53. 決して逃がすな(3)

 どうして気が付かなかったのだろう、と石畳を蹴る。

 捕まえるということに思い至らなかった自分が、腹立たしい。


――あの、御社の蛇みたいな魔物だって、自ら鏡に、御神体に戻っていったのに!


 御神体が勾玉だということはシロに知らされていたのだ。

 秋のあの時に、社から飛び出してきたアオに『戻れ』と告げていたら。村は壊されなかっただろうし、軍も振り回されなかっただろうに。



 胸が痛い。キリキリする。

 ひたすら走る。



 軍の避難誘導は巧くいっているのだろう。普段なら賑わうはずの通りに響くのは、号令と笛の音、車の駆動機エンジンの音。

 負けじと、編上靴と石畳を打ち鳴らす。

 向かう先に、あかるい焔が見えた。


常盤ときわ!」


 倖奈が名前を叫ぶと同時に、轟音が響く。

 空気が大きく揺れて、体が浮きかける。

 咄嗟に両腕で顔をかばえば、前腕にチリチリという痛みが走った。

 眩しさが収まってから、そろりと瞼を持ち上げる。


 今日初めて、同じ【かんなぎ】の仲間を見つけた。


 その彼の着物、臙脂色の袖は、袴の裾は、揺れている。鋭い一重の瞳が、真っすぐ倖奈に向けられてきて。

「邪魔だ」

 すぐに逸らされた。


「待って! 焼かないで!」

 その袖にすがりつく。

「何故」

「だって、この中に倒してはいけない魔物がいるから――」

「そんなものがいて、堪るか」


 常盤は唾を吐いた。


「魔物は人間の敵だ。だから、俺が全部焼き尽くしてやる」


 呟いて、大きく手を振る。焔が吹き上がる。それに呑み込まれて、また一つ黒い靄が墜ちた。

 他の塊は、風に乗って逃げて行く。


のがすか!」


 追って、焔が、常盤が走る。


 彼の目に映っているのだろう魔物たちを、倖奈も目で追った。

 どれも形は不安定で、丸くなったり、平べったく広がったり。ただ、どれ一つとして、人間と同じ形をとったものはいない。


「こんなに沢山いるのに」

――アオはいない?


 魔物が現れたという報があると共に、シロが倒れた。だから、その魔物はシロと繋がっている魔物と推測して。それで、アオだと思い込んでいたけれど。

 違ったのか、と瞬く。

 この場の魔物を、仮に常盤が全て焼き尽くしてしまっても、大丈夫かもしれないと安堵しながらも。立ち尽くす。


 くいっと袖を引かれた。


「倖奈」

 泰誠だ。

「危ないよ?」


 柔らかな声。同時にまた地面が揺れる。体が浮く。


 転んで、膝をついたすぐ目の前を、焔が横切っていく。

 魔物と同じで、人の身を傷付けることはないはずのそれが、今は熱い。

 また、顔をかばった腕の、袖から覗いたところがチリチリと疼いた。


「今日の常盤、いつも以上にイライラしてるから、加減がないんだよ。怪我はない?」


 後ろからは張り詰めた声が聞こえる。


 その主である泰誠を、見上げようとして。顔を顰めた。

 一般的な背の高さの彼だから、そこまで見上げることはないとはいえ。妙に視線が近い。


「あなたこそ、どうしたの?」

 腰を曲げたままの相手に言うと。

 狐色の鳥打帽ハンチングの下で、ふにゃりと眉を下げた。


「……腰が」

「え?」

「またやっちゃったみたいでね」


 ははは、と笑いながら左手で腰をさすっている。その合間にも、イテ、と呻く。


「いやあ、参った。痛過ぎて、真っすぐ立てないし、走れないんだよね。秋の雪辱戦だと気合を入れたのに、同じ羽目になってるんだよ……」

「ねえ、泰誠」


 もう一度、顔をしかめてから。

 泰誠の顔を真っすぐに見つめた。


「秋に見た魔物を憶えてる?」

「……忘れるわけないじゃん。最初に見たのは僕らだったじゃないか」


 彼もまた、眉を寄せて、皺を刻む。

 口元を引攣らせる。


「人間に近い形をしていたね」

「今日も見た?」

「……いたよ」


 ずきん、と心臓が跳ねる。


「いたの?」

「確かに見た」


 今、常盤が焼いているのは、アオが落としていったものあるいは、アオが呼び寄せたり、襲った人達に生み出させたもの。

 そう告げてから。


「本当、ムカつく魔物だよね」

 ギリッと、泰誠は奥歯を鳴らした。

「なのに見失った。西に逃げたって話だけれど…… って、倖奈!?」



 また走る。そろそろ、足を打ち続けた踵が痛い。

 走りながら、考える。


――シロとアオを完璧に分けられたらいいのに。


 でもそんなことは無理なのだろう。

 無理だから、倒れるのだ。



――アオを消したら、シロも死ぬの?



 通りの向こう。

 歩く人がいない、路地の角。

 黒い影が立ち尽くしていたのが見えた。

 腕を振る。進む。


「アオ!」


 叫ぶと、頭の部分がくるりと巡らされて、無いはずの目玉がこちらに向いた。

 さらに。

 ぜぇ、ぜぇ、と倖奈の呼吸の音が響く中で。黒い影は向き直ってきた。


 背丈も肩幅も何もかも、シロと同じ大きさの影。アオだ。


 頷いて、足を止めて、ぎゅっと手を握って。


「これ以上、流れていかないで」


 声を張る。


「貴方には、眠る場所があったでしょう?」

――自分で壊してしまったけれど!


 ひたと見つめる。

 風が止んで、陽が雲の陰からささなくなるまで、お互い動かず、睨み合う。


 そして結局、先に動いたのはアオだった。

 石畳の切れ目を蹴って、ぐぅん、と顔を伸ばしてくる。


 開かれた口から、犬歯がのぞく。そこを目掛けて、苺色の巾着を振り当てる。

 アオは仰け反って、倒れまいと腕を回し、爪を伸ばしてきた。


 今度は頬が痛い。

 でも、一歩も退けない。


「アオ!」


 叫ぶ。

 踏み出して、手を伸ばす。

 腕を掴んで、引き寄せようとして、突き飛ばされる。

 石畳へと勢いよく倒れ込んで、肩が痛くなる。


 うう、と呻いて。なんとか起き上がる前に。

 また伸びてきた爪。

 その間に差し込まれてきた、刃。


 爪と刃が組み合って、ぎりぎりと鳴った。


「一人で行くな」


 刃の持ち主が言う。あ、と呟く。

 袖章が示す階級は少尉。決して高くはないが、がっしりとした肩と背の男。第五部隊の高辻副官だ。


 彼が一歩踏み出すと、アオがまたよろける。そこを薙ぎ払われて、二つに割れて転がっていく。

 すぐに張り付いて立ちなおって、影は、びよんびよん、と跳ねて離れていく。


 なんで、と唇が空回る。それを見透かされたのか。

「うちの部隊長殿の指示だ」

 と、振り向かれないまま、告げられた。


「詳しく知らぬが、斬るとまずいんだろう?」


 まっすぐに。軍刀が上がる。刃先が魔物を向く。


「捕まえるのだと聞いている。貴様は素手で捕まえるつもりだったのか?」

「それは」


 すう、と冷たい汗が背中を伝う。

 高辻少尉は声を立てて笑った。


「無謀な小娘め」

 が、嫌いじゃない、と言葉を続ける。


「勾玉とやらをこちらに向かわせるよう、史琉が交渉しに行っている。それまで待て」



――史琉。



 走り出す時に、自分の名前を呼んでくれた。待て、ということだったのだ。

 唇を噛む。

 隣の青年は、小石を蹴った。


「それで? 勾玉とやらが届いたら、どうやって捕まえる気だ?」

「自分で入ってもらうの」


 やっと振り向かれて、見下ろされる。きっと顔を上げる。小さく、笑われた。


「足留めは俺がする」


 言うなり。少尉は走り出した。

 アオとの間合いが詰まる。刀が突き出されて、アオが仰け反る。そこに肩からぶつかっていって、押し倒す。

 濃紺の軍人と真っ黒な影がもつれ合って、通りを転がっていく。


 それを追いかけて、倖奈もまた走る。


 アオは、口をパクパクと開け閉めする。それを拳で殴り飛ばして、高辻少尉が笑う。


「まるで人間を殴っているようだな」

「止めて」

「苦しみ方まで、同じだ」


 アオは叫んで、通りを転がっていく。

 さらに、まとまった足音が近づいてくる。

 風を受ける音を頼りに振り向けば、桜星の旗。陸軍のあかし。


 一団は、濃紺の肋骨服を来て軍刀を下げた男たちだ。先頭には、大柄の壮年。


「梶川大尉だ」


 少尉ははっと息を吐くと、倖奈の腕を掴み、背にかばった。


「ほら、来たぞ。お待ちかねの御神体だ」


 先頭の男が、視線を向けて、笑いかけてくる。左手を小さく開いて、中をちらりと見せつけてくる。


――勾玉だ。


 息を呑む。


 周囲の石畳を、革靴が叩く。軍人たちがぐるりと円を描いて、アオを囲む。

 その列に巻き込まれる。


 円がぴったりと閉じるなり、大柄の男――梶川大尉が一歩踏み出た。堂々と立って、右掌に勾玉を乗せて、それを掲げる。

 

 アオは、得も言われぬ叫び声をあげた。

 だから。


「鎮まりなさい!」


 声を張る。

 倖奈もまた、一歩踏み出る。


「あなたがしたいことは、街を壊すこと? 人を傷つけることなの? それとも、自らの傷を癒すこと!?」


 自分でも、細くて頼りないと思う指先を、真っすぐ真っすぐ伸ばす。


「あちらよ」


 艶めいた緑の玉を示す。


 すると、ずるり、と。

 アオが立ちあがるような仕草を見せた。


 ぐん、と首が伸びる。細長く伸びて、その先が、梶川大尉へ、掲げられたままの勾玉と向かう。


 アオの鼻先が、緑に届く。触れても止まらず、ズブズブ中へ沈み込んでいく。

 最後まで地を踏みしめていた黒い足は、石畳から離れるなり、凄まじい勢いで勾玉に吸い込まれていった。



「きえた!」



 誰かが叫ぶ。続いて、勝鬨が上がる。軍人たちは、お互いに肩を叩きあって、腕を振り上げている。


 その中を抜けて、梶川大尉は歩み寄ってきた。


「これで大丈夫…… と思うか?」


 左手にはまだ、緑の勾玉。艶は相変わらずで、勝手に動き出しそうな気配もない。


「多分…… 大丈夫だと思います」


 ぶるりと、勝手に体が震える。

 はるかに年上の男が首を捻りかけたところに。


「梶川大尉。それに――倖奈」


 声が割り込んでくる。

 少し高めの声が。


「柳津大尉」


 梶川大尉が、長く息を吐いた。


「ありがとうございました。おびき出して捕まえるという、狙いどおりになりましたな」

「ええ、本当に良かった」


 銀縁の眼鏡をかけたままの彼は、頭を振った。


「かんなぎのおかげです」


 僅かに視線が向けられる。

 瞬く。


「あっさりと行き過ぎて逆に不安ではあるが、成果ではあるな」


 梶川大尉は、大声で笑いだした。


「仮にこれで駄目だったとしても。今度出てくる時はこの中からということになった。

 勾玉はまた鎮台に持ち帰る。つまり、常に我々で対応できるということだ」

「そうですね」


 ふう、と史琉は溜め息を吐いた。


「今日のところは以上でしょう。規制は如何しますか? 続けますか?」

「もう要らぬだろう。解除とそのあとの誘導は、第五部隊にお任せする」

「かしこまりました。ただ、衛生班をお借りできませんか? 東側で怪我人が多く出た模様です」


 さっきの混乱のせいだろうか、などと倖奈が思う間にも。

 梶川大尉の声に応えて、右腕に臂章りょしょうを巻いた人達が走って行く。

 史琉もまた、高辻少尉に何事かを耳打ちしていて。少尉が走り出す。


 その彼らとすれ違うように、別の人たちが押し寄せてくる。

 背広に、羽織袴姿に、と様々だけと、ほぼ全員が男性だ。


「本日の作戦の成果は!?」


 その一言に続いて。人波の中からどんどんと言葉が投げだされてくる。受け止めるのは梶川大尉とその周りにいる尉官たちだ。

 投げる側に目を凝らせば、斎が見える。


 名を呼ぼうとしたら、腕を引かれた。


「見つかる前に行くぞ」

「どうして」

「書きたてられたいのか」

「それは厭」


 くっと喉を鳴らして歩き出した史琉のうしろを、早足で追いかける。


 通りを少し行って、歩く人々の顔が穏やかなものになってきた辺りで。振り向かれた。

 視線が、じっと、向けられてくる。


「心臓に悪い」


 彼はうすく笑んだ。


「深窓のご令嬢だと思っていたのにな。その根性はどこから出てくるんだ」


 目を見開く。

 何か失望されたのだろうか、と。

 動けなくなる。


「柳津隊長~!」


 声だけは、しっかり聞こえた。


「駒場」

 史琉が、その声の主を呼ぶ。

「吉田曹長から、伝言……」

 石畳の上を走ってきたらしい颯太が、荒い呼吸の間から、言葉を押し出す。


「起きた、んです」

「誰が?」

「さ、さっき倒れた着物が変な人」

「ああ。背中が狸柄のあいつか」

「そうで、すぅ!」


 シロだ、と倖奈は瞬いた。颯太を、史琉を、順にみる。


「駒場。まだ走れるか」

「え、やだ、ちょっと無理」

「だろうな」


 史琉は、ふっと吹き出した。


「伝令に行ける奴! 吉田に告げろ。帰さないで鎮台に連れてこい、と」


 若い一等兵が駆けていくのを見送ってから、もう一度。彼は倖奈に向いてきた。


「おまえも鎮台に戻れ。手当てをしてもらえ」


 なあ、と史琉が颯太を見上げる。

 のっぽの颯太は、その背に似合わぬ顔をまっさおにして、唇を慄かせていた。


「なんで倖奈が怪我してるの!」

「……さっき、魔物に引っ掻かれたから」

「うわー! 何してるのさ! ダメダメ、顔に創がのこるのなんか、絶対! ダメ!」


 そんなに酷い顔なのか、と両手を頬に当てる。ヒリ、と頬と顎が疼いた。

――醜いと、嫌われちゃう。


「駒場。一緒に行け」

「隊長は?」

「俺も後から戻るよ」


 一度、官帽を脱いで、前髪を掻き上げてから。


「梶川大尉の増援に行ってくる」


 ゆっくり、ゆっくり。史琉は先ほどの人波の中へ溶け込んでいく。


 その、波の中に。

「菜々子!」

 知った顔を見つけた。

 無事だった、と笑って。手を振ろうとしたら、ふい、といなくなってしまった。


「……倖奈、知り合いがいた?」

 颯太がかすれた声を出す。


「そう、だけど。颯太もお知り合いがいたの?」

「お、俺は、べ、別に…… なんでも、ない。なんでもないよ、うん」


 頬がまっかだ。

 その顔のまま、よいしょ、と背負子の肩ひもを直す。


「行こうか」

「……ええ」


 波は、太陽と同じく、西に向かっていくから、逆らう形で。

 ひょっこり飛び出す颯太の後ろ頭を目印に、自分で人波を掻き分けて進む。


「やった、やったぞ」

「これで安心だ」

「さすがは鎮台だな」


 聞こえてきた言葉に零した溜め息が自分でも聞きとるのが難しいほど、通り中に 人の声が 溢れていた。


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