35. 思い出と古い傷と(3)
動かない足を裏切って、視線だけは黒い影を追いかけていく。
向かっていく先、野原の向こうは家々が立ち並ぶ処。
「止めて」
声だけを零す。
「何をじゃ?」
背後でシロが喉を鳴らす音に、奥歯を噛みしめながら振り向いた。
ひっくり返った鳥居がいやでも目に入る。
その傍に立った彼が着た嵯峨鼠の着物の袖が、風を受けて膨らむ。同じ風が、
「何を…… 止めさせたいのじゃ?」
重ねての問いで、シロのうすい唇が艶めく。
倖奈の口は喉の奥まで乾いて、空回る。それでも、倒れ込むことだけはできなくて。
視線をもう一度、遠ざかったはずの黒い影へと向け直した。
――ほら。
と目を見開く。
止めさせなければいけないことが起こっている。
家が一つ、ひしゃげた。
屋根が曲がり、土煙が起こる。叫び声が聞こえる。
「おお、また派手に壊したなあ」
シロが右手を腰に、左手の狐面を庇のように掲げて、嗤う。
「それ、追うぞ」
彼はザクザクと草を踏み、倖奈の腕を引っ張ってきた。
ずるりと立ち上がる。草履を履いた足は、ぎこちなく動く。
「ま、待って……」
呻き声は
「元軍人が、ひどい看板倒れじゃな」
シロが鼻を鳴らす。
泰誠は何も言い返さない。
二人を見比べて、そのまま倖奈はシロに引きずられた。
ずるずるとススキ野を突っ切って、潰された家へ。
近づけば、板切れの山と化したそこから泣き声と呻き声が聞こえてくる。
「まだ、中に人が……」
「あれもおるぞ」
そら、とシロが指さす。
板切れの山の真ん中、窪みの中で真っ黒な影がすっくと立ち上がった。それはまた跳ねる。びよん、と隣の家の屋根へと乗る。
「止めて!」
倖奈は高く叫び、今度こそ駆け出した。シロの手を振り払って、真っすぐに。
だが、一歩近づくごとに瓦は軋んでたわんで、また崩れ出す。
家の傍で悲鳴を上げた女がいた。
黒い影が首を捻って、無いはずの目が、体の前で籠をかかえた彼女を捉えたようだった。
「中に人がいるのよ!」
叫びに、影ががしゃりと踏み出す。女も前のめりに叫ぶ。
「この、鬼め!」
顔をくしゃくしゃにした彼女がそう叫ぶと、その肩からずるりと黒い靄が立ち上る。
それはするりと真っすぐに空へ。
途中でくるんとまるまって、漂いはじめる。
――魔物!?
悩む暇もなく、倖奈は一気に走った。
女を突き飛ばすと同時に、そこに二つの魔物が落っこちてくる。
「来ないで!」
籠からは、まだ青いミカンが転がっていく。一つ掴んで、投げつける。
ふわりと白い花が咲いて、魔物がよろけた。そのまま、ごろごろと野原のほうへと転げていく。
回転から立ち直った最初の魔物――社の勾玉から出てきたそれは、後から湧いた一つを呑み込んで、また跳ねた。
そのまま丘を下っていく道へと去っていく。
倖奈は肩で息をして、女を振り向いた。
「中に、中には夫や母が――」
彼女が顔を歪める。背の側にまた黒い靄がすっと
倖奈はぶんぶんと頭を振った。
――助けなきゃ。
息を吐いて周囲を見回す。ぱらぱら、と他の家や木の陰から人々が顔を出す。
「おっかねえな」
「魔物は建物を壊さないなんて嘘じゃないか」
「もう大丈夫なんだろうな。あれは戻ってこないんだろうな」
一様にあおい顔をした人たち。
その人たちに呼びかけようとするより早く、また腕を引かれた。
「シロ」
「行くぞ、倖奈」
「でも」
「あれを追うぞ」
そうだ、追いかけねば。行った先でまたこのように家を潰すかもしれないのだ。
――なんとかしなきゃなんとかしなきゃ。
『かんなぎ』なのだと唇を噛む。
魔物を消したい、瓦礫の下で苦しい想いをしているだろう人を出してあげたい。
「どっちもできるわけなかろう」
シロはあっけらかんと言い放ち、倖奈を引きずり続ける。
「わしは人助けより、あれのほうが気になるんじゃよ」
「でも」
「倖奈はわしと同じものを見てくれるようだからな」
「……え?」
そのまま小走りで坂を下り始める。
今度は右手に都の街並みを見下ろしながら、進んでいく。
前を、黒い影が跳ねている。先ほどよりも大きく重たくなったらしい人型のそれは、足も鈍くなっていた。
そして、シロの足は速い。
坂の中ほどの湧水の前で、影はのそりと立ち止まった。その後ろへと駆け寄る。
ぐるり振り返った――顔の前後ろも分からない影なのに、顔が向いた気がした――魔物へ、シロは手を振る。
「久しいのう」
ゆらりゆらり近づいて、向き合う。影はぴたりと動かなくなった。
シロは肩を竦め。
「ああ、走り疲れた。わしも腰をやりそうじゃわい」
そう言い、やや前屈みになって、右手で腰を擦り始めた。
そこまでの残り数歩を近寄れなくて、倖奈は立ち尽くす。
汗が顎から落ちる。すうっと背中が冷えていく。
「ちなみにな」
振り返りもせず、シロは言った。
「これの呼び名は『アオ』じゃ」
瞬く。
これ、とはなんだ。
「魔物の呼び名?」
「そうじゃそうじゃ」
からから笑って、シロは顔だけ向けてきた。
倖奈はもう一度瞬いて、アオ、と唇を動かした。喉がひどく乾いていて、音が出ない。だが、そのほうがいい気がする、と肩を震わせる。
シロはふう、と溜め息を吐いた。
「気付かぬか? わしのと対になっているのじゃよ。
首を振ったが、シロはひひっと嗤った。
「どうして……」
と問いを口に出す。
「もともと一人の人間だったから」
シロはあっさりと言った。
じっとその顔を見つめて。
そろりと魔物を見る。
真っ黒な靄の塊。じっと見れば、わずかに、形が、凹凸があるような気がする。
「同じ顔?」
「そうかもなぁ。いかんせん、わしの影じゃからな」
よいしょ、とシロは腰を伸ばし、体ごとこちらを向いて、両手を広げる。その後ろで魔物が同じように動いた。
ふわり立つ姿はほぼ同じだ。
「そんなことがあるの?」
「あったんじゃよ。驚いたか?」
こくり首を縦に振ると、シロはひひっと喉を鳴らした。
「邪魔者もおらんことだし。昔話をしようか」
その場にどっかりと腰を下ろした彼は、正面を指先で叩いた。
「ほれほれ。万桜がこうするとおぬしはちゃんと座るではないか」
厭だと言おうとしたが、喉がひりついただけで。倖奈は眉を寄せて、そのまま土の上に座った。
梔子色の巾着も、鬱金色の袖も苔色の袴も砂だらけだ。
シロの鼠色の着物も土の色が染みついている。
彼はまったく気にしている素振りもなく、乾いた空を仰いだ。
「昔――と言っても、まあ、七十年くらい前か。わしがおぬしと同じ年の頃合いにな。ふと不思議に思ったんじゃよ。何故、魔物なんてものがこの世にいるのか、と。
それも、人の手の届かぬ山奥や海の底ならいざ知らず、街中の、人が多く住む所にこそ現れる奴等は一体何者なのか、と」
頷く。シロは僅かに目を細め、狐面を口元に寄せた。
「その頃は鎮台がろくに機能しておらんかったから、『かんなぎ』と呼ばれる輩が好き勝手に出張って適当に追い払っておった。
わしもな、『かんなぎ』とおだてられて、出たと言っては呼び出されておったんじゃよ」
な、と視線を向けられて、もう一度頷く。
「ついでにいうと、宮中がかなり揉めて荒れていてな。毎日どこかしらの官庁に湧いておった。そして、その中で、今先ほどのと同じ光景を見たのじゃよ」
え、と目を丸くする。
「……瘴気が人から立ち上っていった」
「そう」
シロは嬉しそうに頷いた。
「それで、瘴気は人が産むのだと――人の魂の荒ぶる部分なのだと気が付いた。これらが塊となって、魔物となるのだと。それを証立てようとした」
「どうやって?」
「わざと魔物を生み出そうとしたのだよ。人を苦しませて、怒らせて、怖がらせて、わざと荒れさせて、瘴気を生み出させて、掻き集めてみたんじゃ」
にこりと、シロは微笑んだ。
さらに目を見開いて、そのシロと、背後に突っ立ったままの陰を見比べる。
同じ大きさなのは。顔が同じだと感じたのは。
「魔物は、出来たの?」
「出来た。その結果が今のわし」
シロもまた、アオを見向く。
黒い首が縦に振られて、倖奈は後ずさった。
おや、とシロが首を傾げる。
「魔物は出来た――瘴気を集めたワシ自身が魔物になっておったんじゃよ。人の身ながら瘴気を纏い、傍に居るだけで他の生き物を害していく存在になぁ……
これでは都で暮らすことができんと、瘴気だけ切り離してみようとして、それも成せた。だが、残った体は人ならざるものに成り切っていた」
ひょいっと肩を上げたまま、シロはじっと見つめてくる。
「どういうわけか、老いるのではなく、僅かずつ見た目は若く幼くなっていくようになっていたんじゃよ。ついでに、アオは時折瘴気を切り落として街中に放つもんじゃから、野放しにできなくなって、先ほどの社に押し込めた」
ははは、と笑った彼の目の端が緩む。
「まさかこんなことになろうとは、全く想像せなんだ。その時、色の宮と呼ばれていた
三度、目を剥く。
「色の宮様?
「そうじゃ。別れた夫がいきなり転がり込んできたんじゃから、そりゃあ気まずくもなろうな」
彼は腹を抱えて笑っている。ぎゅっと眉を寄せて、問う。
「何故、別れたの。万桜様を置いていったの?」
「それは、万桜には、泣かれ、もう夫となど呼ばぬと死んだものと考えると、罵られたからじゃよ。普通の夫婦の幸せなど、何処かに吹き飛んでいったからなぁ…… 仕方ないな」
はあ、と笑いを止めたシロは肩を竦めた。
「アオが社でじっとしている間は何も問題はない。暴れている頃合いだけこっそり都に戻り、それ以外は国中をフラフラして回る――そんな五十年じゃった。
フラフラしている中で、新しくできてしまった夢があるんじゃよ、わしにも」
細く、骨の形が浮き出る指先が、倖奈へと伸びてくる。
「聞いてくれんか」
慌てて、首を横に振る。さらに後ずさる。シロは膝でにじり寄ってきて、ゆっくりと手首を掴んできた。
「わしは死にたい。人として」
言って、ゆるりと振り向く。
「アオを祓えば、わしは
すると、アオはぶるり震えて、また跳ねた。
丘を下っていく。
「おぬしの力ならなんとかなりそうな気がするんじゃよなぁ…… まあ、相当しんどいだろうがな。
この間の神主やじじいとは比べものにならんと思うぞ。アオは今までどんな『かんなぎ』も軍人も斃しきれなかったから、封じておったからなぁ」
よっこらせ、とシロは立ち上がる。つられて倖奈もだ。
またずるずると引きずられていく。
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