどう見ているのだろう。


 倖奈が息を詰めている間にも。

「秋の宮様とねんごろになったそうですね」

 万桜は淡々と続けた。

「ご一緒に過ごす時間を増やしている、と。同行して、軍の視察や会議にお邪魔しているのだと聞きました。

 おまけに、今年に入ってからは、こちらの寮にいるよりも、御屋敷にお世話になることが多くなったのだと」


 また、溜め息が響く。


「嫁入り前の娘が、はしたないと思いませんか。

 自由恋愛だのどうだの、若い娘たちの奔放な振舞を私は大変苦々しく思っています。しかも、これまでの常識をないがしろにして、周りに迷惑をかけるなどとは、言語道断」


 万桜が息を継いだ時に、美波はするりと顔をあげた。


「何が迷惑なんでしょうか」


 ぐっと、万桜の皺だらけの貌が歪む。


「軍の仕事を邪魔しているでしょう。視察だの会議だのは、若い娘が顔を出すようなところではないでしょう」

「倖奈だって首突っ込んでるじゃないですか。この間、怪我をしたのは万桜様もご存じでしょう。あれだって、前線にのこのこ出て行ったからなんですよ」


 ねえ、と視線が向けられて。肩を竦めた。

 そろりと、顔を万桜に、そして美波へ向けてから。膝の上に置いた指を組み替えた。


「そのことは、わたしも…… 悪かったと思ってるわ。衛生班の皆様にもご心配をかけてしまったし」


 それ見ろ、と美波が笑みを浮かべる。万桜は首を振った。


「結果として役に立ったので、それはまだよいのです。

 それに今は、おまえの話をしているのですよ、美波。おまえはすこし己の身を顧みなさい。人と歩くことで、周囲がどう動くのか、思うのか。おまえ自身が清くあるために、何をすべきか。

 控えるべきところは控えなさい」


 ひときわ大きな溜め息が響く。


「一度、外します。その間にゆっくり考えること。答えを聞きに戻ってきますからね」


 しゃん、と袖を鳴らして。万桜は背筋を伸ばして部屋を出ていった。

 わずかに残された扉の隙間から、声が聞こえる。天音と喋っているのだろう。それも、少しずつ遠くなって、聞こえなくなった。


 だから、頷いて。倖奈は隣に座ったままの少女を見遣った。

「美波?」

 呼ぶ。

 顔を伏せて、肩を震わせる彼女に触れようとした時に。


「やあね、落ち込んでなんかいないわよ」


 長い、黒い髪を掻き上げて。美波は微笑んだ。


「言われたい放題だったけど、別にわたし、おかしなことをしてると思ってないから、聞き流せるわ」

「……そうなの?」


 首を傾げる。美波の、紅を塗った唇が弧のかたちに緩む。


「わたしと宮様は思い合っているから、離れられないの。苦しいことも楽しいこともご一緒しているだけなのよ? それをはしたないとか、迷惑だとか。

 ああ言ったのはきっとね、万桜様がおばあちゃんだからなのよ。嫉妬してるの」

「やめなさいよ」


 思わず、言った。体の向きを変えて、睨む。

 美波は、紅玉の指輪が光る左手で、また髪を掻き上げた。


「じゃあ何? 自分の結婚生活が巧くいかなかったから、わたしの邪魔をしてるの?」

「言っていること変わらないわよ、それじゃ」


 倖奈も溜め息をついた。そして。

「美波」

 名前を呼ぶ。

「みっともないよ」

 眉尻を下げて見つめる。

「周りの人を悪くいうのは止めて」


 すると、美波は目を細めた。

「好い子ぶって」

 最初はぼそりと。

「小さくって何もできなかったくせに、ちょっとできるようになったからって、調子に乗ってるんでしょ」

 だんだん大きな声で。


「それでみんなが良くしてくれたからって、余計に、いろいろ、やって。ちやほやされて。楽しくなっちゃてるだけじゃん、一人で! わたしを置いてきぼりにして!」


 美波は叫んだ。



「良かったわね、可愛い着物を見立ててくれる人がいて。子供な見た目のくせに、それを褒めてくれたりよく見せようとしてくれちゃってさ、本当優しいわよね!」


 服屋の店員は、オネエサマ方はいつも素敵な服を試してくれる。

 真希も笑って、蒲公英色を出してきた。好きでしょ、と言いながら。

 髪を梳いてくれるのも、笑って、お喋りしながらだった。


「良かったわね、魔物退治できて。それだけじゃなくて心配までしてもらっちゃって、怪我した甲斐があったでしょう? 皆様、うっとうしいのを我慢してお相手してくれてるのかもね!」


 手当をしてくれた衛生兵は、跡が残らぬようにと、細心の注意を払ってくれた。

 先ほど天音も、跡を心配しながらも、感謝すると告げてくれた。


「浮かれてるんでしょ、恋しちゃってるからって。おっかない顔してるくせに、魔物を取り逃がしちゃうような奴なのに」


 よくやった、と褒めてくれた声。夜の道で腕を引いてくれた手。まっすぐ見つめてくる視線を、思い出す。

 唇に触れてきた指先も。

 硬い線の文字も。

 まっすぐに立つ背中も。


 だから、だから。

「黙ってよ!」

 バシン、と大きな音が響かせた。

 掌が痺れる。じくじくと胸の奥が膿んでいく。


 美波は自身の両手を、左の頬に当てた。

「……叩いたの?」

「だから何?」

 眼の端に涙を浮かべた彼女を。

「黙ってなんかいられないわ」

 ぎゅっと睨む。


「真希を、天音様を、史琉を――わたしが大好きな人たちを悪く云うのは、わたしが赦せない!」

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