44. その願いはかなわない(1)
ふっと目が開いた。
体が動かない。ずしりと、何かが押さえつけてきているのだ。
必死に瞬く。
見える範囲は暗い。まだ夜更けだ。
だから、耳を澄ませて。
「おお、起きたか」
聞こえた声――上から降ってくるそれだけを把握した。
「……シロ?」
知っている名前を呟くと、聞こえるのがケラケラという笑い声に変わった。
「なんでわたしの部屋にいるの? どうして乗りかかっているの!?」
「夜這いじゃ」
「シロ!?」
「冗談じゃよ。おぬしを食ったとなったら、
ひいひいと喉を鳴らして、がさっと布団の上の影が動いた。
大きく息を吸う。腹が動く。
のっそり寝返りを打って、起き上がる。頬に感じた強い風に、眉が寄る。
暗闇の中、手探りで傍らの
ぼんやりと浮かび上がったのは、
びょう、びょう、と夜風が吹き込んできて、机の上の筆が畳に転がり落ちた。
そんな中で置き時計が示すのは丑三つ時。
シロはこの時間にも関わらず、鼠色の長着の上に小豆色の羽織を着て、白い毛糸の襟巻を巻いていた。足元も紺色の足袋。風に負けぬ格好だが、手元には変らず白い狐面がある。
首を振って、掛け布団を体に巻き付ける。
「何の御用?」
口許を緩め、彼は両手を広げて、それを耳の後ろに当ててみせた。
「耳を澄ませ」
首を傾げて、同じ仕草をする。
雨戸の外には風の音。それに混じる、少し高い音。ピイイイ、という音。
「軍隊の、笛の音?」
「そうじゃ」
「魔物が出たってこと?」
「他に何か考えられるか?」
首を横に振る。シロは手を叩いた。
「ほれ、行ってみるぞ」
彼が下駄をつっかけて、ひょいっと庭に降りると同時に、もう一回強い風が吹き込んできた。肌が粟立つ。
「シロ!」
とがった声より笑い声の方が大きかった。
「早うせい。わしは見に行きたいんじゃ」
「一人で行けばいいじゃない?」
「なんじゃ、嘆かわしい。おぬしは魔物がいるというのにぬくぬくと眠っているつもりか?」
一度唇を尖らせて、首を横に振る。
「行くわ」
立ち上がろうとして、眉を寄せて、きっとシロを睨んだ。
「着替えるから外で待ってて」
「外で? 寒いではないか」
「いいから、一度出て行って!」
掛け布団にくるまったまま這いずって、障子戸に手をかける。
「見ないでってば!」
「減るもんでなし」
「ふざけないでよ!」
ぴしゃっと庭と建屋を区切る雨戸を閉める。その瞬間、溜め息が飛び出た。
――年頃の娘が、紅も差さずにあちこち出歩いて。
万桜の言葉が頭を過ぎる。
急がねばという気持ちと一緒に、お洒落をしなきゃという切迫感がある。
綿入りの紅の襦袢の上に、小花柄の小袖を着て、朱色の帯を締め、深緑の袴をつける。 肩上までしかない髪にはリボンを飾る。最後、狐毛の襟巻で首から肩にかけてを覆った。
電球を消そうと
今度やっぱり手袋を買おう、
乾いた真冬の夜空。月の光は、人の足元まで照らしたり、雲に遮られたり、忙しい。
風は容赦なく熱を奪い、宙へと舞い上げようとする。
目を細めて、それに逆らって。
長く続く笛の音を頼りに通りを行けば、ほどなく濃紺の軍服の一団が見えてきた。
笛がひときわたかく響く。赤い光が天へ昇る。
それから、二十人ほどの小隊が西へと駆け抜けていく。
「また、魔物が散らばったか?」
ふむう、とシロは顎を擦った。
「それとも、何カ所も同時に湧いているのかのう。そうだとしたら厄介じゃな」
笑う彼を一瞥してから、見回す。濃紺の一団から飛び出してきた書生姿に目を瞠る。
「
呼んで、走り出すと、彼はすぐに振り向いた。
「何をしているんだ、おまえは」
「軍の笛が聞こえたから」
傍で止まって、見上げる。
指して大きくない体躯の『かんなぎ』の青年。時折月に照らされるその小袖と袴は、今宵も皺一つない。
背後を小隊ががやがやと走り去っていく後も立ち残って、倖奈を見下ろしてくる。
「鎮台に住まっているわけでもないのに。大人しく家に居ろ」
「嫌よ」
唇を尖らせて見せると、常盤の一重の瞳も鋭くなる。
「花を咲かせることしかできないくせに――魔物を消すのは俺の役目だ」
言葉も瞳も、暗い中でよけいに眩しい、と笑んだ。
「ねえ、常盤。今はどんな状況なの?」
「良くはないな。魔物が広がり、今はまだこの通りに留められているが」
と、彼は辺りを見回した。
一際大きくそびえる桜の木と、それと並ぶツツジの列。塀が続く通り。一つ一つの敷地の広い家が立ち並ぶ、昔からの光景。
「むしろ、ここに留めておくと面倒になるんじゃないのかのう?」
シロがひょこっと顔を出す。常盤の顔がみるみる歪んだ。
「今のままでも、討伐に時間がかかり過ぎだだの、音と声がが大きいだの、
くかか、と口を広げたシロをにらに見つけて、常盤は下駄を鳴らす。
「さっさと終わらせてやる。任せておけ」
残っていた小隊の囲いの中に、常盤は袖を翻して飛び込んでいく。
そしてまた迸る赤い光。常盤の、魔物を祓う焔だ。
溜め息を零す。
「シロ」
相手の長着の袖を摘まんで、爪先だって
「脇に避けてよう、ね?」
「何故」
ぷっと頬を膨らませて、目を細められて。それでも顔を上げる。
「邪魔になっちゃう」
「わしらも魔物を相手どればいいんじゃろ」
「常盤の出番を取っちゃ駄目」
「同じ理屈で、わしらにも活躍の機会を……」
ぎゅっと睨む。シロは一度息を切って、肩を竦めた。
同時に地面が揺れる。辺りが赤く照らされる。見向けば、黒い影が焔に呑み込まれていくところだった。
「常盤は魔物を退治できるから」
「おぬしにはできぬ、と言わんばかりの口ぶりじゃのう。あの
目を剥く。見上げる。シロはニヤニヤしている。
「まあ、わしも『見に行くだけ』と言うたしのう」
どん、という音とともに体が浮く。風が吹き抜ける。黒い靄が流れ、また一つ小隊が走り抜ける。
「ほら、邪魔になっちゃう!」
破れるとの抗議を無視して、袖をぐいぐい引いて、塀沿いへ。えい、と桜の木の枝が覆いかかる塀にシロを突き飛ばしたところで。
視線が絡む。
「
「……よう」
塀に背を預けて立っている人が、片手を上げた。
倖奈は指先まで動けない。睫も震えない。
彼は、ひらりと手を揺らした。夜陰に溶け込む、黒い外套と濃紺の官帽。腰に下げられた軍刀が揺れて、革靴の踵が鳴る。
「相変わらずだな、おまえも、シロも」
「なんじゃ、おぬしは仕事じゃないのか。なぜ隅っこに控えておる」
「今そこにいる部隊は第九部隊だよ、俺のところじゃない」
「では、何故
「ちょっと、ね」
首を傾げた彼の隣には、第五部隊の副官――
「二人しかおらぬとは不穏じゃのう。何をしている」
シロの言い様に、律斗の顔が険しくなる。一歩踏み出かけた彼の前で手を振って、史琉は静かに言った。
「野暮用だよ」
すっと目を細めて、じろりとシロの全身を見遣ってから。史琉は倖奈を見向いてきた。
微かに上がった口の端が綻ぶ。
「随分派手な格好だな」
白い手袋の指先が示すものを察して、倖奈は自分の首元に手をやった。
「これは。万桜様からの頂き物で」
ふわり、狐毛の襟巻が爪に絡む。視線が下がる。
史琉はゆっくりと首を振った。
「冷えるからな。暖かくしておいたほうがいい」
それからまた視線が動く。小隊の方へ、と。
また常盤の焔が渦巻く。 靄が流れる。 笛が鳴って、軍靴が石畳を打つ音が動く。
「ああ、移動するのか」
すっと塀から背中を離して、史琉はごちた。シロはひょいひょいと通りへ出る。
「追いかけるかのう?」
通りの向こうに消えていく一隊と常盤から視線を外して、シロが笑う。
「野暮用ついでに行くんじゃろう?」
鬨の声が遠ざかると、周りは途端に静かになった。
風がシロの襟巻をなびかせる。両手で自分のそれを押さえてから、倖奈は二人を見た。
史琉は苦笑い。律斗は仏頂面で、それでも踏み出す。今度は止められない。
こつん、と踏み出した後。一気に鞘が抜きはらわれる。
切っ先が向かうのは、シロの真後ろ。
「ぬあああ!?」
シロが叫び、転がる。
「おお、まだおったのか」
貫かれた靄が消えて、次の塊が浮く。
ふわふわり、風に流されるように踊って、桜の幹に何度も当たっている。
「討ち漏らすとは、困ったもんじゃのう」
幹に手をついて、シロが見上げると、塊はその顔をめがけて滑り落ちてくる。
「御託はいいから、退け!」
律斗が刀を走らせる。風が唸って、木々の葉が舞う。
みしり、という音が響く。
ぱらぱら、と土くれも舞う。
「え?」
ひく、と頬が動く。
「下がれ!」
ぐいっと腕を掴まれた。
簡単に体が浮く。
目の前を、太く固い枝が横切っていく。
どおん、と音が響く。
「魔物にぶつかったくらいで倒れるものか!?」
舌を打ったのは律斗だ。
「根が腐っていたのかもしれないだろ――知らんが」
溜め息は史琉だ。
倖奈は、へたりと腰を落とした。
「シロ、は?」
轟、と風が唸り、雲を払う。
月影の下で、太い幹に潰された何かが見える。
「シロ!」
叫ぶ。体が前に動く。
その目の前を靄が横切っていく。フワフワと、それも西へと向かっていく。
「律斗」
史琉の声が聞こえた。
「追いかけろ」
「そっちは?」
「どうにかなるだろ」
がん、と革靴を鳴らして、律斗が走り去っていく。
音だけでそれを思いながら、倖奈は地面に転がった幹に両手をかけた。
「シロ!」
押す。びくりとも動かない。背中と腹を、汗が冷やしていく。
「……少しずらしてくれるだけで、抜け出せそうなんじゃよ」
微かな声が聞こえて、目を剥く。
「シロ? 大丈夫?」
「すまんが、もうちょいこれを押してくれ」
掌に木の皮が刺さる。ぎゅっと目を閉じて、腕に力を込める。
ず、と少しずれただけで。
「ああ、助かった」
そう言って。幹の下で潰されていたはずの影がゆらりと立ち上がった。
冷たい月光の下に、シロが真っすぐに立っている。羽織も毛糸の襟巻も、白い狐面も、土埃まみれだ。
倖奈は息を吐いた。両の掌を見れば、ぷつぷつと赤い斑点が出来ている。ぺろりと舐めれば、苦かった。
それでも。あなたは平気、と問いかけて。
シロの後ろに史琉が立つのを見た。
「……助けようか、と思ったんだけどな」
ひくく、かたい声。
「以前に、車が電柱に突っ込んで潰れた時も、あんただけは無傷だったな」
彼らしくない、声。
瞬く。
制帽の下で、眉が吊り上がる。キン、と腰の軍刀が抜かれて、大上段に振りかぶられる。
「止めて!」
何をと叫ぶ間もなく、振り下ろされる。
それで、シロの背中が切り裂かれるはずだった。
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