43. 分けるモノは何?

 西に傾き始めた陽がスギの林を照らす。朱色の鳥居は真っ直ぐに立っている。

 鳥居と拝殿を繋ぐ参道では、少なくない人が行き来していた。白い砂利の敷き詰められた、程よい広さの境内は、子どもの遊び場に戻ったらしい。鞠が弾む。羽根突きが続く。小石が蹴上げられる。

 冬の、穏やかな風が吹く。


 白と黒の千鳥柄の肩掛ショールの下で菫色の袖を揺らす。手首では、梔子色の巾着が揺れる。苔色の袴の裾も、編上靴の音に合わせて、揺れる。肩の上で、髪が跳ねる。


 拝殿の脇に見つけた、伸び盛りの子どもたちに囲まれた男性に、足音たかく近寄った。

「こんにちは」

 硬い声音に、彼は、のほほんとした表情をすぐに引き締めた。

「何の御用で。また取材ですか? もう、魔物は出ませんってば」

 此処に来た二度ともに顔を見たこの社を祀る神主だ。汚れのない白の小袖に紫の袴を着た彼は、じろじろと見遣ってきた。

「その、魔物のことで、伺ったんです」

 倖奈ゆきなが応じると、視線が一等険しくなる。


「やっぱり、また取材なんですか。もう何もないって言ってるでしょう。帰ってくださいよ、これだから記者って人たちは」


 甲高くなっていく声に、周りにいた子ども達の顔は強張っていく。倖奈は首を横に振った。


「わたしは記者じゃないです」

「じゃあ、何」

「鎮台の【かんなぎ】です」

「軍の調査? もっと勘弁してもらいたいな!」


 幼い女の子が神主の袖を引く。別の子が袴を握る。

 倖奈も、自分の袴をきつく握りしめた。


「その、軍も、関係なくて。わたしが勝手に――」

「じゃあ、尚更帰って!」

「本殿の中を見せてもらうだけでいいんです!」

「見て何になるの。それこそ、魔物に襲われますよ」


 ふふん、と鼻で笑われて、倖奈はむっと唇を突き出した。


「襲われる心配があるということは、本殿の中に魔物はいるってことなのね?」

 すると彼はうっと詰まった。

「魔物、いるの!?」

 叫んだのは子どもの一人だ。

「あ、いや、そんなことは……」

 彼は、あおい顔で後ずさる。ちくん、と胸が痛む。

「ごめんなさい」

 腰を折って、顔を上げて。視線がふらつく男を見つめる。

「本殿に上がらせてください。その――気になることが、あるから」


 男が眇めて、見てくる。真っ直ぐに受け止める。

 はあっと息を吐いて、今度は彼は首を振った。

 視線がぐるっと子ども達を巡って。

「遊びはおしまい!」

 言われると、えーっという声が上がる。

「また明日!」

 宣言に、子ども達は渋々散らばっていく。そのまま境内を駆け出ていく子もいれば、まだ注連縄の張られた木々の隙間を巡っている子等もいる。


 その彼らに見回してから、神主は倖奈に向き直った。


「……本当に、【かんなぎ】?」

 じろじろと、強い目つきだ。ぎゅっと背筋を伸ばす。

「そうです」

「証拠は?」

「証拠?」

「何かないの? 鎮台の所属だって書いてあるような何か」


 ぱちくり、と瞼を動かして、あ、と叫ぶ。

「これは?」

 巾着から、掌より少し大きい手帳を取り出す。

 秋の宮が書いてくれた、通門証。

「本当だ。すごい」

 手帳を日に透かした彼の、ほうっという溜め息が聞こえた。


――鎮台の中に入る以外でも役立つなんて、本当すごいわ。


 返された手帳を仕舞い、巾着の口をぎゅっと絞ってから、神主に向く。

 改めてみると、さして若くない男だ。目元にも手の甲にも皺が目立つけれど。

「それで」

 と言う早口は、やっぱり甲高い。


「拝殿の中を見たいって、至って普通の社だけど」

「ええ。祭壇が作られていて、そこに御神体と注連縄と、捧げものがあるの」

 半眼の神主の顔をまっすぐ見つめ返して、頷く。

「その御神体――鏡の中に魔物がいるわ」

 向けられる視線がまだまだきつくなる。深緑の袴がぐしゃぐしゃになるのに気づきながら、それでも両手の力は抜くことができずに、さらに唇を動かす。

「二度、見たもの」

「いつ」


 ええと、と少し視線を彷徨わす。


「二度とも秋の事よ。最初は、貴方が拝殿で祈っている最中に飛び出してきた。二度目は…… ごめんなさい、わたしが勝手に拝殿に上がってしまった時に、見てしまった」

「え……」

「鏡から飛び出してきたのよ」

「マジで!?」


 神主があおくなる。


「そ、それで無事でいたの!?」

「だって、すぐ鏡に戻っていってくれたから……」


 そうだ。それをもう一度見たいのだ、と自分で頷く。



 煩いのは嫌いか、と。

 そう問いかけたら消えていったのだ。

 その真意を問いたい。

 聞いたら、何かが分かりそうな気がする。



「だから、その、鏡に、会わせて」

「魔物に会わせてって、変な話だよ」


 ブツブツ言いながらも、神主は拝殿の階を登って、手招いてくれた。


「知っているんじゃ仕方ない」

 こつん、編上靴ブーツが板を鳴らす。

「そのまま、脱がないでいいよ」

 溜め息交じりの声に、ほっと息を吐いて、社の中へ上がる。


 夕暮れの風が吹き込んでくるそこは、ひんやりと落ち着いている。

 神主と倖奈が入っていった後ろから、お詣りの誰かが鳴らした鈴の音が聞こえてくる。

 家路につこうという子ども達が互いを呼ぶ声も。

 奥には鏡。

 ゆらり、黒い靄がそこの面を横切っていったが、それだけだ。


 ほっと笑って、倖奈は鏡の前に立った。

「今日は出てこないのね」

――こういう中が好きだから、ゆっくり眠っていられる。


「満足?」

 頷いて。

 袴を握っていた手を、そろり上げる。胸の前できつく握りしめる。


「あなたは、ここに居るのが魔物だって知っていて、仕えていたの?」

「魔物というか――荒魂、ですよ」


 さらっと。

 ともすると聞き流しかねない軽さで。

 神主が言うのに、倖奈は勢いよく振り返った。


「今、荒魂って」

「んあ? 言いました…… けど?」


 相手の方は、目を丸くして後ずさりかけている。


「けど、けど。ああ、もう、忘れてください!」

「それ、シロも言っていた」

 最初に訪った時の科白だ。


――祀られる魂には和魂と荒魂とあってなぁ。ここは荒魂。早い話が、魔物。


 思い返して、唇を噛む。

――ここで祀られているのは荒魂。

 眉を寄せる。

――秋に現れた魔物と、ここに祀られている魂は同じ存在だった。本当に、荒魂とは魔物のことだって考えていいの?


 そして、その魔物を生むのは人間だとも、シロは言った。

「だけど」

 と呟く。

「魔物を、荒魂を鎮めるのも、人間なの?」

 眉を寄せる。


「魔物を生むのと、鎮めるのと。荒魂と和魂を分けるモノは何?」

「そんなの気持ち一つでしょ」


 すぱん、と言い切った声にさらに目が丸くなる。

 神主はまた、しまった、という表情をした。だが、すぐに肩を竦めて、半端に笑う。


「天神様なんか分かりやすいじゃないか。普段は人が学問を修める手助けをしてくれるけど、一度荒れると、嵐を呼んで雷を落とす。

 分霊は繰り返されているから、あっちこっちに分社があるけどね。神霊は無限に分けることができるものだから」

「でも、一つの存在だから、分かたれない。どんなに相反することをしていても、荒れた部分と和いだ部分は分けられない」

「そう。そういうこと」


 ふんふん頷く神主から視線を外して。もう一度鏡に見向く。


 曇りなく輝いている。ゆらりぎった影は、何も起こさない。


 強張りの解けた両手を合わせて、目を閉じる。

 しゃらん、という鈴の音を聞いて、顔を上げて。

 神主に頭を下げる。


「……これでいいの?」

「ええ。大丈夫です」


 はっきりと答えを聞いたわけではないけれど。

 ただ、人間は、同じ人間を故意に奈落へと突き落とすことができる生き物らしい、という感覚と同時に、互いを支えあっているのかもしれないという感覚が沸いている。


――明日、泰誠たいせいに謝ろう。


 素直に気持ちを受け取れなかったことが、今も苦しくて仕方ない。


――シロはやっぱり怖いけど…… ううん、なんとかするのよ。


「ありがとうございます」

 きっちり腰を折って、頭を下げる。

「ああ、うん。役に立てたなら、良いです」

 ぺこりと返されて、つい吹き出す。



 軽い足取りで境内を出て、路面電車に乗り込む。

 電車を降りる頃には、すっかり暗くなっていた。

 小走りで、今住まう邸への道を進む。



 そして、玄関を潜って、驚いた。


万桜まお様」


 上がってすぐに立っていた、師匠であり養い親である老女を、黙って見上げる。

 乾涸びた躰だ。鎖骨が浮き出た首元、蒼黒い血管が浮き出た手の甲、どこもかしこも乾いて皺だらけだ。

 だが、纏った紬の着物は全く崩れておらず、目元は凜と引き締まっていて。

「倖奈」

 ひくい声に、びくっと身を揺らす。


「遅い帰りでしたね」

「……はい」

「鎮台に電話をしたら、まだ部隊は出て行っていると聞いたので、それに同行していたのかと思いますが。暗い道を一人で歩くものではありません」


 小さな子供に言い聞かすように。万桜の硬い声は続く。


「貴女はまだ、嫁入り前なのですよ。年頃の娘が、紅も差さずにあちこち出歩いて。『かんなぎ』としては仕方ないことではありますが」

「化粧はしたことがないです」

「そうではない。わたしは貴女が無事でいられるかどうかの話をしているのです。魔物とは戦えても、よこしまな輩にはそうもいかないでしょう」

「ごめんなさい」


 ああ、まただ、と考える。

 人を思い遣る人もいれば、傷つけようとするのもいるのだ、と。

「気を付けます」

 頭を下げる。溜め息をついて、厳しい師匠は微かに笑んだ。

 倖奈も笑みを浮かべる。


「万桜様、今日はお加減は大丈夫ですか?」

「そんな伏せってばかり、いられませんよ」

 夕食時だ、食堂に向かいながら、万桜が言葉を継ぐ。

「かといって、私も本当に先は永くない。早く、貴女と美波の将来を整えなければね」

 ゆるり、振り向いた師匠はこともなく。

「縁談も、一つの手と考えないとね」

 そう言った。




 *★*―――――*★*




「縁談?」


 司令官室で大きな机を挟んで向かい合って。

 きょとんとして見せたのに、相手は重苦しく頷いた。


「まあ、長官子息ともなれば引く手数多というわけだな」

「冗談でしょう。俺は養子ですよ? もとは何処の馬の骨ともしれないのに」

「だが、この柳津の息子だぞ」


 妙に自信満々に言い切られた事に対して、眼鏡を押し上げることで応える。

 対面に座る、北方鎮台の司令官は、長い溜め息を吐き出した。


「見ろ、この釣書の量」

「一つじゃないんですか」

「引く手数多だと言っただろう。無事に士官学校も卒業して、順調に中尉まで昇進して、ゆくゆくは部隊長――もしかしたら皇都への栄転も叶うかもしれない身とあれば、放っておくお嬢様などいはすまい」

「そういうあんた自身が独身じゃないか」


 場所が司令官室――仕事場だというのを理解しつつ、うち向きの言葉を吐くと、相手も破顔した。


「まあ、五十路を越えた爺に縁付きたい若い娘などいないだろう」

「俺と縁組する前は、外聞を気にしないお嬢さんが群がったって聞くけど」

「だから、爺に用は無くなったんだよ! おまえは俺の息子だろう!? おまえに縁談がじゃんじゃん飛んでくるんだよ!」

 ちっと舌を打たれた。

「ヤキモチ、みっともねぇぞ」

「うるさい! おいしいトコロを持って行ってからに!」

 こちらも舌を打つ。


「おいしいかどうかは別として…… 柳津少将の面子を潰さない程度に会ってきますよ」

 言葉遣いを戻すと、机に肘をついた少将は重々しく頷いた。

「私だけでない。おまえ自身の評判に、この先に関わるから、心して対応するように」

 首を振って、もう一度釣書に目を向ける。


 良妻賢母の素質を訴えるそれらに、苦笑いが浮いてくる。

 己のことは、相手にどう伝わっているのだろうか。素質より何より、変り者の出自を受け入れてもらえるかどうか。


――名前が二度変わってるのも伝わってるのかどうか。


 そちらの方が気になる。

 三つ目の苗字になって、三年。これにも慣れた。


――これが一生涯の名前になるといいけどな。


 吹きだして、官帽をかぶりなおして、中の一つを手に取った。

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