37. 追いすがる
「寒いわね」
そう言って、
「雨も雪も降らないといいけれど」
寮の広間、十二月になって分厚いものに替えられた
「つまらないわ」
むくれた顔の美波に睨みつけられて、
「本でも読めば?」
「厭よ」
「じゃあ、お散歩は?」
「一人じゃ厭」
それに、と美波は
「歩きたくない。馬車が
思わず、溜め息を吐き出した。
門前で一度だけ遭遇した光景が、頭の中で蘇る。中に入れてもらえなくて往生していた時に、馬車でやってきた美波と、その恋人。
「秋の宮様は、どちらへ?」
問いかけると、美波はさらに頬を膨らませた。
「司令府へお出かけ中よ。先日の魔物が逃げたことへの対応でお忙しいっておっしゃって、何度も何度も司令府へ出向かれているの。そのせいでゆっくりお喋りする時間がないわ」
美波はあらい歩みで寄ってきて、すとっと布張りの椅子へと腰を下ろした。
黒地に赤い花が描かれた袖が乱暴に揺れる。真っ赤な帯がぎちぎちに締め上げられているに違いない、上ずった声が続く。
「今日に到ってはご一緒させてもらえなかったもの」
「それは……」
当然じゃないかしら、とは言えず顔を伏せる。
「本当、つまらない。誰のせいなのかしら、ねえ?」
棘の生えた声にぎゅっと目を瞑る。
ぱちん。
暖炉で火が
図書室に向かうと、先に
緑と白の格子柄の背中が、ころんと丸まっている。机に肘をついて本を広げる彼の正面に立ち、一度唇を噛みしめて、気持ちを込めて笑いかける。
「腰の調子はどう?」
「お陰様でね…… 痛いよ」
向かいに腰を下ろすと、ははは、と泰誠は笑い声を立てた。
「かっこ悪いよねぇ。シロに言い返せないよ。元軍人が何をしてるんだって僕自身も思ったから」
彼は視線を倖奈へと向けてきた。
「君は、なんともなさそうだね」
「腰はね」
「腰だけじゃないでしょ。散々、丘の周りを走り回ったって話じゃないか」
うん、と頷く。
「足は痛くならなかった?」
「痛かったわ。次の日だけよ」
「さすが、若いなぁ」
泰誠がまだ笑う。倖奈は溜め息を吐きだした。
「あんなに走り回ったのに、魔物は見つけられなかったのよ」
「探していたのは君だけじゃなくて、第八部隊もだよ。それだけの目があっても見失うんだから、仕方ないよ」
「仕方なくなんかない」
唇が尖る。泰誠は苦笑した。
「
ああ、と息が零れる。
「たった一体――されど一体ってね」
その一体の魔物に失わされたのは鳥居と拝殿だけで済まなかった。幾つもの家。壊されたものに潰されてなくなった命。
恐ろしい力を持った魔物だと感じるのに。
「前にも逃げられたことがある奴だっていうのが、まずかったよね」
彼は宙を仰いで、呟いた。
ぎゅっと深緑の袴を握る。皺がぐしゃりと寄って、琥珀色の袖が揺れる。
何度か唇を
「ねえ」
と、泰誠が声をかけてくる。
「シロはどうしているの?」
「
「あれから、魔物の話はした?」
「してない」
背中が冷えるのを感じながら首を横に振る。
そう。
あの後は魔物の話をしていない。彼自身が作り出した魔物の話を。
シロにも、誰にも。
――万桜様には言えなかった。常盤にも、泰誠にも話せなかった。
溜め息が絶えないまま、鎮台を出る。
足が重い。
帰りたくないな、と考えて吹き出した。
――かと言って鎮台にいたいかというと、そうでもないんだけど。
美波の視線が痛い。常盤の無言が怖い。泰誠の笑みが苦しい。
シロの顔だって見たくない。
じゃあ誰ならいいのか、と笑みを浮かべる。
するり瞼の裏を過ぎるのは濃紺の背中。
「だめだめ」
首を振ると、琥珀色の袖も揺れた。細かい織模様のそれに、もう一人思い出して、あっと声を上げる。
――でも、真希だってお仕事中だろうしなぁ。
引っ越したと手紙を出したら、返事が戻ってきた。年の瀬に向けて忙しくなるけれど、また買い物に来いと書いてあった。
――それに、今したいのはお買い物じゃなくて。
なんだろう、と宙を仰ぐ。
通りに溢れる、人、人、人。
羽織の袖が、襟巻の端が、朽ちた落ち葉が北風を受けて踊る。
響く声の中から言葉は拾えない。
ぽつん、と雫が額を打った。
「雨だ」
冷たい。
粒はどんどん大きく多くなっていく。
通りの人々がわっと走り出す。倖奈もまた、近くの軒下に滑り込んだ。
一尺もない幅のそこには倖奈一人だ。狭いから、吹き込んでくる雨と跳ねる土くれを避けられない。
溜め息を吐く。
髪を滑り落ちて、肩の上に乗った雫を払い落とす。
格子柄の
通りを行く人は数えられる程にしかいない。ずぶ濡れになっているか、傘を差しているかした、歩みを止めない人たち。
その他、軒下に、木の影にと逃げた人たちは皆、空を見上げている。
――止まなかったら、帰らないで済むかも。
どんより重たい雲に笑いかける。その顔のまま、通りに視線を戻すと、歩く人と目が合った。
呼吸が止まる。
相手もまた、三白眼を大きく開いて。傘を広げたまま、近づいてきた。
黒い外套の隙間から濃紺の生地が見える。それはいつもの肋骨服なのだ、と見て取れた。制帽も被ったままだ。
「風邪をひくぞ」
正面まで来た彼は、傘を僅かに傾けて、軒先から落ちてくる雫を遮った。
傘を傾けた分、背中側に雨を受けることになった相手に、倖奈はくすっと笑った。
「
彼もまた、笑う。
「久しぶりだな」
落ち着いた声が、じん、と染みる。
――話しかけてもらえた。
「全然、逢えなかった」
ふわりと浮き上がる気持ちのまま笑いかけると、史琉はふっと息を零した。
「鎮台には来ていたのか?」
「いたわ。第五部隊のお部屋にも何回か行ったのよ」
「ここのところ、俺が部屋に居ることが少なかったからな」
うん、と頷いて、見上げる。
「忙しいの?」
「まあな」
「やっぱり、この間の魔物のせいで?」
彼もまた頷く。
「魔物を追いかけていて忙しいなら分かるけどな。残念なことにそうじゃない。
お説教を食らうのに忙しいんだよ。司令部にお呼び出しを食うのは初めてだ」
それに自然と眉が寄る。
「秋の宮様も何度も出向かれているって」
「よく知っていたな」
「えっと…… 美波から聞いて」
「ああ。あの子か」
きょとんとなる。史琉は肩を竦めた。
「その宮様と俺ともう一人、雁首揃えて怒られてばっかだ」
「もう一人?」
「第八部隊の隊長殿だ。例の魔物を追いかけていて見失ったって責められているのさ」
「史琉も?」
「俺は追いかけなかったと怒られてんだよ」
「……今も?」
「ようやく今日のお説教から解放されたところさ」
くくく、と彼は喉の奥を鳴らした。
「ごめんなさい」
「なんでおまえが謝るんだよ」
「だって…… わたし、あの時、第五部隊の人に社で腰を痛めていた泰誠を助けてってお願いしたわ」
「ああ。そうだったんだってな。まさか『かんなぎ』まで運ぶ羽目になるとは思わなかったとぼやいていた奴がいた」
「そのせいで追いかける人手が足りなかったんだとしたら…… ごめんなさい……」
ああ、と頭を抱える。史琉は笑いを止めてくれた。
「最初から追いかけていなかったから、いいんだよ」
え、と声を上げる。
「なんで」
「目の前で怪我して苦しんでいる奴がいて、放っておけるか」
ああ、と呟く。
「追いかけていなかったと怒られているんだって」
史琉を見上げる。僅かに頬が削げた気がする顔を。
「俺は責められて仕方ない」
「でも」
「部隊を指揮しているのは俺だ」
しん、と静かに彼は嗤う。
「追わないという決定をしたのは俺。他は誰も悪くない」
唇を噛む。
「なんで史琉だけ」
「それが上官ってもんだよ」
「分からない」
ぎゅっと両手で袖の先を握りつぶす。
「分からない、か。大人ってそういう生き物なんだけどな」
「そうなの?」
「そういうものだよ」
ひょい、と肩を竦め、彼はまた笑った。
「とはいえ、さすがに説教と言い訳ばかりなのは飽きてきたけどな」
そんな気楽な話ではないだろう、と見つめる。
彼は笑顔を崩さない。
「面倒なのは今だけさ」
「本当に?」
眉を寄せて、じっと視線を送る。
ゆっくりと彼は頷く。
「今がどん底。今日が最悪なだけだ」
「……そう、思っているの」
「そうやって生きてきたからな」
言って、彼ははっと息を吐く。
「それはそれとして、魔物は探さないとならないがな」
眼はすっと細められて、口の端が持ち上がる。
「汚名を
ぞくり、背筋が震える。
「手が思い浮かばんが」
添えられた呟きに、倖奈はまた唇を噛んだ。
シロのこと。彼とアオのこと。
話してしまえばいいのだろうか。
「史琉――」
呼びかけて。
「なんだ?」
振り向かれて、頭を振る。
「なんでもない」
「なんだよ」
「喋っていいのか分からない」
「おい」
「何をどう言えばいいのか、わかんない」
頭の中はぐちゃぐちゃだ。
シロが作ったという魔物のことも。
美波と全く合わない気持ちも。
恋しいという想いも、全てが混じり合って、波打っている。
両手で顔を覆う。
その隙間から、ぼろっと涙が零れた。
「おい……」
慌てた声。
「どうした」
「なんでもない」
返事を絞り出す。
「本当に、なんでもない」
震えて、掠れて、みっともない声だ。それを堪え切れないのも。
――わたしが子供だから。
「史琉のせいじゃない」
「勘弁してくれよ」
「ごめんなさい」
まだ、がくがくと震える声だ。
何度も息を吸って、唇を噛もうとして、咳き込む。
「ごめんなさい」
ひっく、としゃくり上げる。
――だからどうか、嫌いにならないで。
どうにかこうにか、震えを収めて、掌を退ける。
眉を下げて、唇を曲げた顔が見えた。
「……送るよ」
「大丈夫」
「いいから行くぞ」
白い手袋を嵌めた手が伸ばされてきて、肩に触れる。
ゆっくりとそのまま、歩き出す。
熱い。
声はない。黒い傘を叩く雨音だけが反響する。
冷たい風の中、僅かに温もりが伝わってくる。
その時間の果て、瓦屋根の門が見えてきたところで、袖を引いた。
「あとは走るから大丈夫」
「おい」
「さよなら!」
傘の内から飛び出す。一気に走って、門を押し開けて、中へ滑り込む。
心臓が口から飛び出してきそうだ。
百数えてから、そろり外を見た。
傘と外套を着た背中が、しろく烟る通りの向こうに去っていく。
まだまだあの背中には追いつかない。
並び立つ姿など思い描けない。
そうやって、また泣いた。
(第二章 了)
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