57. 消せないもの
北向きの窓の部屋からも梅の花が見える。
「いい匂いだね」
すん、と鼻を鳴らすと、バシッと背中を叩かれた。
颯太が、いてて、と呻きながら横を向くと。櫂と目が合った。
濃紺の肋骨服に制帽。腰には軍刀。その彼と同じ部署に配属されてそろそろ十ヶ月になるはずだが、ここのところまた、ぐんと胸が厚くなって、腕が太くなった気がする。
「そんな目一杯叩かなくていいじゃん」
「しっ。静かに」
視線だけで、櫂は部屋の奥を示した。
大きな樫の木の机の上では、綴じられた紙の束が集まって山となっている。
その傍には、部隊長と副官。
ゆっくりと息を吐いた部隊長が顔をあげると、部屋にいた全員が一斉に挙手の礼を取る。
「おはよう」
高い声が響く。
「今日も頼むぞ――始める前に、それぞれ伝えるべきことはないか?」
得られた情報やら、それなりの立場の軍曹たちが順に報告を述べている。最後。衛生班の長である吉田曹長が、部隊員の健康状態について喋りだした。
「この十日は激務もなく、しっかり休養がとれましたからね。
「なんだそれは」
隊長が首をひねる。
「だって、ねえ」
吉田曹長はにやにやと、自分の眉間を指先で示した。
「ここの皺がなくなりましたよ」
柳津大尉は思いっきり顔をしかめた。
それでもやっぱり皺は刻まれない。高辻少尉は宙を仰ぎ、多数の隊員が下を向く。笑いを必死にかみ殺す。
颯太もまた、腹筋が痙攣するのを服の上から押さえながら見れば、櫂はブスッと頬を膨らませている。
「何か不満なの」
思わず問う。
「締まりがない。なんなんですか、この部隊は」
櫂の眉間がギリギリと狭くなっていく。
「こんなおちゃらけた話をして。威厳も何もあったもんじゃない!」
「いいじゃん別に。楽しくやろうよ。柳津隊長が機嫌良い方が訓練も楽だし、いいじゃん?」
へらっと笑ったが、櫂は見向いてもくれなかった。
周囲の姿勢も、ぴりりと戻っていく。
だが。
ここ数ヶ月の中で一番今の部屋が和やかだな、と。隊長殿はご機嫌だなと思う。
やっぱり、魔物を捕まえられたのが大きいんだろうな、と颯太はうんうんと首を振った。
今日は巡回に行く部隊と、鎮台で書類仕事を行う班に分かれてしまった。
「俺もこっちですか……」
「この辺の資料まとめたの君でしょ。ブツブツ言わないでやる!」
巡回の部隊に分かれた櫂に代わって、今度は吉田曹長に背中を叩かれた。
うう、と呻いて。卓子の上の山を崩す。冊子に綴じられた書類たちを棚に押し込んでいく。
残されたのが、本の体裁を持ったものばかりになった時に。
「いらっしゃいましたよ」
入り口近くにいた隊員が声をあげる。
ぞろぞろと入ってきたのは【かんなぎ】たちだ。
颯太の知っている顔も多い。
夏の夜に一緒に魔物を追い回した泰誠もいるし、倖奈もいる。今日も女袴姿の彼女は、キョロキョロと中を見回して。ある一点を見つめてから、すいっと目を伏せて、顔を帳面で隠してしまった。
そして、ひょっこりと細身の少年がその列から出てきた。
着流しの上に羽織、くるくると掌の上で白い狐面を回しながら、彼は隊長殿の前に立った。
「のうのう。わしはいつおうちに帰れるのかのう?」
「おうちかよ」
「厳密に言えば、違うとも言うし正しいとも言えるがな」
「どちらにしても却下だ。
シロ、と呼ばれている彼と。柳津大尉は色合いの違う視線を交わした。
「俺の判断だ。俺に文句を言って構わないが、覆さないぞ」
何の為に、と誰も問えないうちに。
「話を進めましょう」
と、かんなぎの一人が口を開く。
彼らと、隊長殿、吉田曹長、他の面々が机を囲んで座る。
「先日捕まえた魔物の様子は?」
「このとおり、変化ナシです」
コトン、と音を立てて、勾玉が机に置かれた。
それを見て、唾を飲み込む。
――この間の、魔物が吸い込まれたってやつだ!
ひえええ、と爪を噛む。
「何処で保管しているのですか」
「我々の寮の奥ですよ。清めた武器を収めている一室に神棚を作りました」
「その状態でずっとおとなしくしている。祀られているから気分を良くしているのだとしたら、随分尊大な魔物だね」
機嫌悪そうに、赤い着物のかんなぎが言う。
「だが、いつまでもここで祀っている訳にもいかない。最初にいた社が再建されるならそこに戻せばいい」
「再建の見込みの情報は?」
「無いですねえ。元々ほったらかしにされてた処ですから、これ幸いと考えたのかもしれない」
「社より、家の建て直しのほうが先だろうしな……」
ふう、と隊長殿はこめかみに指先を当てた。首を縦に振る人が他にもいる。
「それでは、この勾玉はどうするのですか」
「しばらく鎮台に置いておく他なかろう」
「いっそ、もう一度呼び出して、それで退治してしまいませんか?」
そう言ったのは泰誠だった。一斉に皆が向くと、にこりと笑う。
「勾玉に封じた時は、倖奈が入れと命じたことで魔物は中に入っていったと聞いてます」
違いないね、と話を振られた倖奈が真っ青な顔で頷く。
ならば、と泰誠は続ける。
「命じて入っていったならば、命じて出てこさせることもできるでしょう」
だが、周りはそろって渋い顔だ。
「呼び出してぶった斬ってしまえという話か……」
「だが、そもそもが一体でも苦戦した魔物だ。もう一度呼び出して正面から戦うのが得策かどうか」
「そのまま壊しちゃえばいいじゃん」
つい、ぼそりと呟く。今度は颯太に視線が集まる。
「すみませんすみませんすみません!」
一歩下がって壁に背をぶつけて、叫ぶ。
吉田曹長は天井を見上げ、他の先輩たちもこめかみを押さえる。一人、隊長殿だけが。
「私もそれを考えなくもなかったのですが」
平坦な声で話を続けた。
「検討の結果で。どっちがいいと思いますか、柳津大尉は」
泰誠が微笑む。大尉は首を横に振った。
「判断が付かない。
以前、魔物に乗っ取られた人と組み合ったときに、その人ごとに斬ったら人が死ぬと警告されましたが」
と、一度、シロを見てから。大尉は前を向く。
「魔物が中にいる間、その人は尋常でない筋力を発揮していました。
そこから推察するに、中に魔物がいるというだけで、かなり危険なんだと思いますよ。今のそれもただの勾玉の状態とはいえ、危険を感じたら暴れだすんじゃないかと想像します」
ではどうするか、と堂々巡り。ただ、街には持ち出せない、とだけは意見が一致した。勾玉はまた神棚に戻されるらしい。
それで散会と【かんなぎ】たちが部屋を出て行く。
シロと呼ばれた少年も、散歩じゃ、と立ち上がる。
「誰か一緒に行け」
との隊長殿の声に、吉田曹長が手を挙げた。
「万が一ぶっ倒れたらコトですし」
「逃げ出した時に追いかけられる奴も付けろ」
隊長殿が呼び、別の大柄な男が動く。シロはケタケタと笑った。
「そんな心配せんでもいなくなりはせん、ちゃんと戻ってくるわ。飯は旨いからな」
彼は弾んだ足取りで部屋を出て行った。その後ろを、厳しい表情の吉田曹長と隊員が続く。
彼らが扉を潜ったのを確認してから、見回す。
部屋に残っているのは、颯太と部隊長殿に年上の部隊員が三人。そして、倖奈だ。
「……帰んないの?」
颯太が瞬くと。倖奈は小さく笑んだのだが、その顔は、持っていた帳面ですぐに覆われてしまって。
「俺は司令官室に行ってくる」
隊長殿の呟きもあって、颯太は奥へと振り向いた。
「その間に本は片付けておいてくれ」
「片付ける?」
首を傾げる。
「この辺は、元々この部屋にあった本じゃないだろう……」
「図書室から借りてきているものが多いですね」
ほかの皆は、うんうんと頷いている。
「じゃあ、若人。張り切っていこうか」
「ええええええ!?」
今日何度目かの叫びをあげる。
「運ぶだけでも大変じゃないですか!」
「もちろん、元の棚に戻すところまでだよ」
「俺だけじゃわかんないですってば!」
げえと呻いて、一歩下がると。
「わたしも行きます」
小さな声。見れば、帳面をそろりと下げた倖奈が、笑っていた。
「図書室の本の位置は、分かりますから」
「わーい、倖奈! 助かる! お願い!」
バンッと両手を合わせて、腰を折ると、困ったような笑い声が返ってくる。
「さっさと済ませて来い」
冷たい声も飛んでくる。
振り向けば、扉をくぐっていく隊長殿の眉間の皺が急に深くなっていた。気のせいじゃない。
運ぶのだけは、年嵩の同僚が手伝ってくれた。
静かな部屋の中では、颯太と倖奈で、本を抱えて歩き回る。
全部仕舞い終わった後。
だらん、と傍の椅子に腰を下ろした。
「そういえば」
と笑う。
「初めて魔物と戦ったの、この部屋だった」
「そうなの?」
机を挟んで向かい側に腰掛けた倖奈が首を傾げる。
「覚えてない? 倖奈もいたじゃん。あと、櫂が。急に湧いた魔物がいてさ、隊長殿にそれを斬れって命令されて……」
そこまで言うと頷かれる。
倖奈も思い出したらしい、と体を起こすと。
「颯太にとって、隊長さんは」
と、問いかけられた。
「柳津隊長は、どんな人?」
目の端が僅かに赤い。
その顔をじっと見つめてから。
「おっかない人だよ」
答えると。
「そうなんだ」
吹き出された。
「ええ? おっかなくない? いつも怒ってるような顔じゃん」
「その…… 眉が、吊り上ってる顔立ちだから」
「そうなんだけどさ。笑ってても怖い感じしない?」
それに、と頬を膨らませる。
「絶対、俺を勘違いしてる」
「そうなの?」
「そうじゃなきゃ、資料の整理係なんか、俺にさせないよ」
ああ、と呟いて、頭を抱える。
「俺、学校の勉強嫌いだったんだよ! 計算も嫌いだし! 字は間違うし! いつも菜々子に助けてもらって……」
「菜々子?」
倖奈が大きな瞳をさらに見開いていた。
げぇ、と颯太は呻いた。すうっと頰が冷たくなる。
「えっと…… 幼馴染? っていうの? あの、知ってる女の子の名前で……」
しどろもどろ。言葉を繋げる。
「今、皇都で女学校に通ってるんだ。先生の資格取るために」
「そうなんだ」
ふふふ、と倖奈は両手で口許を隠しながら。笑った。
柔らかなその表情は、幼馴染の勝気な顔と違う。だからなのか。
「逢いたい」
ポロっと、言葉は溢れた。
「顔みたいなぁ。俺だけじゃないよ、きっと菜々子もそう思ってくれてる」
いいなぁ、と倖奈が頷く。
「二人とも都にいるんだから。もしかしたらもう、道ですれ違ったりしてるかもしれないわよ?」
「そうかなぁ?」
颯太は首を傾げたのに、倖奈は。
「絶対、会ってるわ」
言い切った。
「格好悪いところ、見せないであげてね」
くすくすクスクス、彼女は笑い続ける。
それに、うん、と頷きながら。颯太は頬を掻いた。
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