『つないだ手を放せない』
56. 指先だけでなく
ふわふわと、梅の香りが漂ってくる。
空は快晴。
だから、
そのかかとが三和土の上でコロンと音を立てた時、見送ると玄関まで出てきていた
「
瞬いて、一段高い場所にいる師を見上げると、彼女はひとつ頷いた。
「今日は特に、落ち着いた、良い色合いだこと。
もっと言えば、きちんと化粧をしてもらい、袴を止めさせたいところですけれど。良しとしましょう」
それは、万桜らしい――年配の婦人らしい感想なのかもしれない。そう思って、曖昧に笑んだ。
「気を付けて行っておいでなさい」
頭を下げて、外に出る。
重苦しい雲を払った空が眩しすぎて、くらくらする。
路面電車を乗り継いで、人波を泳ぎ抜けて。駅前の服屋に顔を出す。
すると、相変わらずの店員たちの出迎えだ。
「待ってたわよー! 季節の変わり目ですものね!」
「いきなり単を作る? 襦袢も欲しいわよね?」
「その前に色を決めなくちゃ。この色はどう?」
「柄ものにも挑戦する? 最近、西洋のこの水玉が可愛くてね……」
「いい加減にしなさいよ!」
彼女たちを掻き分けて、真希が叫ぶところまで変わりない。
皆に引きずられるようにして、奥の座敷に通された。
向かいに見える庭では、桃が咲いている。他の木の枝も、よく見れば、若葉が顔をのぞかせていた。
翻って、座敷の奥を見れば、真希の
両手いっぱいに布を抱えた店員たちが戻ってきた。
ああでもないこうでもない、と着せ替えごっこが始まる。
その中には、
真っ白な、袖口と襟ぐりにふんだんに
「あの。一緒に住んでいる方のお好みもあるので」
そう言うと。三人のオネエサマがたは一様に肩を落とした。
「なによ…… あんたの男も大和撫子は振袖を着ろとか言う奴なの!?」
「ドレスの美しさを理解しないなんて、赦せない!」
「むしろ、お洒落心を理解しないのが……!」
――一緒に住んでいるのは、万桜様なのだけど。
言い出せず、首を振る。
そんな嵐が去って、真希は大きく息をついた。
「ほんと、やりたい放題よね。あたしだってこの布用意して待ってたのに」
と、
姿見に向って座ったままの倖奈の肩に、そろりと掛けられる。
「こういうのが、あんたが一番落ち着くってやつでしょ?」
「うん」
「単にする? まだ袷がいい?」
「長く着るなら単だよね……」
「そうね。今すぐは無理だけど、春の終わりから梅雨の終わりくらいまで着られるかな」
「じゃあ、それでお願い」
言うと、任せて、と真希は力こぶを作って見せてきた。
「ねえ、真希」
大きな姿見の前に座ったまま、その彼女の名を呼ぶ。
「なに? 他に気になるの、ある?」
返されて、そうじゃない、と応える。
「訊きたいことがあるんだけど」
かるく睨むような顔をした彼女に、ぎゅっと肩をすぼめる。
「あの、ね」
「なによ、さっさと言いなさいよ」
「……今日の恰好、変じゃない?」
鬱金色の二尺袖に苔色の袴。まっしろな足袋。半襟も白地。そこまではいつもと一緒だ。
ただ、巾着は藍染の、おとといに自分で縫い上げたばかりのもの。その布の余りでリボンが作れたから、それは髪に結わえてきた。
そして、化粧はしていないが、以前買った練香水をほんのすこしだけ、手首につけている。
そんな倖奈の、頭のてっぺんからつま先まで、何度も見てから。
「なんで?」
真希は瞬く。
かあっと頬が熱くなるから、下を向く。
「何を気にしてるのよ」
「実は…… この後、ね。約束があるから。その」
「それでお洒落を気にしてるの?」
「だって、変って思われたら厭だから」
「そんなの、相手次第よ。いったい、誰と会うの?」
唇を噛む。それでも指先は震えている。
昨日、鎮台での手伝いを終えて、帰ろうとしたところで呼び止められた。
――明日の予定は?
その問いに、真希との約束がある話をすると。
――じゃあ、夕方だな。
笑われた。
――駅前の広場で落ち合おう。
「
半目になった真希が言う。びくっと体を揺らす。
「ち、ちちちちち、ちが、ちがう」
「何がよ。わざわざ待ち合わせまでして、二人で逢うんでしょ? でーと以外の何なのよ」
ふっふっふっ、と真希が声を立てる。
「髪、結びなおしてあげようか?」
「いいわよ、べつに」
「遠慮しなくていいのよ。可愛くしなさいよ」
「浮かれてるって言われちゃう」
「浮かれて何が悪いのよ」
すいっとリボンを取られる。
がばっと裁縫箱を開けると、真希は猛然とリボンに針を刺し始めた。そうして生みだされたのは白い梅の花だ。
「よっし可愛い」
「……ええ!?」
にぃっと笑って。真希は倖奈の後ろに回った。
ゆっくり、ゆっくり、櫛が髪を通っていく。色が薄くてふにゃふにゃしている倖奈の髪に、見慣れない艶が生まれていく。
「お金持ちなんだから、良い櫛買いなさいよ」
「だって、この髪よ? なにしても綺麗にならないもん」
「はいはい。それでも良かったんでしょ?」
「何が?」
「今のあんたが」
また言葉に詰まる。
真希の手が髪の上を滑るのを、鏡越しに見つめる。
黙っていたら問われた。
「ずっと話してた、軍人さん?」
だから、ゆっくりと頷いた。
「そう、なの」
ちょっとだけ湿った声で、真希が続ける。
「良かったじゃないの」
良かった、なのだろうか。
頬が熱くなっていく。だけど、真希が髪を持ったままだから、俯くこともできない。
そのまま鏡越しに視線が合って、彼女はあばたの浮いた顔をくしゃっと綻ばせた。
「あんたが嬉しそうで、あたしも嬉しい」
ぼんっと顔が火を噴く。
「本当嬉しそうね」
「う、うん。ううん、そんなことは」
「はい、照れない照れない」
出来たわよ、と背中を叩かれた。
振り向いて礼を言おうとすると、顔を寄せられて、ニィっと笑われた。
「で? もう
駅前、時計台の下。
広場の隅の腰掛に座っていたら、改札口からぞろぞろと流れてくる人がよく見える。
鼠色の背広、鴬色の振袖、大きな風呂敷を抱えた姿、子どものおめかし、それらを順に見遣り。甲高い笑い声の中を探して。
顔を伏せる。
早く来過ぎたか、と唇を噛んだ。それから、巾着から手鏡を取り出して、覗きこむ。
前髪を引っ張って撫でつけて、リボンに触れて。
もう一度前髪に触れた時、正面に人が立った。
見上げて、あ、と声を零す。
「早いじゃないか」
相手の、眼鏡の奥で目が細められて、筋張った指がすこし長めの髪を掻き上げた。
着ているのは、縦縞の長着と無地の羽織。体の前では黒い飾り紐が揺れていて、足元も色足袋に木の下駄だ。
――軍服じゃない。
きょとん、としていると、彼は吹き出す。それから手招かれた。
「行くぞ」
「何処に?」
「カステラを食べるんだろう」
前に話をしたからか、と頷く。
その店は以前、真希とやってきた時よりも混雑していた。
並べられた椅子の数も増えていて、同じように男女二人で座っていた組の反対側に腰を下ろす。
――真希があんなこと言うから!
隣に座った気配が近い。落ち着かない。
巾着の紐を何重にも指に巻きつけて、爪先を組み替えて。そろりと視線を送る。眼鏡を外しながら、彼は首を傾げた。
「なにソワソワしてるんだよ」
「だって…… 落ち着かないんだもん」
そう言うと。
「俺もだよ。慣れない恰好をするもんじゃないな」
からりと笑われた。だから、素直に口にする。
「史琉の和装って、珍しいね」
「まあな。他に寄る処があったんだよ」
軍服ではいけない処とは、どんな場所だろう。首を傾げている間に、彼は溜め息を吐きだした。
「足捌きは悪いし、指先と頭はすうすうするし」
「頭?」
「普段は覆いがあるからな」
制帽のことか、と頷く。
「帽子、かぶれば良かったのに」
言うと、今度は史琉のほうが首を傾げた。
「簡単に言うな。何が良いって言うんだよ」
「だって、泰誠は普段から
ふと、指先が唇に寄ってきた。むぎゅ、と唇を潰される。
それを成した当人――史琉はにやにやと笑っている。
「言うなよ、それ以上」
――何を?
瞬く。じっと見つめていると。よし、と目の端が緩んだ。
「こっちだけ見てろ」
口の端を上げて。指を離してもまだ、彼はまだ見つめてくる。
慌てて顔を背ける。
――口紅つけてなくて良かったじゃない!
それと、顔が熱いのは、食べるのに一生懸命だからだ。そういうことにしておいてほしかった。
初めて口にしたチョコレートは、苦くて苦くて、甘い。口の中にはっきりとした感触を長く残していくのが、ずるいと思う。
駅前で別れる。彼は鎮台に戻るらしい。
一人で乗った路面電車。その揺れに合わせて、体が跳ねる。
窓の外をぼんやりと眺めながら、自分の指先を口元に当てた。
違う。史琉のそれと全然違う、と強く思う。
彼はもっと硬くて、冷たかった。
そして。
あの夜に触れたものとも違う。
――聞きそびれちゃった。
何かが唇に触れた。だから、ますます目を開けられなくなった。
感触が消えてようやく瞼を持ち上げた時には、目をつむる前と一緒。
史琉はひやりとした顔で、倖奈を見つめてきていた。
濃紺の袖を掴んでいたの指先から力が抜けて、だらりと腕が下がる。
倖奈から自由になった腕を動かして、前髪を掻き上げて。彼は制帽を深くかぶる。
そして、手首を掴んできた。
「本当に、俺にどうしろって言うんだよ」
そのまま引っ張られる。進む。
夜風の中に、靴が石畳をうつ音がひろく響く。
「帰るんだぞ」
すこし高い声は、倖奈の耳にしか届かない。
「
なにも言えず、ただ彼の背中を見つめる。
一度だけ振り返ってきて。
「参ったよ」
こう言われた、月明かりだけのその時、口許が苦笑いのかたちだったのは確かだ。
その後すぐ、万桜の屋敷に着いてしまって、有耶無耶になったのだ。
――あの時、わたしに触れていたのは、何?
腹の底に溜まっていた息を吐きだして、コトンと椅子の背に頭を預ける。
頬が熱い。窓越しの夕陽のせいだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます