36. 思い出と古い傷と(4)
「現場は?」
「西の郊外だそうです!」
早足で行く隊長殿を、
もっとも、今、鎮台の中を行き交う人は皆慌ただしい。魔物出現の報は、誰の気持ちも追い立てる。
――第五部隊も出動だってさ。ねえ、
「もう哨戒中の部隊は向かっているんだろう?」
「えっと、そういう話です」
「
「俺以外にも寮の方とかに行ってる人がいて、集合を伝えているところです」
「そうか」
真っ直ぐに伸びた背中しか見えないが、きっとその眉間にはまだ皺が刻まれているのだろう。
早く部隊の他の皆と合流したい、と颯太は胸のうちだけで叫んだ。
「早く、行かなきゃですよね」
「当たり前だ」
声は固く、重い。歩みが速い。
がしゃんがしゃんと鞘が鳴るのが
「ちなみに、数は?」
「えーっと、一?」
「そこを疑問形で返すな、しっかり覚えて来い」
「す、すみませ、ふぐっ!」
叫び、颯太はその場に立ち止る。
両手で右の頬をさすって呻いていると振り返られた。
「どうした」
「ひ、
すると、目を微かに細めて、笑われた。
午前中の、書類とにらめっこしていた顔とは違う。完全に魔物を相手にする時の、いつもの表情だ。
――今は機嫌、いいのかなぁ?
玄関前には既に部隊の半数が集まっていた。
隊長殿の到着に、彼らは右手を額の前に掲げて応じる。その列の端に颯太はあたふたと並んだ。
前方へ
彼らは、一人が持つ地図を囲み、指先であちらこちら指し示した。
「遠いな。進むのはこっちの大路かな」
「哨戒中の第八部隊は、北の通りを回って進んでいるという話ですので、よろしいかと」
「もう揃っている班だけ先に向かうか」
「残りは揃い次第?」
頷きあいながら、副官殿と二人のじゃんけんが始まる。今回は隊長殿の勝利らしい。
「援軍は任せた」
ぶすっと頬を膨らませて高辻少尉は頷く。先に進めとなった部隊員の表情が引き締まっていく。颯太も背筋を伸ばす。
「そうだ、凹んでる場合じゃないぞ」
隊長殿がばしっと腰を叩いてきた。
舌の右の横が膨らんでいるような気がする。口の中にはまだ血の匂いがわずかに残っていたけれど。
「頑張ります」
にっと笑った柳津大尉の後ろで桜星の軍旗がはためく。
「出動!」
一斉に動き出す。
気持ちが急いても、へばってしまってはどうしようもない。
鎮台からの遠さ故に移動は長くかかる。一報からは時間が経っている。
被害も既に出ている。
「家が……」
潰れている、と颯太は顔を歪めた。
「ひでえな」
と他の誰かが呟く。
木の壁が倒れ、墨色の瓦が崩れ、柱が丸見えになってしまっている家がある。それすらも折れているものも、また。若い檜の木は、根元から傾いている。
「通報があったのはもっと西じゃないのか」
「丘の上のほうですね」
隊長殿と数人がまた、地図を覗き込む。
そして、おかしいな、という声が上がる。
「家の壊れているのは魔物の被害なのか?」
「また
心配だ、と颯太は口をへの字に曲げて。
「それに」
と傍の男に声をかけた。
「どうしましょう。あの屋根の下、誰かいますよ」
崩れた瓦の傍で泣いている人がいる。小さな子どもだ。
「俺だって気になってんよ。だけど」
「でも」
「指示待ちだ」
一人、年嵩の男が、大尉に歩み寄っていた。
「魔物が潰していったんですよ――逃げる暇もなかった」
それに頷いて。
大尉は制帽を一度持ち上げて、髪を掻き上げて。それからぐるりと集落を見回した。
「救助を行う」
ほっと、溜息が響いた。
崩れた家は五棟程か。それらに向かって、てこになりそうな棒やらなにやら、皆器用に道具を探してきた。
「離れて待ってて」
颯太は、瓦礫のすぐ横で膝をついたままの子どもの肩に手を置いた。男の子だ。腫れた目とぐしゃぐしゃに湿った頬に、颯太も眉を下げる。
「家族が埋まっちゃってるんでしょ。すぐに助けてあげるから。大丈夫だよ」
「にいちゃんがいる」
「うん、うん」
「さっきまでイタイって泣いてたのに、声が聞こえなくなっちゃった」
「大丈夫だよ」
なにが大丈夫なんだと無理矢理笑う。ぽんぽんと背中を叩くと立ち上がってもらえた。両手で顔をこすったままだが。
その横で、割れた瓦を、仲間たちが除け始める。
「ね。こっちで待ってて」
ひょいと持ち上げられた子どもを抱えたまま、隊長殿の方に歩く。
すいっと視線を向けられたが、何も言われない。すぐ横に子どもを下ろしたら、その頭を手袋をはめたままの手でくしゃくしゃと撫で始めた。
子どもがしゃくり上げるのを止める。きょとんと見上げる。
「ガキは手を出すな」
ふっと目の端が下がる。強面の中でもまだマシと云った風情だ。子どもにも通じたらしい。
「おじちゃん、にいちゃんを掘り出してくれる?」
「……いろいろ突っ込みたい言い方をするな。任せておけ」
「おとなが助けてくれる?」
「そういうことだから、静かに待っていろ」
「あのね、あのね」
子どもは濃紺の肋骨服の裾を引っ張り始めた。
「おれんちだけじゃなくてね。向かいのおばさんちも掘って」
「分かってる」
「それとね。さっき、おっちゃんが来てね。丘の上のほうも家がぺちゃんこになっちゃってるって」
「なんだと?」
頬をひくつかせてから、隊長殿は視線を片手で持った地図へと戻す。
「ここだけじゃないのか? 様子を見に行かせ――いや、第八部隊の応援はどうするかな」
見上げていると、口元が歪んでいくのに気が付いてしまった。
「さらに部隊を割るのは賢明じゃないな…… くそっ」
がん、と短靴が石を蹴る。
――やっぱり機嫌悪いのかな!?
子どもがびくりと体を退く。ひい、と颯太は肩を縮こまらせた。
「駒場」
「は、はいいいいいいい!?」
「……普通に返事しろ」
「あ、すみません! ごめんなさい! 何の御用ですか!?」
「四、五人集めてこい」
二度首を振ってから駆け出して、馴染みだったりおっとりしていたりする、声をかけやすいところから頼み込む。
戻ると、隊長殿はまた口の端をもちあげた。
「好い顔ぶれだな」
「何をすれば」
「話を聞いて来い。魔物に潰されたってところを詳しくな。それと丘の上の状況を伝えてきたって人を探してこい」
彼等が村の住人たちに向かってパラパラ散って行くのを見送ってから、柳津大尉はまた険しい顔になった。
「問題の魔物はどこに行ったんだ」
「最後にやられたの、あそこだよう……」
傍の男の子が、震える指先を向ける。
そちらもまた平らになってしまった家。濃紺の軍服が数人、一つずつ瓦礫を運び下ろしていっているそこの瓦礫の隙間から、ぶわり黒い靄が昇る。
――魔物!?
「居たのか!」
がしゃん、と一斉に刀の鞘が鳴る。
近くにいた中で一番早く軍刀を抜き放った男が瓦礫の山を駆けのぼろうとして。
「伏せろ!」
別の誰かが叫ぶ。
空から黒い塊が落ちてきた。それにすんでのところでぶつからずに済んだ男は一歩退く。
「離れろ! 家から離れさせるんだ!」
一際大きな声で柳津大尉が言う。
「他! 無理に向かうな! 近寄られたら、村の外へ追い立てろ!」
落ちてきた魔物が震える。まるで人のような形だ。丸い頭に、脚も腕もある。
がぱっと口を開けると、そこに靄がずるりと吸い込まれていった。
――魔物って合体するんだ!
ひい、と颯太が縮こまる間にまた、掛け声とともに刀が振り下ろされた。
一閃が、魔物をよろめかせる。メキ、とその黒い足が板を踏み割る。繰り出されて来た拳が、瓦を粉々にする。
「あれ?」
颯太は目を丸くする。後ろで隊長殿が舌を打つ。
「なんで魔物が、物をぶっ壊してるんだよ」
「ですよね? ですよね!?」
「魔物が家を潰したってのは本当だったのか」
「前にもありましたけど」
え、と振り向くと、いつの間にか子どもの手当を始めていた衛生兵が頬を
「柳津隊長が来る前、
その間でも、刀は宙を走る。魔物の腹を、背を、僅かずつでも削っていく。
だが、何処からともなく漂ってくる黒い靄を全て纏って、すぐに元の形へ。
「きりが無い」
溜め息の後、隊長殿は地図を折り畳み、颯太に突き付けてきた。
「持っていればいいんですか!?」
「そうだな」
ひくく応じてから、大尉は足元の松ぼっくりを蹴飛ばした。
軽くしかぶつからなかったのに、魔物は振り向く。転がってくる。それをひょいと躱して、背中側から蹴飛ばした。
さらに勢いよく転がって行く。
別の二人が追いかけて、斬りつける。
魔物は腕をぶんぶん振って、それから、高く跳んだ。
野原に紛れて行く。
誰かその場に座り込んでしまったらしい、どさりという音が響く。場の空気が緩んでいく。
それも一瞬。
「追うぞ!」
鋭い声に、はっと振り返る。
いつの間にか、副官殿も追い付いていたらしい。少尉に、頬を火照らせた仲間たちの視線は、野原へと向かっている。
旗が翻る。
柳津大尉はかすかに笑って、首を振った。
「救助が先だ」
「何故!?」
副官が叫ぶ。隊長の笑みが冴える。
「生きている人間が先だ」
「ふざんけんな! 魔物は一度逃すとなかなか見つからないんだ。問題を先送りしたいのか?」
「おまえこそ、私怨で突っ走るなよ」
「私怨、な訳が――」
と、言葉が切れる。
ねえ、と颯太は近くの衛生兵を見た。
彼はふっと笑みを零した。
「あの魔物、遠郷大尉を殺した魔物そっくりだよ。多分、あの時いた奴は、気が付いている」
――そっくり、じゃなくてそのものかも、とか。
ごくり唾を呑む。
「俺が上官だ」
隊長殿の背は揺らがない。
「救助を優先する。ここと、丘の上の集落と」
踵を返して、指示を始める。衛生兵もまた、別の怪我人へと走っていく。次々に、仲間たちは動き出す。
ちらりと見遣ると、少尉は青筋を浮かべて歯ぎしりしていた。
翌朝は、体が重たかった。
「
布団の中から同室の少年を呼んだが、返事はない。無理矢理体を立てて、這いずり出て行く。
ぱりっと皺ひとつない軍服を着た彼を見つけたのは、ざわめきがいつもより大きくて速い食堂で、だった。
「何を見ているの?」
「今朝の新聞です」
真正面の席に座ったところで、はい、と見せつけられる。
堂々と踊る『魔物、遁走』の字。
「細かいところまでちゃんと読む」
「えー。嫌だよ」
と言いながらも、視線はしっかり紙に染み込んだインクを意味あるものとして捉えていく。
「救助か、追跡か。軍部は内部で揉めた模様――だって」
「事実ですよね。腹立たしいことに」
「ええっと…… 『魔物を逃がし、この先の生活に大きな不安の影を残したことは大いに責められる』だって」
「全くです」
ふん、と鼻を鳴らして、彼は目の前の膳の中身を掻きこみはじめた。
「我らが隊長殿のせいですよ。追跡じゃなくて、救助が先だなんて!」
颯太は頭を振った。
「櫂は――あの子を見てなかったから」
助けないなんて考えられなかった。
あの後、柱と柱の間の空間から兄が救いだされた時、泣いて喜んでいた。一生懸命頭を下げてきた。大人のように御礼を言おうと頑張っていた。
つっけんどんに対応しながらも、隊長殿はどこか嬉しそうだった。
もちろん、颯太も。きっと、あの衛生兵や、他の隊員たちも。
――副官と櫂はそうじゃなかった。
肩を落とす。
今日の食事は塩がきつい。
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