41. “人間”を見ろ
立ち上がったシロは、ひょこひょこと縁側を進んでいって、角で振り返ってきた。
「行くぞ」
「どこに?」
「わしの書斎じゃ」
「そんなところがあるの?」
「待って…… 待ってよ、帰ってきたばかりなの」
「では、庭で待っているとしよう」
裸足のまま庭に降りたシロに息を呑み、走って自室へ。
いつもの巾着を放り出し、ずんだ色と評された道行は脱ぎ捨てて、珊瑚色の着物のまま引き返す。
――せっかくの着物が汚れてしまうような場所ではありませんように!
倖奈が追いつくと、シロは悠然と、敷地を北に突っ切っていった。その先は白い壁の蔵だ。
夕陽に照らされていても、忘れがちな存在を前にして。
「入ったことはあるか?」
「……ないわ」
首を横に振る。
「幼い時分はここに住んでいたというのに?」
「だって、ここに蔵があるなってくらいにしか思っていなかったんだもの。
ほう、と笑うシロの横で、そうかと呟いた。
ここは居ないことにされている屋敷の主の書斎だったのだか。いくら美波がねだろうと入れてもらえないわけだ。
荒らしてはいけないという優しさか、隠しておきたい、忘れてしまいたいというやましさからかは、分からないけれど。
扉にかかっていた錠前は、シロが鍵を差し込むと、がしゃん、と落ちた。
軋んだ音を立てて、戸が動く。
屋根間近にある明かり取りの窓では力不足らしい。中はあまり見通せない。
「ランプがいるのう」
「風も通したいんだけど」
同じように口を尖らせて、二人で踏み込む。床にはくっきりと足跡が付くほど、埃が溜まっている。
「出直すか」
シロが言うのに、キッと振り向いた。
「あなたが此処に来るって言ったんじゃない!」
「そうは言っても、なぁ。ワシもここまで悲惨なことになっているとは思わなかった」
この少しの会話だけで、喉がひりつく。
「長居したいか?」
「厭だ」
でも、と眉を寄せると、彼は肩を竦めた。
「確かに何の収穫もなしに帰るのも癪だのう。一冊だけ持って出るか」
シロは一番手前の山にあった一冊を抜き取った。
ばさばさばさっと紙の山は崩れ、埃が舞い上がる。視界が白くなる。
げほっ、げほっ、と二人で咳き込む。
「か、帰るぞ!」
飛び出して、大急ぎで扉を閉めた。
「掃除をしてもらわねば……」
戸に手をついて項垂れるシロを、じとっと見遣る。
「自分でしたらいいのに」
「厭じゃ」
「我が侭ね」
はあ、と息を吐いた。珊瑚色の着物の裾を叩く。
――そこまで汚れていない……よね。
二人でまた庭を引き返す。
途中で、冊子の頁を捲りながら歩いていたシロが笑い出した。
「どうしたの?」
「いや、適当に抜いたつもりだったが…… 大当たりじゃった」
「そうなの?」
横から首を出すと、ひょいっと退けられた。
開いた冊子を頭の上に掲げて、シロはにゅっと唇の端を持ち上げる。
「見たいか?」
「気になるもん」
そうかそうか、と彼は喉を鳴らす。
「では、倖奈。ちょいとおさらいをしようか」
ぱんっと帳面を閉じて、シロは首を傾げた。じっと見つめられて、足を止める。
「ワシが何者かは――話したよな?」
忘れるはずがない、と頷く。
本人いわく、色の宮と呼ばれていた驕った男、だと。
「かつてのワシが思ったのは、何故、魔物なんてものがこの世にいるのかということだった」
「聴いたわ」
頷いて見せる。
シロの笑顔が夕陽に映える。
「魔物は瘴気の塊。その瘴気は人が産む。だから、人を苦しませて、怒らせて、怖がらせて、わざと荒れさせて、瘴気を生み出させて、掻き集めてみた結果、ワシ自身が魔物になった」
な、と首を傾げられ、もう一度頷く。
「覚えているわ」
「して、この冊子は」
と、シロは手に持つそれを改めてぱらぱらと揺らした。
「その後、瘴気を人の身から切り離さんとしていた時のワシの覚書じゃ」
「アオが生まれた時のってこと?」
「いや、もっと古い。アオを生むに至った瘴気を作る時の話。……見たいか?」
シロの笑みが深くなる。
「おぬしにこれが読めるか?」
肩が揺れた。瞬く。口の中が乾いていく。
「年若い、苦労のなかったおぬしに、人の苦しみを直視できるか?」
必死に瞬きを繰り返していると。
「例えば――」
と、シロが間を詰めてきた。すっと手を取られ、組んでいた指をひとつずつ解されていく。
「この可愛らしい爪を一枚一枚剥がしていったり」
反対の手が腰を抱く。
「細い体を水に漬けてふやかしてみようか――すると肌が破れる」
唇を耳元に寄せられる。
「髪の毛でもって体を吊ってみようか。如何におぬしが小柄と言えども、どうかな」
背中を震えが駆けあがる。喉を悲鳴が飛び出しかけた時に、突き飛ばされた。庭の土の上に転がる。
「無垢――だのう」
けたたましい笑い声。
「もっと人間を見てみろ。醜いぞ。絶望するぞ?
それでもまだ、魔物は消したいと言い続けられるか?」
呆然と見上げていると。
「わしは、人間として死にたいと思っているが――な」
にゅうっと口の端を曲げて、白い狐面を振って、彼はさっさと立ち去っていった。
動けない。
着物はすっかり汚れてしまった。
*★*―――――*★*
薄暗い毎日の中で、それを見かけた時だけは心が浮き立った。
「軍の部隊だ」
誰かが言うのを聞き逃すことはない。そんな時は、大通りに走っていけば、間違いなく見ることができたからだ。
揃いの軍服を纏った一団。その先頭には桜星の旗。徒歩だったり乗馬だったりの差はあれど、皆がぴんと背を伸ばし、進んでいく。濃紺の一式は、晴れた日にも曇り空の下でも、降り積もった雪の中でも一等華やかで。
見つめることに、飽きはしない。
その日も、通り過ぎるまでずっと立ち尽くしていたら。
「なんだ、てめえも憧れるクチか」
この数カ月、共に働いていた大工の男には笑われた。
むっとなって見上げると、手をひらり振られる。
「止めとけ止めとけ。威張りくさっているだけの仕事だぜ」
「そうかなぁ」
――堂々と魔物を
腰に下げた軍刀も、鍛えられていると分かる大きな体も、全て、すべて。魔物から人間を護っている証ではないか。
入隊の試験を受けられるようになるのは、十七歳になってから。その日を迎えるとすぐ、希望を出しに走った。
甲種合格との通知を受け取った時、快哉を叫んだ。
それを同居人の顔面に突きつける。
「俺は軍人になるんだ」
途端、彼女の顔がくしゃくしゃになった。
「なんで」
ぼろっと大粒の涙が落ちる。肩が震える。
「なんで、他人のために戦うなんてことをするの」
声も揺れているのを分かっていながら、ことさら胸を張った。
「誰かが戦わなきゃ魔物はいなくならないんだぜ?」
「でも、なにも、あんたがやらなくたって」
「俺が決めたんだよ、うっせえな!」
叫び、十二の時から過ごした長屋を飛び出した。
泣いてばかりの養母、それに引き込まれるように安い仕事で身を削るようになった自分。
新しい毎日を生きるのだ。それも、憧れの職で。
期待は大きかったのだけど。
入隊初日。兵舎の玄関の前で、ずらっと横一列に並ばされた。
年は皆同じ十八だろうか。濃紺の服は、そろって肩がずり落ちていて、格好悪い。
その一番右に立った。
正面には、四十路だろう男が二人。背が大きいと小さいの違いはあれど、二人とも分厚い胸を張って、丈の短い袖から太い腕を覗かせていた。
筋張って、硬そうな、腕を。
「おめでとう諸君」
手前に立つ、小さい方が声を張る。
「晴れて皇国陸軍北方鎮台の一兵となった諸君にはこれより、民草を魔物から逃がすための力を手に入れるべく、全力で取り組んでもらう。まずは――」
目配せののち、大きい方が一歩踏み出した。玄関の側に立てかけてあった竹箒を手に取って、のっしのっしと近づいてくる。
目を丸くする。
「歯ぁ食いしばれェ!」
瞼を下ろす暇は無かった。竹箒のささくれ立った房が、ぐん、と顔に近づいてくる。
自分の気持ちとは関係なく、体が横に倒れる。隣の少年にぶつかって、その彼がまた隣に体当たりして、まもなく全員が横倒しになった。
右のこめかみがぬるぬるする。血だ、と見ずに理解して、ぞっとした。
「これくらいで倒れるとは言語道断!」
大きい方が叫ぶ。小さい方が溜め息を吐く。
「その場で腕立て伏せ! 全員起立!」
呻き声が返る。また竹箒が振り下ろされる。
翌朝も竹箒の一撃から始まった。この時に一本目が折れた。
東の空が赤に染まる中、全員で走る。
「全力で走れ! その程度で魔物を捕まえられると思うな!」
誰かが、転んだ。竹箒がその背中を打つ。
「立て! さっさと立て!」
悲鳴が響く。
「もう走れない、はずはない! 立て!」
とっくに息は上がっている。
二本目の竹箒が折れる音を聞きながら、必死に前を向いて腕を振った。
疲れ果てて、食事も喉を通らなくなった、十日後。
「一人足りないな」
ぽつん、と呟かれた。
知っている。気が付いている。自分の隣に立っていた顔が違うのだから。本当なら、今隣に居る少年と自分の間にもう一人いるはずなのだ。
「いつ、いなくなった?」
下を向く。
「いつだ!?」
ぶん、と十何代目の竹箒が飛んでくる。口の中に錆びた味が広がる。
「さ、先ほどの食事の後であります」
答えたのは――堪えられなかったのは自分ではない誰か。
すると、小さい方も大きい方もくるりと踵を返す。
立って待つこと暫し(誰も逃げ出さなかった)。大きい方が、長く太い丸太を担いで返ってきた。
それを全員で抱えろ、という。並んで腕に抱えると、鋭い声で。
「連帯責任だ! そのまま一晩立っていろ!」
まだ雪が降る季節なのだ、とぼんやり思った。
肩にはらりはらり積もっていく。だんだん冷たく分厚くなっていく。冷えていくのは体だけではない。
そんな日が続いていくうちに、ふと。竹箒の姿も見なくなった。並んで立つ仲間は半分に減っていた。走らさせてヘトヘトになることは変わらないが、頬が腫れていない仲間の顔に違和感を覚えた。
そして。
「全員、整列!」
兵舎で一番偉い部隊長が叫ぶ。二百人がずらっと縦隊を組む。
新緑の森の中を抜けてやってきたのは、黒塗りの自動車。
「北方鎮台司令官殿の到着である! 一同、敬礼!」
右手を挙げた全員を見回して、自動車から一番最後に降りてきた彼は笑った。一段高い位置に立った時には、その襟元の徽章が陽の光を弾く。
「日々の訓練、ご苦労である」
などと、当たり障りのない話は、全く頭に残らない。ただ、鷹揚に笑うその人に少しだけ腹が立った。
――あの人も、笑いながら部下を叩くのかもな。
訓示が終わると、縦隊の前に立つ班長達に一言ずつ声をかけて歩いていく。
小さい方の前に立った時、司令官殿はゆっくり笑った。
「今年の新兵達か。なかなか良い顔つきではないか。怪我もなくやっているようで何よりだ」
「勿体ない言葉であります、
「指導が良いのだろう。何より何より」
そんな遣り取りを呆然と見遣る。
後ろに立った仲間が、ぼそっと呟いた。
「あいつら、司令官殿に褒められたいから殴るの止めてたんだぜ。きっと」
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