51. 決して逃がすな(1)

 雑踏の中にあっても、自分を呼ぶその声ははっきりと聞こえた。

 振り返る。


倖奈ゆきな!」


 もう一度呼ばれる。

 石畳の通りの向こうで手を振っているのは、菜々子ななこだ。


 彼女は今日も女学校の制服――蝋色の海兵セーラー襟のついたワンピース姿だ。首元には空色の襟巻が巻かれ、肩にかけた鞄はずしりと重たげに揺れる。

 控えめに上げられた手には、ミルクココアの色の手袋が嵌められていて。倖奈もまた、同じ手袋を付けた手を上げた。


 吹きだした彼女に駆け寄る。


「学校は?」

「今日は授業が午前だけだったの。もう下校よ」


 太陽は真南を回ったばかり。

 その日を見上げながら、よいしょ、と鞄を持ち直す。それから、菜々子はふっくらした唇を尖らせた。


「あんたはどうしたの? ――まさか、軍の訓練に参加しているわけ?」

 そう言って、ぐるりと通りを見回す。

「予想はしてだけど。いつもより、あきらかに、人が多いわ」


 人力車も馬車も、徒歩の人も、多く行き交う。そこに、鎮台の部隊もやって来ているのだ。

 通りは、北風が吹き抜ける隙間すらない。

 溢れかえる話し声と衣裳の色に、眩暈がする。


「人がいると思ってなかったから、びっくりしたわ」

「どうして」


 菜々子が目を丸くするのに、苦笑いを返す。


「昨日の新聞、読んだでしょう?」


 斎たちが書いてくれた記事は、倖奈が思い描いていたのとは全く違った。

 史琉は、訓練だ、と話したはずなのに、新聞の表題は『魔物をおびき寄せる作戦が実行される』だったのだ。

 魔物が出ると断じた内容に、見た瞬間、よろめいた。

 それでも、鎮台の人たちは文句を言わないことを決めたらしい。人が避けてくれればよいのだから、と。

 そうだというのに、この有様だ。本当に、眩暈がする。


「……あの記事を読んだら来ないと思っていたの?」

「だって、記事には退避するようにって書いてあったじゃない」

「莫迦ね、逆よ。あれを見て、興味を持っちゃった人が多いのよ」


 菜々子は肩を竦める。思わず、目を丸くする。


「菜々子は分かっていて来たの?」

「――そう、ね」


 答えに、つい、溜め息を吐きかけたが。


「あいつが見れるかなって、思っちゃって……」


 頬を夕焼け色に染めた菜々子に、息を呑む。


 誰、と問うまでもない。菜々子の想い人だ。


「来ている、かしら」

「分かんない。まだ見かけてない」


 ぷるぷる首を振ってから、菜々子は眉を上げて、振り向いてきた。


「見かけても、教えないからね!」


 必死の形相。

 それに、両手で口元を押さえて肩を震わせていると、背中を小突かれた。


「で? 最初の質問に戻るけど、あんたは何しに来たの? 『かんなぎ』も作戦に参加するの?」

「そうね」


 ちらりと視線を向けた先。

 市井の人に紛れているが、そこかしこに『かんなぎ』がいる。書生姿の常盤と泰誠も来ている。

 倖奈だって、そうだ、と胸を張れたら、良いのだろうけれど。


「本当は、来ないほうが良かったの」


 もう一度、苦笑いを浮かべる。

 菜々子は首を傾げる。


「こんな大規模な作戦なのに、来ない方がおかしくない? 『かんなぎ』にとっても大舞台なんじゃないの?」

「そう…… なんだけど」


――おまえは戦闘に向いてない。


 つい、言われたことを思い返してしまう。

 わずかに目を伏せた瞬間に、菜々子はすこしだけ意地悪な笑みを口許に浮かべた。


「近くで活躍が見れるって特権じゃない」


 誰の、とは言わない。菜々子も分かっていて、ぼかしてくれる。


「そうね」


 やわらかく頬が緩む。そこをぷにぷにと突かれる。


「じゃあ、頑張って」

「菜々子も、危なくなったら、逃げてね」

「もちろんよ」


 毛糸の手袋を嵌めた手と手を打ち合わせて。

 また、自分を呼ぶ人がいる、別の方角に走る。


「何処をふらついているんじゃ」


 あなたに言われたくない、と頬を膨らませかけて、頭を勢いよく振って誤魔化した。


 それから相手を――シロを見る。


 鼠色の長着に、小豆色の羽織。紺色の足袋に白木の下駄。片手で狐面をブラブラしているのも、いつもどおり。正面から見れば。

 後ろから見ると珍妙この上ないのだ。

 今も、背中の向こうを通る人がこちらをじろじろと見ているのが分かる。

 倖奈ではなく、シロを見ているのだと分かるが、居た堪れない。


「シロ」

 呼ぶ。

「やっぱり、それは失敗だったと思うわ」

 言うと、彼は幼い顔をくしゃりと綻ばせた。


「何を言うか。まだ着れる服を直して使っておるんじゃ。褒められてこそすれ、けなされるいわれはなし」


 そう言って、クルリと背中を向けてきた。がっくりと肩を落とす。


 今着ているのは、前の晩と同じ着物。史琉に背中から斬りつけられた時の物。

 軍刀によってざっくりと切り裂かれた羽織と長着に、接ぎを当てて直す。その考えに問題はない。問題なのは、接ぎに選んだ布だ。

 何故が、おおきく、狸が描いてある。

 なので今、シロの背中には、おおきなおおきな狸がデンッと突っ立っている状態なのだ。

 徳利とっくりを下げた狸が。


「お茶目な絵じゃろ?」

 ご満悦なのは、当人ばかり。

「たーんたーんたぬきーのきーんたー……」

「止めて!」


 叫ぶ。俯く。

 顔の横で揺れる、色のうすい髪を見つめながら、何を言おうかと思案していると。


「おお。いたぞ」


 シロが嬉しそうに歩き出した。

 顔を上げて、その先で翻る軍旗を見て、息を呑む。


 第五部隊だ。

 史琉がいる。




 *★*―――――*★*




 荷物が重い。


――本当、重いんだけど。どう思う、菜々子?


 今担いでいるのは、西洋式の背嚢ズックではなく、昔ながらの背負子。

 中には、皇都の一般的な地図をはじめ、過去に魔物がよく出現した地点や被害状況をまとめた資料。颯太たちの数カ月の奮闘の結果がごっそり入っている。


 今日の役目は、何時いつ如何いかなる場合でも指示された資料を素早く取り出すこと。


 どうして俺がこの役目なのかな、と思いながら。

 颯太は、よいしょ、と肩に紐の間に指を入れた。


 ぐい、ぐい、と食い込む紐を少し持ち上げて、小さく息を吐く。前に立つ隊長殿に聞こえないように。


 濃紺の肋骨服に制帽、白い手袋という、いつもどおりの出で立ち。違うのは、屋外の、実地行動にもかかわらず、眼鏡をかけっぱなしだとことだろう。

 のっぽの颯太より背が低いのに、ずっとずっと大きく見える。


――なんでだろうな。


 背負子の帯と肩の間に差し入れた指を動かしながら、颯太は首を捻った。


――筋肉質だと大きく見えるってのはあるよねー。


 同時に入隊した櫂と、浴場で一緒になった時は驚いた。盛り上がった胸に、くっきりと割れた腹。指摘したら、君の鍛え方が甘い、と怒られた。

 でも、あれは脱がないと分からなかったから、まだまだのうちなのだろう。何故なら、副官が、服を着た状態でも分かるほど、逞しい肩と腕の持ち主だからだ。


――柳津隊長はどうなんだろうなー。見た感じ太くないけど、脱いだらムッキムキだったりするのかなー。一緒にお風呂に入ったら、分かる、かな!

 って、俺は何を考えているんだよ!


 ブンブン、と頭を大きく振って、鼻息荒く前を向きなおる。


 正面の隊長殿はまだ、真っすぐで。左手で革張りの手帳を開き、右手に持った懐中時計をずっと睨んでいる。


「あと十分」


 小さな声に、高辻副官が頷く。周囲の隊員たちには緊張が走る。


「もう一度確認を。

 第五部隊は戦闘区域の判定と、範囲外への一般人の避難誘導だ。衛生班は特にそちらから目を離さないこと。高辻副官につく班は第八部隊、第九部隊の戦闘を援護」


 よくとおる高い声に、応じる声が続く。颯太も頷く。


――とはいえ、作戦の全体像はよく知らないんだよね。


 分かっているのは、鎮台に所属する三部隊、総勢三百名が集結しているということだ。


――そりゃあ通りも埋まるか。


 いつもの哨戒以上に、人の気配が多い。近い。

 熱気で息がつまる。


 その人波の合間に知っている顔を見つける。

「倖奈!」

 名前を呼ぶと、ゆるやかに手を振られた。


 颯太の肩までしかない背丈に柔らかな髪、華奢な肩と、人波に完全に埋もれそうでいながら。

 存在がはっきりと届くのは、視線が揺るがないからだろう。

 颯太に対して、力強くうなずき返してくる。


 だが、それだけ。

 こちらに寄ってくることはないらしい。


――まだ、隊長殿とはダメなのかぁ……


 実際のところはどうであれ。妙な噂を立てられた相手とは一緒にいたくないなんて思うのだろうと、想像して。


――ねえ、菜々子。いいところのお嬢様ってのも大変だね。


 人波に隠れていった彼女をおいて。傍にいた少年が、テクテクと歩み寄ってきた。

 迷いなく、第五部隊へ。

 隊長殿の横へとにじり寄ってくる。

 その彼の、小豆色の羽織が翻るのを見てから、目を剥いた。


――なに、あの背中の狸……


「ご苦労じゃのう」

 声を聞いた瞬間、あ、と思った。


――どこかで会った。


 何処だ、と思っている間にも。


「な、な!」


 柳津大尉の知り合いなのか、と納得する。

 話しかけられた当の大尉は、思いっきり顔を歪めていたが。


「おまえがいると、いろいろと魔物に関して起こる」

「今回はいいではないか。魔物をおびき出す、なんて、そのに含まれるじゃろ?」


 ケケケ、と優しげな少年は見た目に反する下卑た笑い声を立てた。


「大胆な策に出たのう」


 頬を引き攣らせたまま、大尉殿は視線だけを相手に向けた。


「おまえも新聞を読んだクチか」

「倖奈に聞いた」


 まだ笑う少年を見下ろしたまま。

「――来ているのか?」

 そう言って。頷かれて。


 チッという舌打ちが聞こえた。


――あああああああ、隊長もやっぱり駄目なんだぁあああああ。


 噂の二人は、その噂が嘘だと告げるかのように、お互いがそっけない。

 そう思った颯太が目を白黒している間にも。

「どうやっておびき出すつもりじゃ?」

 少年はまだ笑っている。


 大尉殿は溜め息を吐いて。

「……あんたに付き合ったら、魔物が出現するその場に居合わせた」

 ぼそりと呟いた。

「神社の、拝殿の中からだったな。さらに言えば、祀られた鏡からだった。暴れるだけ暴れて、結局はそこに戻っていった」


 続けて、目を細めて。


「例の逃げたといわれている魔物も、神社から出たものだった。そして、そこに未だ戻っていない」


 眼鏡の縁を指先で押し上げる。


「ちなみに、御神体だという勾玉は今、第九部隊が警護している」


 ほう、と息を吐いて。少年は両手を打った。


「よく探し出したな。建屋は崩されたはずじゃろう?」


 大尉殿は溜め息を返す。


「軍を舐めるなよ」


 それから。

「ちなみに」

 と、大尉殿は少年に、体ごと向きなおった。

「魔物が封じられた状態で、物を壊したらどうなる?」


 少年が、きょとん、となるのが見えた。


「宿っていた物から飛び出してきた魔物は、それだけを斬れる、同じように。人から追い出したら、魔物だけを斬れる。

 もし、逆に、乗っ取られた人ごと斬ったらどうなる? あの時、おまえは『普通に斬ったら、死ぬぞ』と俺に警告したな」


 柳津大尉の視線は研ぎ澄まされる。


「おまえは、どうなんだ?」


 そのまま、ひた、と大尉殿が少年を見つめた時に。遠くから、ピー、と笛の音が聞こえた。


「合図だ」

 ざわり、と部隊が震えて、静まりかえった。

 立ち尽くす少年を置いて、隊長殿は一歩踏み出す。


「第九部隊が動き出した。ぬかるなよ」


 そして、行動開始、という掛け声。

 颯太はぐっと前を向いた。

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