『その背中に追いつきたい』
38. 将軍閣下は逃げ出した(1)
見渡す限り、赤い。
沈む夕日の色、家を呑みこむ炎の色、そして体から流れる血の色だ。
その色を切り裂いて目の前に現れた人に笑った。
「ぼさっとしていないの!」
怒鳴られる。
「だって、怖いよ。逃げられないよ」
震える声で、足の裏が地面に吸い付いて離れないのだと訴えたら。
「莫迦なことを言ってないの!」
頬を張られた。
「本当に、ダメな子なんだから!」
ズキンズキンという痛みが消えないうちに、手首を引かれ、走り出す。
だが、いくらも行かないうちにまた立ち止まった。
正面には、黒い影。大きく開いた口。
勢いよく伸びてきた牙は、この身に届かなかった。何故なら、覆いかぶさってきた人がいたから。
限界まで目を開く。
己を抱きしめたその人は、頭や背中を削られながら、それでも笑っていた。
その唇が、細い息を吐き出す。身が崩れ、倒れかかってくる。
「厭だ」
叫ぶ。
「厭だよ!」
かっと顔が熱くなった。その頬を、肩を、ぬめったものが流れていくのを感じる。赤く染まった体を、肉片をぐしゃぐしゃに叩く。
「いい子になるから!」
鮮血が、視界を赤く染める。
「もっといい子になる、勉強だって手伝いだってなんだってするから、だから――」
*★*―――――*★*
「これはいったい、どういう有様なんだい?」
秋の宮は、扉に手をかけたまま、声を上げた。
北向きの窓の外は真っ暗。だが、電灯があったおかげで、狭くない部屋の中も
一人はうっそりと長椅子からその身を起こして、とろんとした目つきで睨んできた。
「見苦しいところをお見せしまして」
「うん。とてもそう思っているとは感じられないよ、
ねえ、と声をかける。彼は頭を振った。
制帽は被らず、髪はぐしゃぐしゃにもつれている。肋骨服は脱いでしまったようで、白いシャツ一枚。それさえも前がはだけられて、厚い胸板が覗いている。
しなやかに鍛えられた体躯とは裏腹の、力ない視線。
長椅子の背もたれに乗せられていた腕からふっと力が抜けると同時に、彼はまた椅子に寝転がった。
「大丈夫?」
問いかけても返事のない少尉から、長椅子の前の小さな
「それは何?」
溜め息混じりに言いながら、さらに視線を動かす。それでようやく、窓を背にした椅子から、部屋の主が立ち上がる。
「
こちらも、制帽は机の上に放りだし、肋骨服も脱いだ姿。寒くないのかと思いながら、きっと睨む。
「鎮台での飲酒は禁止のはずだよ」
「心得ています」
くくっと笑われた。
「まさか上長が率先して規則を破るわけにはいかないでしょう。だから断言します。今飲んでるのは米から作成された飲料水です」
眩暈。
一歩部屋に踏み込むなり、鼻腔を酒精の匂いがさす。さらによろめいて、壁に手をついた。
「……黙っていてあげるから、正直に教えて。お酒?」
「ええ」
ふっと柳津は笑った。
「
それに、長椅子の高辻が呻き声を上げた。
「旨いがキツイ…… 田舎者はザルだな」
「失敬な。旨いものを最後まで愉しめると言ってくれよ」
しれっと柳津が受けるので、秋の宮は三度よろめいた。
高辻はまだ呻いている。
「吐くなよ、律斗。勿体ない」
「ばかやろう……」
がらがらの声で呟いた少尉は、そのまま長椅子の上で
また吹きだしてから、柳津は彼の上に、床に落とされていた肋骨服を、さらにどこからか持ってきた外套までかけてやった。
それから、笑みを消して、振り返ってくる。
「閣下。何か御用がおありでしたか?」
「いいや…… 灯りがまだ点いていたから、気になっただけさ」
ぼん、と時計が一時を告げる。夜中の一時だ。
「呑んでいただけ?」
「半分はそれが目的ですが、調べごともしてますよ」
なるほど、たしかに。大尉が向かっていた奥の机には、一升瓶だけでなく、地図やら新聞やらが積みあげられている。几帳面に閉じられた冊子まであるようだ。
「何を調べているの」
「先般の魔物に絡みまして。何も手掛かりなしに捜しだすのは不可能ですから、魔物が出やすい地点を探ろうかと」
「ふうん」
秋の宮はそろりとその机の前に向かった。
濃い匂いだ。
手近の椅子をひいて、ドスンと座る。
「何か分かりそう?」
「全く駄目です。その前から掛かっていた『魔物が人を乗っ取る』話についても何か結論めいたものをお出ししないといけないでしょうけど、こちらも進展無しです。『かんなぎ』も総出で当たってくれると言ってくれていますが、
肩を竦められた。うん、と呟いて、秋の宮もカンテラに照らされた紙を覗き込む。
見慣れた碁盤の目の地図。細かい書き込みだらけだ。
うっと詰まっていると、正面に硝子の器を置かれる。
「……僕も呑むの?」
「旨いですよ」
「そういう問題じゃなくて」
共犯になってしまう、と吹き出す。
――夏に飲みたいって誘った時は、ちょうど駄目だったんだよね。
あれも魔物のせいだったと思い返しながら。
「いただきます」
一気に煽る。喉の奥が焼ける。
「確かに、美味しい」
ぽつんと呟くと、柳津が笑んだ。
「よく呑むの?」
「嫌いではないですよ」
なるほど酔っているのか、とやけに饒舌な顔を見つめる。
「普段は何処で呑んでいるの」
「外に出かけています。一本裏の通りの店はほとんど行きました」
「一人で?」
「いいえ。
「へえ…… 知らなかったな」
「一年、閣下の下に付いていたのに?」
するりと問われ、頬を痙攣らせる。
「ぼ、僕は、そんなに外に出かけないからかな」
「……難しい御身分ですからね、失礼致しました」
また笑みを消して、彼は頭を下げる。
「あ、べ、別にね…… そうじゃないんだけど。気にしないで」
ちくり、と胸が疼く。誤魔化すように声を出す。
「高辻君ともよく呑むの?」
「実は今夜が初めてです。もっと早く腹を割って話しておけば良かった。意外に面白い奴です」
「面白いって…… 話していたのは、仕事の話だけ? それなら面白いってことはないよね?」
問うと、相手はやや顔を
「……昔話も少々」
ふうん、と頷いて、その顔を見つめる。
吊り上がった眉に三白眼、薄い唇。するどい輪郭。なかなか考えを読ませない表情。机仕事の時だけ現れる、銀縁の眼鏡。
その外見からは、秋の宮にとって旧知である彼の父と似た部分を探すのは難しかったが。
「柳津少将もお酒好きだったものね」
言うと、彼はかすかに目を瞠った。
「ご存じで」
「当たり前でしょ。少将の息子だっていうから、君を呼んだんだもん」
ふん、と胸を反らす。
「
常に呵々大笑していた、人懐こい人。濃紺の服がこの上なく似合っていた大柄な人。体格に見合う大きな声の持ち主。
脳裏に生前の姿を浮かべてから見遣ると、柳津は眉を寄せていた。
「……その少将が、何か?」
「陸軍で指揮を執るかたわら、僕と
にこりともせず頷かれ、秋の宮は身を退いた。
「少将の…… 御父上のことは嫌いかい?」
「まさか。尊敬してますよ」
やはり表情を変えずに彼は言った。
「そう」
頷いて、じっと見る。
「少将が北に赴任してしまったのと、僕や天音も士官学校に入ってしまって忙しかったのとで、全然会えなくなってさ。もう一度と思っているうちに訃報を聞く羽目になった」
「呆気なく死にましたよ。酒の飲み過ぎです」
その瞬間だけ、大尉もすっと目を閉じた。
「三回忌ももう済んだんだっけ」
「はい」
「早いなぁ。亡くなってからそんなに経つのか」
あはは、と秋の宮は笑う。
「もっと話をしたかったと思うんだ。どんなにバカなことを言っても笑って聞いてくれる人だったから」
「確かに笑われてばかりでしたけどね」
「こんな父君だったら気楽だったろうと思ったことも多い」
「どうでしょうね」
「柳津君」
秋の宮はまっすぐに呼んだ相手の目を覗き込んだ。
「君は、少将の……」
「養子です。血の繋がりは無いですよ」
あっさりと彼は答えた。
「そうか…… そうだよね。もし本当の子どもなら、北方に赴任する前に僕や天音と会っていてもおかしくないよね」
「どうでしょうか」
じくり、と染みが胸の裡に広がる。
「なんで君を迎えたんだろう」
「結婚をしていなくて、寂しいのだと言われました。仮にそれが真実だったとしても、部下の一人を養子にするなんてどういう料簡なんでしょうね」
ふふふ、という声に、秋の宮の眉は下がる。
「そうじゃないよ。養子を迎えたかった理由じゃなくて、君を養子に迎えたかった理由は何か、だよ。君が良かった理由」
胸の裡の染みが広がっていくのを感じながら、また顔を見つめる。饒舌さがまだ前に出た、強面を。
彼は、さあ、と首を傾げただけだった。
「少将が君を選んだ理由もだけど、君が話を受けた理由は?」
問いかけると、笑われた。
「楽をさせてもらえると思いましたので」
「楽、かい?」
目を丸くする。頷かれて、ますます見開く。
「どんな?」
彼はくっと口の端を持ち上げた。
「名前というのは便利ですね。都の名士に連なる苗字のおかげで手に入ったものは多い」
無骨な掌が投げだされていた肋骨服の袖章を撫でる。
「その一つは尉官、ということかい?」
「ええ。縁組するなり士官学校に送られました。義父も、家族ごっこをするつもりはなかったんですよ」
肯定に、また眩暈がした。
「昇進して、何が楽なものか」
呻いてみせたのに、彼は底冷えのする笑みを浮かべた。そのまま、器の中身を一気に干す。
その姿を見つめ、秋の宮は溜め息を零した。
「夜中まで働かされて、楽も何もないよね」
「そういう解釈もありますね」
さらりと受け流される。秋の宮はかぶりを振って、立ち上がった。
ふらつくのは、呑んだからだ。
「柳津君、今日はこのままどうするの……?」
「ここで夜明かししますよ。調べごとは途中ですから」
「無理しないでよ」
また笑ってから、彼は真っすぐに見向いてきた。
「ご心配なく。明日に引きずるような飲み方はしませんよ」
「頼むよ……」
おやすみ、と言って戸を閉める。
それから額に手を当てて、宙を仰いだ。
起きている者はいないはずの建物の中。乏しい灯りのお陰で色の分からぬ絨毯を踏みしめて、鎮台の入口へと向かう。
たまによろめいて、壁に手をついて。
最後、扉の横に座り込んだ影に、思わず叫びだしそうになった。
「幽霊じゃありませんわ」
顔を上げ、笑んだ顔に、長い溜息を吐き出した。
「
「お待ちしてましてたの」
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