52. 決して逃がすな(2)
午後一時。
誰かが、時間だ、と言うのが聞こえた。
通りにそろった人々は皆、それぞれ違う声で喋っている。
身に
薄紫の振袖。緋色の洋式ドレス。紅茶色の背広。藍色の羽織袴。
倖奈はそろりと、自分の服に視線を落とした。
今日は鬱金色の二尺袖に苔色の袴。手首には苺色の巾着をかけて、足元は編上靴を履いて。首元へは、譲りうけた狐毛の襟巻を巻き付けた。
その襟巻を、毛糸の手袋を嵌めた両手で押さえながら、ぴょんぴょん、と跳ねる。
人よりも小さな背は、こういう時に苦労する。
――何も見えない……
ついさっきまで、第五部隊が並んでいるのが見えていたのに、人波に流されているうちに見失った。泰誠や常盤も見失い、シロとも逸れてしまった。
溜め息を吐き出して、目を閉じる。
そうすれば
温度のない笛の音は、合同で動いている三部隊が連絡を取り合う音だろう。
同時に、耳へと押し寄せてくる人の声の中に。
「魔物は出るのかな」
そう聞こえて、ゆっくりと顔を向けた。
すぐ横に立っている男の発したものだったらしい。厚手の着物の中に立て襟のシャツを着て鳥打帽を被った男だ。
その隣には、同じような書生姿で、固い四角い風呂敷包みを抱えた男がいる。
「わかんねえよ。いつもいつも不意打ちじゃねえか」
さらにその向こうには、綾織の背広姿がいて。
「そうだよなぁ。出現が予測できるなら自衛できるもんなぁ」
連れ立って来たらしい彼らは視線を交わし合っていた。
「それが、魔物の出現することを予測する研究が進んでいるらしいぞ」
「なんだそれは。それも皇都新聞の情報か?」
「あの新聞は軍縮の論調が強いから
「逆だろう? 確実に自衛できるなら、軍は不要じゃないか。良い兆しの話だ」
ぎょっとして、彼らの顔を見上げる。
勿論、倖奈がどれだけ見つめても、彼らは振り向くことはない。
「それでも今は、奴らに任せるといいさ。餅は餅屋と云うし」
「いいや。我らの血税を使う道として軍が良いとはとても考えられない」
「揉めるなよ。実際どんなものかを知るために、見物しに来たんじゃないか。どうやら、もっと向こうが本陣らしいぞ? 見に行ってみよう」
彼らはそう言って、西へと向かって隙間を抜けていく。
――
結局、見知らぬ人たちだったけれど。
軍は要らない、と考える人が他にもいる、という事実に、ぎゅっと胸の底が縮み上がったままだ。
両手で跳ねる心臓を押さえていると、また笛の音。
革靴のかかとが石畳を打つ音がわんわんと響く。
人の頭が並ぶよりも高いところに、桜星と久の字の旗が翻るのが見えた。
――第九部隊だ。
はあ、と息を吐き出す。
翻る旗を見上げても、訓練が、作戦がどう動いているのかは伝わってこない。
そう思ったのに。
「本当に出たぁ!」
叫び声はずっと西のほうからだった。
「うそ」
倖奈がぽつんと呟くと同時に、周囲の人波がぐわんと揺れた。
「逃げろ! 逃げろ!」
東へと、流れ出す。
人々の塊の中で。
押され、よろめいた先からまた押し戻されて、思うように進めない。石畳に立っているはずの足元が浮く。
ぐるん、ぐるん、と好き勝手に体の向きを変えられる。
肩が、背中が、打たれて痛い。両腕で体の前を庇っていたら、その腕にさえも何かが叩きつけられる。
そのまま、塊からはじき出された。
息を吐く間もなく、きゃーっという悲鳴が聞こえた。
振り向けば、どさどさと人が倒されていくのが見えた。
石畳に転がったその体の後ろから、黒い影がぬうっと上る。
「こっちでも魔物だー!」
声が上がる。幾つもの足が、滅茶苦茶に走り始める。
その先でも黒い筋がぐるぐると昇っていくから、悲鳴がさらに高く鋭く、多くなる。
「どうして?」
そう呟きながらも、分かった気がした。
秋の終わりに見たのと同じ光景だ。
――瘴気が人から立ち上っていった。
魔物が、人から生まれる瞬間だ。
「どうしよう」
――わたしには消せない? 捕まえられない?
今、ここで生まれた分だけでもどうにかできればいいのに、と唇を噛む。
その間にまた、人の塊に巻き込まれる。
通りの端、煉瓦造の建物の壁へと、走っていく男に突き飛ばされ、背中を叩きつけられて、視界を揺らした時に。
「倖奈!」
呼ばれた。
ぎゅっと目を瞑ってから、大きく息を吸って。見上げる。
惑い揺れる人波から一人、頭をひょっこりと飛び出させた少年。
「颯太!?」
「良かった、見つけたぁ!」
長い腕で人を掻き分けて、彼は寄ってきた。
息が上がっている。制帽は斜めに傾いている。
「どうしたの?」
両手で制帽を直しながら、彼は笑うことなく言った。
「隊長が、捜して連れてこいって言うから!」
倖奈はもう一度瞬いた。
――史琉が?
「どうして……」
一つ頷いて。
「えっと、あの。倖奈の知り合い? 人が倒れちゃったからって」
颯太は続ける。
「と、とにかく来て。急げって」
「でも、あそこに、魔物が」
「こっちには別部隊が来てるから、大丈夫だよ。ね、早く」
手首を掴まれる。同い年なのにもう大人びた、固くて大きな、掌。
それに導かれるまま人波を抜ける。
すこし開けるなり、駆け出す。
規制のために立った軍人たちに、すみませーん、と颯太が情けない声とおざなりな敬礼を掲げて、合間を走り抜ける。
人々が逃げて、建物の戸は全て閉めきられた通り。
二十人ほどがいる。
そこに向けて走る。
「連れてきましたぁ!」
「うっし、御苦労!」
年嵩の男が、顔をもっと皺だらけにして、颯太の背をばしっと叩く。颯太はそのまま、両手を膝の上に置いて、顔を下に向ける。
荒い息を響かせる。
倖奈もまた、肩で大きく息をしながら。軍人たちの向こう、通りの端側を見遣った。
石畳の上に、白い綿の敷物。その上に横たえられている影に。
「シロ」
声をかける。
すぐ傍に膝をついて、シロの右腕を取っていた男が顔を上げた。
「脈に問題はないですよ。心臓の病とかそう言うことじゃないと思う」
濃紺の肋骨服に、制帽。ただし、左袖に白地の
その彼に、笑いかけられたことに頷きながら。倖奈はじっとシロを見た。
小豆色の羽織も鼠色の着物もまったく汚れてはいないのに、顔は蒼い。伏せられた睫毛が動く気配はない。
ゆるゆると首を振る。
その瞬間、また手首を掴まれた。
白い手袋に覆われた、掌。ずっと大人で、固くて大きな掌。それに引かれ、よろめいて、真っすぐに立つ体にぶつかった。
濃紺の肋骨服、その襟元に、徽章は一つだけ飾られている。そこから上に視線を動かせば、当然、目が合った。
銀縁の眼鏡の奥で、怜悧に輝く眸。
手首を握られて、引き寄せられるまま。顔が近づく。
「倒れたのは、交戦開始の合図があってからだ」
いつもと違う、抑えられた声。すぐ傍の倖奈にだけ聞こえる声で、史琉が言った。
「最初に魔物が出たのは、予測したのとほぼ変わらない、街の西側だ。そこから中央に向けて移動してくる、そのように追い立てているとの報が入るのと同時にだな」
瞬いて見せる。彼の表情は冴えたままだ。
「今回出た魔物はまた、こいつと関係している魔物なんじゃないのか? その魔物が殴られたから、倒れた。
この間の晩もそうだっただろう?」
「アオだ」
呆然と呟く。
――本当におびき出せたんだ。
どうして、と瞬いている間に、史琉が小さく溜め息を吐いた。
「おまえは何をどこまで知っているんだ」
瞬くのを止める。じっと見上げる。
向けられているのは、冷たい視線。
「アオ、というのはなんだ」
「……それは」
西の郊外の社に封じられていた魔物、秋に取り逃がした魔物だ。
それは、シロがかつて、彼の身から切り離したのだという瘴気の塊だ。彼が、好奇心から集めた、人の穏やかならぬ感情が変じたもの。
「どうして、さっさと言わなかった」
「……ごめんなさい」
首を横に振られる。それでようやく、手首を離された。
ひりつく右の手首を、逆の手で擦る。
細かく呼吸を繰り返しながら、横たえられたシロのほうへ顔を向けた。
すると。膝をついたままだった衛生兵が、かすかに笑って。それから視線を史琉に動かした。
「柳津隊長。今の話をまとめると……
これが問題の魔物の素、っていうんですかね。何かを同じくする人間ってことですよね」
「そうなるな」
史琉は一度制帽を上げて、髪を掻き上げた。
「吉田。他言無用だ」
「勿論です」
「律斗にも言うなよ。面倒くさくなる」
「副官にですか。そりゃあ勿論、黙ってますよ。
もしかしたら、この御仁が遠郷前隊長の仇かもしれないっていうんでしょ。そんなこと知ったら、どう暴れるか分かったもんじゃない」
くすくす笑う男に苦笑いを向けて、史琉は、シロを挟んだ反対側に膝をついた。
「にしても、人間と魔物が繋がっている、ねえ……」
「僕はなんか納得しましたけど」
「まったくだな。おそらくだが、きっちり人間から分かれていない魔物ってヤツは、俺たちが普段相手をしているのと何かが違う。だから、物を壊すことも可能になるんだろう」
横で、呆然と立ち尽くす。その間にも。
「ここでこいつをぶっ殺せば、魔物も消えるかな」
「物騒ですね。僕も同じこと考えましたけど」
史琉と衛生兵は、声色だけは朗らかに会話を進めていく。
「とはいえ、軍が殺人なんて言ったら、また世論とやらが煩くなるな」
「当然でしょう」
「そもそも、俺たちは人命防衛のための組織だしな」
「そうですよ。僕もその気になれば、人体に毒を仕込んだりとかできますけどねー。しませんよー」
「……何か、他の手段は思い浮かぶか」
「取り敢えずとっ捕まえてみたらどうですか」
「やっぱり、そうなるか」
最後、ククククク、とそろって肩を震わせ始めた。
倖奈の膝からは、かくん、と力が抜けた。
へたり込む。緩やかに、笑みを向けられた。
だから、眼鏡越しに、彼の眸に自分の姿が映っている。
どれだけ情けないことになっているのだろう、と胸の奥がギリギリ軋む。
「捕まえる、ですかー。出てきたって御社の御神体…… 勾玉でしたっけ? それを使うんでしたよね」
「そうだ」
「勾玉……」
「今は、第九部隊が持っていて――このまま向こうを頼るしかないですかね」
「作戦どおりなら、な。俺たちは待つしかない」
そこまでで、二人とも口を
横顔を順に見遣ってから、眉根を寄せて、思い出す。
先程、通りで見かけた部隊は、第九部隊だった。
指先に、膝に、力を込める。大きく息を吸って、立ちあがる。
「行ってくる」
「おい」
袖を揺らし、袴を翻した。ガン、と編上靴が石畳とぶつかる感触が、全身を震わせる。
構わず、二歩、三歩と、踏み出していく。
「倖奈!」
声が聞こえた。自分を呼ぶ声が。
それでも、今は振りかえれなかった。
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