55. 忘れられない人がいる

 北向きの窓の向こうには、夜の闇が忍び寄ってきている。


 部屋のこちら側では。

「いやあ、緊張する」

 衛生兵が難しい顔で唸っている。


 颯太は、首をかしげた。


「なにに緊張してるんです、吉田曹長?」

「手当に、に決まってるだろ! 勝手がいつもと違うんだから――だめだ。まずい。緊張する」


 そう呟く彼が向き合っているのは、倖奈だ。

 濃紺の肋骨服を着た颯太や吉田曹長とは違う。着物の色が違うというだけじゃない。背が低くて、肩が細くて、色が白い。そして何より、軍人ではない。


「女の子は、勝手が違う」


 大きな溜め息の後。

 意を決したのか、彼は、椅子に腰掛けてじっとする彼女の顔に向けて、白い綿をそろりそろりと近づけていく。


「……沁みるよ」


 男が言うのに、僅かに眉を寄せて。それでも、彼女はそれが触れている間、すこしも呻かない。

 後ろで見ている颯太の背にこそ、冷たい汗が浮く。


――消毒液アレ、めっちゃ沁みるんだよ。


 はらはらと指の爪を噛んでいる間に。

 右頬の切り傷と、顎の先にできた擦り傷と。衛生兵が、その両方を拭いて、別の綿を当てる。


「うーん…… 傷当ては無いほうがいいかなぁ」

「珍しく悩んでますね。俺たちの時はバシャバシャ消毒液をかけてくるのに」

「野郎どもはいいんだよ、野郎どもは。でも、女の子は――傷が残ったら、まずいんだから!」

「それはまずいですよねっ!」


 颯太はぐっと両手を握る。

 左袖に白地の臂章りょしょうを付けた衛生兵は、もう一度唸って。傷当てをとってしまった。


「無いほうが早く乾くと思う。治るまで辛抱してくれ」

「はい。ありがとうございます」


 ふわり、倖奈が笑って。両手をそろえて頭を下げる。

 吉田曹長は、ぼん、と頬をあかくして、そっぽを向いた。


「うん、まあ。万が一残ったときは、責任とってもらおうね」


――誰に、どうやって。

 その疑問を颯太が口にする前に。第五部隊の部屋の扉が外から開いた。


「……柳津隊長!」

「おかえりなさい」


 入ってきたのは、強面の部隊長だ。

 眉をつり上げて部屋を見回して。こっちだったのか、と呟いた。


「何が、こっち?」

 颯太が訊いても、首を振られる。

 くっと唇の端をあげて、彼は言った。


「吉田。現場の救護は?」

「第八、第九の応援も来ましたし、田辺とか、他の連中に任せています。俺は、奥で寝てる御仁を優先しようと思いまして」

「ああ……」


 隊長の視線に合わせて、颯太も、倖奈までも、奥まったところの小さな戸に視線を向ける。


――昼間も倒れてた、倖奈の知り合いだっていう男の子、だよね。……男の子?


 颯太が瞬いている間にも。

「また寝たのか」

「お疲れのようですよ」

 隊長殿と衛生兵の会話は続く。


「起きた直後は作戦の成果についていろいろ訊いてくるくらい元気でしたけど」

「何と答えたんだ」

「直接見ていないから答えられないって言ってやりましたよ。それでも食い下がられたんですけどねえ。俺も、余計なことは言いたくないですし」

「賢明だな」


 何のことだろう、と颯太はさらに瞬く。

 ちらりと倖奈を見遣れば、彼女はぎゅっと眉と眉の間に皺を作って、唇を噛んでいた。


「で、結局、鎮台に戻ってくる途中で、また目眩がすると言ってひっくり返りやがりましたよ」

 すっと息を吸って。

「いろいろ、推測はあります。ご相談しても?」

 吉田曹長が言うと。

「勿論」

 柳津大尉は頷く。


 それから、銀縁眼鏡を指先で押し上げて、隊長殿が見向いてくる。

 颯太は背筋を伸ばして、右手を挙げた。


「駒場は、帰ってくる連中を確認しておけ。いない奴がいたら報告しろ」

「はぁい……」

「シャキッと返事なさい、まったく」


 溜め息を吐く衛生兵の横をそろりと抜けて。


「倖奈は?」

 と、椅子に腰掛けたままの少女に問う。

「帰るけれど?」

 優しげな赤色の巾着とふわふわした襟巻きを膝にのせ、彼女は、当然と首を振った。


「一人で?」

 重ねて問う。

「外、日が沈んできたよ? 女の子が一人で歩くの?」

 曹長が声を裏返らせる。

「ああ、そうだな」

 隊長殿も頷く。


「誰か送る奴を――」

「――行かれますよね、隊長?」

「は?」


 高い声がさらに裏返っていた。

 きょとん、と隊長殿を見て。衛生兵を見る。


 吉田はニヤニヤしていた。


「駒場は帰着の確認をするんでしょう? 俺は奥の御仁を見張ってなきゃですし」

「だから別の奴を」

「怪我させたことを謝るのは、俺らではなくて部隊長のほうがいいと思うんですけどねえ?」

「おい」

「箔が付くって言葉、ご存じでしょ?」

「吉田、おまえ」

「いってらっしゃい!」


 爽やかな笑みだ。どこまでも爽やかな笑みだ。颯太にはできない。

 ひえっと、もう一度指先を噛む。

 隊長殿の長い溜め息が部屋を埋める。


「あの」

 と、かすれかけた声を倖奈があげる。同時に、革靴が床をコツンと鳴らした。


「報告と相談は戻ったら受ける」

「はい。お気をつけて、ごゆっくり」


 吉田がひらひらと手を振る。

 行くぞ、と言って隊長は部屋を出る。

 倖奈が慌てた様子で椅子から立ち上がって、走る。


 バタン、と扉が閉まった後。


「あの二人は――」

 と颯太は、先輩軍人を見た。

「噂になったけれど、何でもないんじゃなかったでしたっけ?」

「んなワケあるわけないでしょ」


 彼のニヤニヤは深くなっている。


「すっごいお似合いだよ」

「そうなんです?」

「おまえ、さっきのあれ見てないの?」

「どれですか?」

「もういい」


 呆れたような顔。しゅん、と肩を落とす。


「ほら、持ち場へ急げ。帰着の確認だろう?」

「はあい」

「だからシャキッと返事しなさい。隊長の前でダラダラしすぎるようだと、俺がシメるからね」

「ええええええ……」


 しっしっと手を振られ、颯太も扉の外に出た。


――倖奈と隊長かぁ。


 不思議な二人だな、と思うと同時に。


――菜々子、いたな。


 己の恋する相手を思い出す。


「ねえ、菜々子。俺、強くなれてるかなぁ」

 呟きには当然、返事はない。




 *★*―――――*★*



「お調子者どもめ」

 扉が閉まった直後、史琉はそう言った。

 思わず、肩を揺らしたけれど。

「早く行くぞ」

 そう言って振り返ってきた顔は穏やかで、ほっと息を吐いた。


「俺は何回おまえを送っていっているんだろうな」

 重ねて、笑われて。


――秋に喫茶店から鎮台に戻ってきた時と。万桜様のお屋敷に移ってからは、雨の日と、夜明けのあの時と、新聞社から帰ってきた時と……


 胸の中で数える。


「いつも、ありがとう」

 笑うと。

「礼を言うのは俺のほうだ」

 そう返された。


「よくやったよ」

 外した眼鏡を胸の隠しに仕舞いながら、彼は続けた。

「魔物を捕まえたのは、おまえだ。そうやって、軍の名誉を護ってもらった。だから、礼をいうのは俺のほう」


 言うだけ言って、彼は前に向き直り、階段を降りていく。

 瞬いてから、それを追いかける。



 そうして、外に出た。



 日が沈んだ後なのに、通りにはまだ人影が残っている。夜に溶け込んでしまいそうな色の肋骨服を着た軍人たちと、形違いの制服の警官たちが多い。他にも、三つ揃いの背広や書生姿の人たち。

 男性がほとんどだ。


「皆さん、何のために」

「また新聞社の連中だろう」


 史琉の抑えられた声に、つい体を固くする。

「さっさと抜けるぞ。捕まると面倒くさい」

 言うなり、彼は左腕で肩を抱き込んできた。そのまま押されて、早足で、歩き出す。


「ねえ、今日の作戦のことを――」

「急いでいるんだ、失礼」


 右手を記者とおぼしき男に振りながら、彼は足を止めない。倖奈も歩き続けるしかない。

 それでも声をかけてくる人がいて、その度に史琉が手を振る。

 息が上がってくる。

 鎮台の表の通りを抜けて、東に向かう道へと曲がったところで、ようやく人が減った。

 歩みがゆっくりになって。肩から腕が離れていって、ぎゅっと胸の底が縮みあがる。



 空には星が、手を伸ばせそうな高さではガス灯が輝く。石畳の上を風が抜けていく。

 風の中には、馥郁たる香りが混ざっていた。


「梅だ――春が近いな」


 ぽつん、と史琉が呟いたから。

「春は待ち遠しいって話を、前にしていたわ」

 つい、口にすると、笑われた。


「したか、そんな話」

「してたわよ。春はたくさん花が咲くからって」

「もしかして花畑のことか? そう言われて見れば、北では、農作業もよくしていた気がするな」


 軽やかに笑いながら、誰もいなくなった通りを、同じ速さで足を進めていく。


「想像すると可笑しいね。鋤や鍬を持った軍人さんなんて」

「哨戒に回ったり魔物と直接殴り合ったりするよりも、そんな時間のほうが多かった気がするぞ、正直。部下にもぶーぶー文句言われたな」

「部下の人がいたのね」

「ああ」

「そういうことは――北方鎮台でも、隊長のお仕事をしていたの?」

「そうだな、二年くらいかな。大尉に昇進したのは、親父が死んでからだから」

「お父様?」

「柳津の姓の義父だよ」


 振り向いた彼の笑い顔を、ガス灯が照らし出す。


「あのいけ好かない新聞記者が言っていただろう? 俺の今の苗字は、縁組をした義父のものなんだよ。北方鎮台の司令官――俺の上官でもあった人の」


 それに頷いて、笑む。


「大事なお父様のお名前なのでしょう?」

「……大事って」

「だって、お父様の法要のために、異動を遅らせていたんじゃなかったかしら」

「そうだったな」


 何故か、苦笑い。

 史琉は足を止め、首を振った。

 倖奈も立ちどまる。


 風がまた吹いて、梅の香りが、辺りを満たしていく。


 それから。

「その前の名前も、縁組をした人の苗字だ」

 ぽつん、と告げられた。


 瞬く。それから、まっすぐに見上げる。

 月明かりがつくる制帽の影の下で、彼もまっすぐな視線を向けてくる。


「これもあの記者が言っていたな。養母は――いずみは、同じ村の生き残りだ。その彼女と俺が一緒に暮らして、彼女がまだ小学校を出てもいなかった俺の面倒を見るのに、養子縁組してしまうのが早かったんだよ」


 クス、と零す。


「っていうのは口実で。夫と本当の息子を喪って、泉は寂しかったんだろうな。子供であるはずの俺にべったりだった。

 俺がそれが厭で、逃げ出した。そうしたら、彼女は死んでしまった――自分で首を括って」


 口許に広がったのが自嘲の笑みだと悟って。ぎゅっと両手を胸の前で握りしめる。


「その泉の夫と本当の息子。それに俺の本当の親。おそらくは、魔物に喰われたんだ」


 眉がかすかに下がって、目元に皺が寄るのが見えた。


「誰がどうやって死んだのか、よく分からないんだよ。

 なんでもない日の、いつもどおり学校から帰ってきて、近所の悪ガキ仲間と遊んでいた、そんな夕暮れだ。気が付いたら、村中が火に包まれていて、黒い魔物が飛び回っていた。

 見渡す限り赤いのにビビって動けなくなっていたのを、姉に助けられてね」




 あまりの恐怖に、足の裏が地面に吸い付いて離れないのだと訴えたら。


「莫迦なことを言ってないの!」


 頬を張られた。


「本当に、ダメな子なんだから!」


 ズキンズキンという痛みが消えないうちに、手首を引かれ、走り出す。

 だが、いくらも行かないうちにまた立ち止まった。

 正面には、黒い影。大きく開いた口。

 勢いよく伸びてきた牙は、この身に届かなかった。何故なら、覆いかぶさってきた人がいたから。

 愕然と、目を開く。

 己を抱きしめたその人は、頭や背中を削られながら、それでも笑っていた。

 その唇が、細い息を吐き出す。身が崩れ、倒れかかってくる。


「厭だ」


 叫ぶ。


「厭だよ!」


 かっと顔が熱くなった。その頬を、肩を、ぬめったものが流れていくのを感じる。赤く染まった体を、肉片をぐしゃぐしゃに叩く。


「いい子になるから!」


 鮮血が、視界を赤く染める。


「もっといい子になる、勉強だって手伝いだってなんだってするから、だから――」




――死ナナイデ。




 息が詰まる。

 なのに、目がそらせない。史琉が穏やかに笑っているからだ。


「嫁に行く直前だったんだよ、姉は。でも、喰われて、死んだ。実の親父とおふくろだけじゃなく、二人いた弟も、あとから死体になって見つかった。姉の夫となるはずだった人も、友達も、おっかなかった先生たちも、みんな」


 声も、淡々と響く。


「理由なんてない、ただの偶然で、俺は生き残った。ただ、生き残ってしまったからには、何かしたかった。

 そんなことを思うあおかった俺には、軍がちょうど良かったんだよ」


 ざわ、ともう一度風が吹いた。史琉は制帽の庇をつかんで、倖奈は狐毛の襟巻きを両手で押さえる。

 雲も流れて、辺りの闇の濃さが忙しなく変わる。


「金もない学も無い、そんな奴が憧れだけで入隊して、たまたま運があって、ここまで来たんだ」


 その中でも、声ははっきりと聞こえる。


「国を変えたいなんてことは言わない。ただ、目の前で死んでいく人がいるのは御免だ――それだけなんだ。可笑しな話だろう?」

「そんなことない!」


 つい踏み出して、濃紺の袖をつかんで叫ぶと、史琉は吹き出した。

 そのまま、顔を覗き込まれた。


「ずっと訊こうと思っていたんだが」

「……何を?」

「なんで俺なんだ」


 え、と瞬く。袖をつかむ指先が強ばる。


「俺は、おまえが想うような立派な人間じゃないよ」

「そんなこと」


 ないと叫びたかったけれど。


「惚れるような理由はどこにあるんだ」


 重ねられた問いに、首を横に振る。


「わからないよ、そんなの――でも」


 ただ一つ確かなのは。


「好きなの」


――だから、もしも史琉に嫌われたら、悲しくて、苦しくて、死にたくなっちゃうかもしれないけど。


「迷惑にならないようにするから」


――わたしは、史琉のことが好き。


「想うことだけは許して」


 見つめる。

 鋭い輪郭。つり上がった眉に、三白眼。薄い唇。倖奈よりずっとずっと大人のひと。

 そんな彼は、溜め息を響かせた後。ゆっくりと制帽を脱いだ。


「謙虚なのか大胆なのか、どっちなんだ、おまえは」


 え、と呟く。夜風の中でもわかるほど、頬が火照る。


「あ、あの、その―― わたしは」


 ぶんぶん、と首を振って。

 ぎゅっと目をつむる。


――なんてことを言っちゃったんだろう!


 頭の芯がぐわんぐわんと鳴る。心臓は宍を破って飛び出してきそうだ。

 立っているのがやっとで、何も聞こえないし、目を開くなんてとんでもない。

 そんな自分が厭だ、と叫びたいのを必死にこらえる。



 だから、唇に触れたものが何だったのかは、わからなかった。




(第三章 了)

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