45. その願いはかなわない(2)

 だというのに、暗闇の中に、血飛沫は散らなかった。

 上がったのは呻き声。


 史琉は、カツンと靴を鳴らして退がり、片手で軍刀の柄を握ったまま、左手で右腕を撫でた。

 シロはゆっくりと顔を後ろに向けた。


「どんな感触なんじゃ?」

「大砲をぶん殴った時みたいだな」

「殴ったことがあるのか、あの鉄の塊を」

「若気の至りでね」

「なんと、まあ…… おぬしにもそんな時代があったとは」


 さらにシロは、体の正面も史琉へと向けた。倖奈の側には、斬られた背中が向けられる。


 月明かりがしろく照らすのは、傷一つない背中。小豆色の羽織もその下の鼠色の長着も襦袢も、ざっくりと切り裂かれているのに、なめらかでしろい肌。


 倖奈がじっと見つめる中で。

「やはり、斬られるだけでは死ねぬか」

 シロは一歩踏み出した。

 史琉は、退がる。


「死ねないなんて、人間じゃないんだろう?」

「そうじゃなあ。ヒトのまま――あるいはヒトに戻っていたならば、電柱に激突すれば怪我をするし、木の幹に潰されたら死ねただろう」


 なあ、と首を傾げて。


「死ぬことのない、ヒトでなくなった存在だよ、ワシは。人間が瘴気をかぶって、捻じ曲がった」

「……瘴気?」

「魔物を生み出す、ヒトの醜い心――とでも言えば良いかな?」


 クツクツと喉を鳴らして。シロは両手を広げた。


「魔物は人が生むんじゃ。ねたそねみ、やっかみ、ただ単に苦しい哀しいというだけでも、人はその身から魔物を生みだせる。

 何故、人が多く集うところに魔物が多く現れるか。この問いの答えは簡単じゃろう? 人が多ければ、悩みは多く、生みだす者が増えるということ」


 弾む声は収まらない。


「まあ、そういうものを被って、我が身も魔物と化して、七十年。そろそろ数えるのに飽いてきた」


 笑い続けるシロに、史琉は険しい顔を向けっぱなしだ。


「みずから魔物と名乗るのか」

「いやいやいや。もし、他に名乗れる言葉があるのなら、それを探したいのだよ。

 魔物の源であるところの瘴気は、この身から切り離したのだから、魔物ではなくなっているはずなのに、この体は人ならざるもののままだ」


――切り離した?


 あれ、と倖奈は瞬く。


「瘴気を被って以来、老いもせず――むしろ、見た目は若く幼なくなっていっている。人ならば、老いさらばえて、死と向き合うような年齢としなのに。

 この体ではたしかに血汐が燃えているというのに、ヒトではないとは困ったものだ」


 掌を月光にかざして、シロは溜め息を吐きだした。


「なあ。おぬしも聞いてくれるだろう?」

「俺も、なのか」

「倖奈は知っているから、なあ?」


 振り向かれて、瞬く。


「ワシの願いを、知っているだろう? とくと聴かせてやったではないか」


 もっともっと瞬きをしてみせても、シロは笑んでいる。

 風の音の合間に、史琉の溜め息が響く。


「聞かずには済ませんとでも言いたいんだろう、おまえ」

「そうじゃな、そうじゃな。よし、聴け」


 シロは手を叩き。

「わしは、死にたい。人として死にたい」

 嗤った。


 一度、目を細めてから。

「死にたいと軽々しく口にされるのは気に入らない――人間だったら」

 史琉は口の端をあげる。


「本当に魔物だったら、とっくにぶった切ってやってるさ」

「ほう?」

「魔物だったら、刀で斬れるだろう? 俺は今まで、いくらでも斬ってきた」

「うむ、確かに!」


 シロがもっと手を叩く。


「魔物でもない、ヒトでもない。一体全体、ワシは何なんだ」

「知るかよ」


 ちっと舌をうって、史琉が刀の刃を返す。


「どうしたらいいか、分からないじゃないか」

「うむ、悩む仲間が増えたな。嬉しいぞ」

「全然嬉しかねえ」


 溜め息が夜風に混ざる。

 轟々とうなる風は、二つに裂けたシロの着物も、史琉の外套も、倖奈の襟巻をも揺らす。


 そのなかで、何かがひっかかる、と倖奈は喉に手を当てた。


――シロはさっき、切り離したって、言った。

 先程だけでない。最初にアオのことを聞いた時もだ。

 だけど、と唇を噛む。


「ねえ、シロ」


 呼びかけると、彼はへらっとした顔で振り向いた。

 狐面で隠れそうになった瞳を、ひたと見つめる。


「本当に、瘴気を切り離したの?」


 ピク、と狐面を持つ指先が揺れた。


「瘴気だけを、なんてことができたの?」

「何故、それを問う?」


 向けられる視線がするどくなる。それでも、顔を背けない。


以前まえにあなたが、祀られる魂は和魂にぎみたま荒魂あらみたまがあると言ったわ。そして、荒魂すなわち魔物だ、とも。

 それとは別に、あの社の神主様から聴いたこともあるの。荒魂と和魂を分けるモノは『気持ち一つ』と……

 だから思った。どんなに相反することをしていても、荒れた部分と和いだ部分は分けられない。荒魂と和魂はひとつの中に同時に備わっていて、わたしたちから見える部分が違うだけだって」


 言葉を途切れさせないと、白い面は滑り落ちて、コン、と石畳とぶつかった。


「人だってそうじゃない。同じ人でも、荒れる時も和ぐ時もあるでしょう?」


 それならば、と唇を湿らせる。


「アオもシロも実は、おなじ存在なのではないの?」


 ぴたりと、シロは動かなくなった。

 そして、今更のようにしろい背中が、ぱっくりと割れた。

 くろい靄が立ちのぼる。


「倖奈! 逃げろ!」

 史琉の声。

「いやだ!」

 叫びかえす。


 とはいえ、何ができるわけでもない。


 伸びあがった靄は、宙返りをして、獣のかたちを成して、爪を伸ばしてくる。

 咄嗟に、両手で顔を覆う。

 掌に、チクン、という痛み。その瞬間の後に、横から突き飛ばされる。

 尻餅をついて、目をつむる。


「逃げろって言っただろう!?」


 バサリと外套が投げられた。それが倖奈の肩に引っ掛かったのを見届けずに、彼は走り出す。

 刃が走って、狐のような形のそれは、銅の部分から真っ二つに。

 風に流されて、その先でくっつこうとするのを、史琉が追いかけて止める。


「おい、待て」


 シロの声にぎょっとして振り向いた。


「それは今、ワシから出てきたか?」

「そうよ!」

「切り離しそびれ――ではないのか?」


 違う、とため息を吐く。


――あなたはまだ、その体に瘴気を宿している。


 じっと見つめていると。

 ポテっと、シロは地面に顔から倒れた。

 そのまま動かない。

 靄も昇らない。


「なんだ」

 戻ってきた史琉がくっくっと喉を鳴らす。

「斬られても平気な顔をしているのに、卒倒はできるのか。訳がわからんな」


 倖奈はもう一度瞬いた。


「さっきの、魔物、は?」

「斬ったら消えていったぞ。至って普通に」


 刀が鞘に戻っていって。


「それで? 何を知っているんだ?」

 問われた。

「シロのこと……?」

 頷かれる。


「難しい御託は止めてくれよ。俺は学校の勉強が嫌いなんだ」


 それにすこし吹き出してから。

 倖奈は首を捻った。


「わたしも、シロが言っていた以上のことは分からないわ。

 魔物なのは――荒魂としてのモノはあると思うの。でも、多分、いつもあなたたちが斃しているような小さな欠片とは全然違って。本当なら、社の中に奉じられるようなモノなのだと思うのだけど」

「だとしたら、こいつは八百万の神々の一つってことになっちまうぞ。怖ろしい」


 ひょいっと肩を竦めて、史琉は目を細めた。


「それなのに、死にたい、とはね……」


 二人とも、首を振る。

 つい、顔を見合わせた。吹き出すのも、同時。


「何がおかしいんだ」

「史琉こそ」

「……そっちは箸が転げても可笑しいお年頃なんだろ」

「子供扱いしないで」

「してないよ、失敬な」


 ひとしきり笑ってから。史琉は辺りを見回した。


「本隊のほうも、終わったかな」


 確かに、笛の音がもう聞こえない。

 月も動き、東の空が焼けはじめている。


 肩にかかる黒い外套が煽られたから、風は変わらずの強さだと知ったが。

 かあ、っと頬が熱くなる。

「あの…… 外套」

「寒いだろ、使っていろ」

 制帽を片手でおさえて、笑みを浮かべて。


「そら。帰るんだろう?」


 史琉は、よいしょ、とシロを担ぎ上げた。

 大柄とは言えない体躯、その肩に、プラン、とシロの両腕両脚が垂れる。


「おまえは色の宮妃殿下の邸として、コイツは?」

「一緒に帰るわ。放っておくわけにはいかないもの」

「……街中のただの御邸に放り込んでおいて、大丈夫なのか」


 倖奈は首を縦に振った。万桜は、『かんなぎ』なのだ、と。


――シロが『かんなぎ』の力で鎮められる存在なのならば。

 大丈夫、と。


 溜め息交じりに頷いて、彼は歩き出す。

 その隣について、はたと思い出したことに、肩を落とした。


「……黙って出てきちゃったから、そっと入らなきゃ」

「じゃあ、門前まで行ったら、こいつは叩き起こして、自力で進んでもらうしかないな」


 二人で、史琉の肩に担がれたシロを見遣った。当の本人は、不明瞭な声を口から零している。


「寝言かよ――どんな夢を見てるんだか」


 飽きれたような声にまた吹き出しそうになって、くるまっている外套の襟に、ひっそりと顔をうずめた。


 そこで、慣れない匂いに気が付いた。

 何故、と思って、考えて。


――史琉の匂い。


 たどりついた答えに、足が止まる。


「……どうした?」

 三歩先で止まった人に、首を横に振って見せた。

「なんでもない」

 そうは答えたけれど、頬が火照るから、顔をあげられない。

 前に進めない。


「ほら。早くしないと、女中さんたちが起き出しちまうぞ。バレる前に中に入りたいんだろ?」


 急かされて、どうにか歩きだす。外套の匂いが気になって仕方ない。

 そろりと前に視線を向けたら、運ばれて揺れるシロの手が見えた。


――あんなに近くに居たら、もっと気になっちゃう。


 話せるだけで充分嬉しいはずなのに、とぎゅっと目をつむった。


――わたしこそ、おかしな夢を見ちゃったら、どうしよう。




 *★*―――――*★*




 今度の縁談の相手は、おなじ年頃の職業婦人。決して端正な顔立ちではないが、華やかな笑顔の持ち主だった。

 二尺袖の着物に女袴を合わせて、颯爽と歩く姿。よくとおる声、ぶれない眼差し。

 そして、なによりも、男にもたれかからない姿勢が心地良かった。


 二人きりで会うのは、三回目。

 駅前の喫茶室で他愛ない話に興じるのは、気疲れも気苦労もなく過ごせる時間だった。


 皇都から延びてきた線路の北の果ての街。鎮台が座し、雪都の名を冠するこの街で、家庭をもつのも悪くない。


 そう思えてきた中で。

「でも」

 と、想い人は顔を曇らせた。


「わたしは、女としての幸せが欲しいんです。

 子供を産んで、育てて。当たり前を言われる家庭を作りたい――のですけれど」


 途切れた言葉に、瞬いてみせる。

 彼女は、両手の指を絡ませて、顔を伏せた。

 しばらく、そのままで。やっと口を開いて。


「いざという時、あなたは家族の元に帰ってきてくれますか?」


 まっすぐ投げかけられた問いに、苦笑いを返す。


「その問いかけは、火急の時に私が戻らないだろうと考えていらっしゃるようだ」

「ええ。だって」


 顔をあげた彼女は、あわい微笑を浮かべていた。


「きっと、家族よりも、軍務を優先されるでしょう? 国を護るため、人を護るためと言って」


 つい、きょとん、となった。


「あなたはご自分の夢しか見ていない」


 目を見開いて、動けなくなった。


「……柳津中尉?」


 呼びかけられて、やっと、息を吐き出せた。


「そりゃそうだ」

 つい、言葉遣いにぼろが出た。

「仕方ない。俺はそうしたくて軍に入ったんだし」

 構わず、笑う。


「夢を捨てるのは死ぬ時だ」


 襟元でひとつ輝く徽章を指先で撫でていたら、相手は目を丸くして。

 それから、首を振った。


「残念だわ。今の今になって、素の貴方が見られるなんて」

「幻滅しましたか」

「あら。もう戻ってる」


 くすくす、くすくす。

 軽やかなようで、湿った声だ。


「価値観をご一緒できなかったら、お互いに愛することは難しいと思うの。

 恋するには勿体ないくらいの貴方だけれど、愛し合うことは難しいわ」

「過分なお言葉、有難く頂戴します」


 立ちあがって、白い手袋を嵌めた手を差し出した。


「お送りさせてください――想い出にするために」

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