50. 将軍閣下と報われない恋
扉を開く。部屋の中には、
「新聞を見たぞ」
そう言った顔は常以上にしぶく、声も研ぎ澄まされている。
だが、本来であれば秋の宮が座っているはずの、皇都鎮台司令官室の椅子にふんぞり返っているのは、いつもと変わらない。
豊かな胸と括れた腰、伸びやかな四肢を覆うのは、濃紺の肋骨服。短袴と膝下まである
鋭い視線も、もしかしたら、いつもどおり。
秋の宮の腕に、美波がすがりつく。
溜め息は、後ろから聞こえた。
「中にお入りください、宮様」
背後に立つ秘書官に促され、ゆっくりと臙脂の絨毯の上を進んだ。
机の反対側、ではなく、別に置かれた長椅子に腰を下ろす。美波が横に座ってくれる。
「天音。用件は?」
目を伏せながら問う。今度聞こえたのは舌打ちだ。
「新聞を見た、と言っただろう。私だけじゃないぞ。司令部のおじいちゃんどもも、内閣府の親父どももだ」
ばさ、といいう音と共に、樫の木の机の上に新聞が放り投げられる。
日付は一昨日。
「僕も見たよ」
そう言うと。
「ならば、内容は分かっているな」
問われる。頷く。
「僕が、十日を越えて、鎮台に来ていなかったことを書いているんだろう。
事実だよ。事実、僕はこの十日、自分の屋敷から外に出ていなかった」
昨日は本当に久しぶりに来た。新聞を見せられて、さすがにまずい、と思ったからだ。
結果、秘書官からはお小言を延々と続けられて、採決を待っていた部隊長たちからは、懸案事項の説明を受けるよりも、来なかった理由を問い詰められる事態になった。
責められるのは、嫌いだ。
なのに。
「引き籠っていても問題は解決しない。魔物は捕まえられない。
つまり、おまえがしていたのは、この鎮台、そして、鎮台を率いる司令官としての役目を忘れたとしか思えぬ行為だ」
天音は容赦なく言い当てる。
「この恥知らずめ」
「違うわ!」
美波が叫ぶ。
え、と顔を見る。鴉の濡れ羽色の髪が揺れて、頬に朱が差しているのが見える。
「お疲れなだけなのよ。部隊長たちの不始末を責められて、お困りなだけ! 宮様のお優しさを悪く言わないで」
一息に言い切って、はあ、と大きな息を吐いた美波に対して、天音は眉を跳ね上げた。
「おまえは黙っていろ」
美波はビクッと肩を震わせて、また叫んだ。
「どうして!?」
「軍人でもなんでもない人間が、口を挟むなと言っているんだ」
「わたくしも、鎮台の『かんなぎ』ですわ」
「『かんなぎ』と軍の関係は、支配じゃない、協力だ。軍の統制に口を出されるいわれはない」
刃物のような視線を受けながらも。
するりと美波は立ち上がり、秋の宮の前で両腕を広げた。
「例え、貴女が話すとおりだとしても。
わたしは宮様の恋人なんですもの。お守りするためだったら、何処にでも行くし、何でも言うわ」
次の大きな溜め息は、天音の唇から零れた。
ギシッと木の椅子を揺らして、彼女も立ち上がった。
「莫迦将軍に物申すだけにしておこうと思ったが、いい機会だ。
もう一度言うぞ、小娘。しゃしゃり出てくるんじゃない。おまえに軍の統制に口を挟む権利はない!」
そして、と天音は掌で机を叩いた。
「おまえのいう恋人の役目は、相方に役目を放棄させること、堕落させることなのか!?
声高に言った天音の顔は、まさに夜叉。
それを受けて美波は首を振る。それを見つめて、ゆっくり立ち上がって、ぶるぶると腕を振るわせる彼女の体をそっと抱いた。
「美波。ありがとう、嬉しいよ」
「……宮様」
右腕に抱き込んで、もう一度、二人で長椅子に座った。
胸に美波が頬を擦り寄せてくる。そのまま彼女は、天音に顔を向けた。
天音もまた、ぎろりと睨み返した後、その視線を秋の宮に向けてきた。
真っ直ぐにそれを受け止めて。
「……兄上は何かおっしゃっていたかい?」
と、国の至上の地位にある人のことを口にする。
天音は一瞬だけ、眉をさげて。
「お怒りだ」
と言った。
それから、ぐっと唇を曲げて、眉間に皺を刻む。
「陸軍司令部のお偉い方もな、カンカンだ。それで私が駆り出された」
そう言って、懐から一枚、紙を取り出した。
朱の押印が二つ。陸軍最高司令官の印、そして、主上のもの。
墨書きされた文字を追う。
「一条天音少将を皇都鎮台司令官補佐に任ず――?」
「おまえを簡単に
盛大な舌打ちを挟んで、天音は続ける。
「なお、この着任は司令官で拒否できない、との念書付だ。こんな辞令を受け取ったのは初めてだぞ。
……こんな
呆然と。同い年の従妹の顔を見る。
隣では美波が啜り泣きはじめた。
「ひどい、ひどい。宮様の苦しみもお優しさも知らないで」
ぎゅっと肩を抱く。彼女のつむじに頬を寄せる。
「そんなに責められるなら、もういっそ、お役目を解いてくださればいいのに」
「そうはいくか。仮にも、当代の弟。体面だってなんだって、保たれていないと皆が困る」
制帽の端から流れる髪を指先で弄ってから。天音は、司令官の椅子に座り直した。
きまずい、沈黙。
それを切り裂いたのは、いつになく淡々とした秘書官の声だった。
「お話途中で失礼します、秋の宮様。一条少将」
入口の方へ一度目配せをして、ゆっくりと話す。
「第九部隊梶川大尉他、皆様お揃いです」
ああ、と応じたのは天音だ。
間を置かず、扉から大尉の袖章を付けた男たちが入ってくる。皇都鎮台の十ある部隊のうち、第五・八・九部隊を率いる部隊長たちだ。
皆、一度、秋の宮と天音を見て。それから、大きな机の脇に立った天音に挙手の礼をとる。
あでやかに微笑んで、天音も礼を返した。
「それでは、お歴々。明日の作戦内容について、私にも教えていただけるかな?」
「御意」
そう、一番体が大きな第九部隊の梶川大尉が応じて。挙手の礼をとった掌の下からギロリと秋の宮を――美波を見遣ってくる。
「その前に、部外者の退席をお願いできますか?」
「そうだね。私もそう思うよ」
天音は笑っている。美波は、首を振って、秋の宮にしがみついてきた。
両腕をその肩に回そうとしたところで。入ってきた部隊長の一人が静かに寄ってきた。
柳津大尉だ。
銀縁の眼鏡で秋の宮に静かな視線を送ってきたあと。
「ご友人がお迎えに見えてますよ」
そう、美波の肩を叩く。
顔を上げた美波は、怪訝そうな声を上げた。
「……友人?」
「ええ。同じ『かんなぎ』のご友人が。お話があるのだそうです」
にっこりと――そう、口許だけは和やかに、彼は笑った。
「お待たせしているのだから、急いだら
肩に載せられた、白い手袋を嵌めた指先をバシッと払って、美波は首を振る。
「……行っておいで」
背中を撫でて
ゆっくり、ゆっくり、何度も振り返りながら、彼女は出て行く。
出て行くなり、扉はきつく閉められた。
*★*―――――*★*
はっきりと、美波の顔は歪んだ。
細い眉が捩じれ、紅を佩いた唇は
その
名前を呼ぶ。呼び返される。
「わざわざ呼び出して、何の用?」
しかも、と彼女は語気を強める。
「またそんな浮かれた格好をして。わたしへの、嫌味?」
違う、と倖奈は首を振った。
今日は会えると思っていなかったのだ。だから、何も意図はない。
鬱金色の袷に群青色の帯、苔色の袴、足首丈の編上靴。広めに見せた半襟は白地に紅の扇模様だ。
白黒の千鳥格子の
秋の宮も美波も来ていると聞いて、まっすぐに向かってきた。
そして部屋の前で、史琉と顔を合わせられたから、美波に会いたいのだと告げられた。
本当に、それだけ。
すぐに司令官室から美波を呼び出してくれた史琉に、ありがとう、と心の中で呟く。
そして改めて、美波を見る。
今日は、黒地の中に色とりどりの立波が踊り、牡丹と菊が咲いた振袖。鮮やか過ぎて、胸が痛い。
負けられない、と両手を握る。
「ここで喋っていたら、皆さんの邪魔になっちゃうわ。行きましょう」
くるりと背を向けて歩き出す。
遅くもなく、早くもなく。後ろに気配がついてきているのを確認しながら、歩く。
『かんなぎ』たちが使う棟、その大きな窓の側まで来てから、振り向いた。
「最近、ここに帰ってきてる?」
美波は首を横に振る。
「ずっと、宮様の御邸に泊めさせていただいているの。むしろ、住んでいるっていっていいかも。女中さん達とも親しくなれたし」
長く艶やかな髪を掻き上げて、彼女はぼそっと呟いた。
「万桜様の御邸より気楽」
窓を背にして、倖奈は眉を寄せた。
「ねえ、憶えてる? 美波は、『かんなぎ』としてのお役目があるから、ここに残るって言ったのよ」
「そうだっけ?」
「万桜様のお邸に移らないかって言われた時に、自分で言ったのよ」
――わたしは『かんなぎ』の仕事があるからお断りよ。
そう言っていた、と言葉を重ねて。
「おかしいでしょ?」
と、首を傾げてみせる。
すると、美波は頬を膨らませた。
「だって、宮様が」
「宮様が、何?」
「鎮台に行かないっておっしゃるから、お付き合いしたのよ。お慰めするのが恋人のわたしの役目でしょう」
言って、彼女は左手の紅玉をチラチラさせる。
今度は頭を振ってみせた。
「それが、『かんなぎ』としての役目より大事だと思っているのね。
宮様が来られないことで、困っていた人たちもいるのに。宮様は本当は、司令官として一番ここにいなきゃいけない人なのよ?」
「もう、大丈夫よ。近衛隊の少将さんが、こちらにも来られることになったから、宮様のお役目は減るわ。
……そうなのよ。御苦労が減るの、嬉しいことよ」
あでやかに笑う美波を真っすぐに見つめられなくて、俯く。
「宮様は、現場の下手な指揮のせいで魔物を逃がしてしまったことを、責められていたのよ。その時何をしたわけでもないのに。それで、あの人がどれだけ悩んでいたか知っている?」
まだ、頭をブンブンと振ってみせる。美波は、ほう、と息を吐いた。
「ご自分がなさったことでもないのに責められて、困らされて。苦しんでらした宮様のお姿を知らないのに、何を言うのよ」
その嘲る声に。
「美波だって、その場でいちばん頑張っていた人たちを知らないじゃない!」
がばっと顔を上げた。
「壊された建物の瓦礫を選り分けて人を助けたのは、颯太たちなのよ! 怪我の手当をしたのだって、第五部隊の衛生班の人たちだわ。
それに、それに――」
――部隊を指揮していたのは俺。
「史琉がどんな想いでそれを指揮していたか、知らないじゃない!」
叫ぶ。
だが、美波はゆったりと笑うばかりだ。
「それを? あんたが知っているっていうの? 恋人でもないくせに。分かった顔をしないでよ」
濡れ羽色の髪、透きとおる肌を輝かせて、笑みがゆるりと広がる。
「羨ましいんでしょ、わたしのことが。宮様と愛し愛される間柄のわたしを嫉妬しているんだ、本当は。やっぱり、柳津大尉と恋人になりたいんでしょ? 素直にそう言えばいいのに」
クスリ、と。紅を塗ってあかくなった唇が綻んで、さらに言葉が重ねられる前に。
「わたしは、今のままで、充分」
前を向いて。
「好きよ。わたしは、史琉のことが好き」
言葉を声に変える。
「だから、もしも、もしも史琉に嫌われたら、悲しくて、苦しくて、死にたくなっちゃうかもしれないけど」
胸の裡を満たしていく。
「あの人が、夢のために進んでいくというのなら。わたしも、わたしが望むことのために、戦うの」
――魔物を祓う、力になりたい。
背中は丸まらない。何も震えない。
対して、美波は顔を背けた。
黙る彼女を、ぎゅっと見つめて。
「明日、魔物を追う作戦が決行されるんですって」
言うと。
「知ってる」
ぼそりと返された。
「美波は――」
「来ないわよ。頑張ってなんてやるものですか」
花咲く袖を揺らして、彼女は唸った。
「わたしが望むのはそんなことじゃないの」
そのまま勢いよく、美波は建屋を飛び出していった。
もう、追いかけない。
ゴシゴシと両手で目元をこするだけだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます