34. 思い出と古い傷と(2)
「うちの窓から見えるんだけどさ。お
「夜中に前を通ったら、出てきたんだよ! 真っ黒い霧がぼやぼやぼや~って!」
「でっかい影がお月様を隠したんだ。……雲じゃねえぞ」
そんな噂話の果てにようやく、
丘の斜面を這うように進む道の片側には笹や
「きっついのぅ……」
シロふうふう言いながら足を動かしている。下駄の音が重い。
「のう…… 今からでも
「却下です。この急坂、車夫さんだって上りたくないでしょうよ」
三歩先を行く
「
うんと頷いて、倖奈は殊更背筋を伸ばした。
「若いってのはいいのう……」
「見た目はわたしとそんなに変わらないじゃない」
「そういう問題、では、ないのじゃよ。中の肉と、ほ、骨は、老いておる」
「喋っているから余計疲れるんじゃないですか?」
「そ、そんなことは、ない、ぞ……」
ひい、と一声呻いて、シロは道端の石の上にどっかと腰を下ろしてしまった。
「休憩じゃ」
「仕方ないなぁ……」
折よく、傍の笹の蔭には湧水が流れている。
奥に立つ道祖神に手を合わせてから、倖奈は水に両手を浸した。
「気持ちいい」
「真夏でもないのにねえ。本当、ちょうどいいや」
泰誠に至っては顔を洗っている。懐から取り出した手拭でぐいぐいと顔を拭く彼の背中に、シロが草の先でちょいちょいと突く。
「なあ。俥が駄目なら自動車はどうじゃ」
顎から首にかけてを拭いながら、泰誠は首を振る。
「無理です。さずがの鎮台にだって、自動車は十台も無いんですから。優先は市内の哨戒です。時々、要人の送迎に利用しているようですけどね」
「わし、わしも、要人」
「図々しい」
手拭を頬に添えたまま、彼はじとりとシロを見遣った。
「
「ほほう」
かくん、とシロは首を傾けた。
泰誠の視線が鋭くなる。
「先ほど、
倖奈は黙って、二人の顔を見た。
険しい顔と、軽い笑み。睨めっこの末、泰誠が先に溜め息を吐いた。
「自動車を出して差し上げられるほどの要人ではないですよ。少なくとも」
「寂しいのう」
シロが肩を落とす。
「自動車は、車体そのものも、運転手の確保も難しい。運転は相当の技術と判断力がいるんです」
「そうなの?」
横で倖奈が声を上げると、彼は苦笑いを向けてきた。
「腕と足をバラバラに動かさなきゃいけなくてさ…… 僕は無理だったよ」
「なんじゃ、おぬしも運転できるのか」
「だから、無理。できないんですってば」
「残念」
身を乗り出したシロが、はあっと肩を落とす。
「今、貴方を乗せられないのは残念じゃないですけど、運転を修められなかったのはわりと後悔していますよ」
あはは、と笑って、泰誠は立ち上がった。
「さあ、行きましょうか」
「なんじゃなんじゃ、話を途中で切るな。おぬし、自動車の運転を習える立場におったのか」
先ほどとは打って変わった軽やかさでシロも歩き出す。倖奈も慌てて、二人の後ろに進む。
「いつじゃ。どこでじゃ」
「ええっと…… 都に来たのが四年前で、その前です。僕、南方鎮台所属の軍人だったんで」
「ほほう。軍人とな」
「ええ。軍の訓練の中に自動車の運転があったんですよ。僕含めて、できるようにならなかった奴のほうが多かったですけど」
また、泰誠は苦笑いを浮かべる。シロはぴょんぴょんと跳ねる。
「軍人がどうしてまた、『かんなぎ』として皇都に来た?」
「南方鎮台も主な任務は魔物の討伐です。その中で、雷を出せるということに気が付きまして。部隊長がそれを上層部に上げたら、そこから先はとんとん拍子で話が進みました」
そうだった、と倖奈も頷く。
幼い頃に異能を見出されて、連れて来られた者が多い中で、二十歳を越えた者が新しくやってくるのは目立つ。
『かんなぎ』と認められた時点で苗字を捨てる中、なかなかそれに馴染めなくて苦労していた。軍服を着慣れていたから、和装も落ち着かない、と笑っていたことも憶えている。
それでも、彼は柔和で、すぐに皆が打ち解けていたけれど。
「断れば良かったかなぁ、なんて思った時期もありますよ」
ぽつんと漏れた言葉に、はっとなる。
「何故じゃ」
くっとシロが首を傾げると、泰誠はひょいっと肩を竦めた。
「雷を飛ばすよりも刀を振り回したほうが、早く魔物を斃せるので」
「そんな理由か!」
あはははは、とシロが笑いだす。
本当にそうだろうか、と倖奈は瞬いて、前を歩く彼を見た。
丸い肩に厚い背中。その性格どおりの、柔らかい体躯。
「それと、軍の訓練をしなくなったら、あっという間に太ったんですよ」
「訓練はそんなに厳しかったか」
「まぁ、特にうちが。最後の一年だけお世話になった部隊長は、士官学校出たばかりの若いお人で、自分ができることは皆できると思っていて、しごきがきつかったんだよね」
彼はまだ笑っている。
「そう言えば。その隊長、士官学校で
突然出てきた言葉に、危うく飛び上がるところだった。
そろりと視線を向ければ、泰誠も複雑な表情で振り向いていた。
「似た者同士だったりなぁ」
笑い続けているのはシロだけだ。
そんな末に、これか、という処にたどり着いた。
赤と黄色に斑染めされた野原の真ん中に、ぽつんと立つ、鳥居と拝殿しかない社。
「なんじゃ。ここか」
シロが声を上げた。
「知っていたの?」
胡乱げに見遣ると、彼はまた大仰に頷いた。
「駅の前の社は分け取った分だったがな。此処には本体を封じてある」
「本体?」
「まあ、見れば分かる」
真っ直ぐに拝殿に向かっていくシロを、泰誠と二人で追いかける。
鳥居は大人一人が潜るのがやっとの大きさ。そこから三歩進めばもう、拝殿の階だ。天井からは大きな鈴が吊るされているが、鳴らすための縄も紐もない。賽銭箱があったはずだろう場所を通り抜け、中を覗く。
埃が積もった床に、足跡が残っている。
「留守ではないようじゃな」
細い指が示した先は、壁にかけられた勾玉だ。ずんずんと近寄っていく。
「シロ、待って」
倖奈が呼ぶと、彼は満面の笑みで振り返った。
「先ほどの疑いの答えをやろう」
軽い声音。肩を揺らす。泰誠が一歩前に出る。
「貴方が呼び出したのではないか、というのですね?」
「そうそう。是、だ」
シロはゆっくりと口元を撓ませた。
妙に赤い唇を舌先で湿らせて。
「ほれ、起きろ」
とシロは軽く言い放った。
勾玉が震えて、飛び跳ねて、床を転がっていく。
どうして、と問う間もなく、勾玉から黒い靄が立ち上る。
「本当に出た」
と泰誠は小さく呟いて、右手の拳に雷を纏わせた。
靄はどんどん沸き、塊は大きく膨れていく。
それだけでない。いつの間にか、社の外からも一筋二筋と黒い靄が吹き込んできている。
ぐるりと一際大きく渦巻いた後、にょっきりと腕と脚が生えた。ぽんっと頭が出てくる。
「ほれ、頑張れ、元・軍人!」
壁に背を預けたシロが叫ぶ。
「言われずとも!」
と泰誠が重たげに肩を揺らした。
ぶん、と音を立てて、雷の球が飛ぶ。魔物はひらり躱し、雷は壁で弾けて消える。
そのまま一息で跳んできた魔物に、泰誠の右手が唸る。
今度は魔物の胴に入る。
雷の爆ぜる音に続いて、黒い塊が宙を駆ける。吹っ飛ぶついでに、魔物は拝殿の壁に穴を開けた。
――壁に穴?
倖奈は目を丸くした。
「泰誠、その魔物」
「黙ってて!」
その穴から泰誠も外へと出て行く。
また雷の音が響く。
拝殿の中で立ち尽くす。
「あれをどう思う?」
シロがゆらりと正面に立った。
嵯峨鼠の小袖の襟から覗く腕や胸元が蒼白い少年を、見つめ返す。
「今のは、魔物なの?」
「そうだと思わないのか?」
「思えない。だって」
と倖奈は唇を噛んだ。
「だって、なんじゃ? ほれ、言うてみろ」
シロの口がにゅーっと撓む。
ぎゅっと目を閉じる。
木々や稲を薙ぎ倒す風や波とも違い、家屋を焼き尽くす炎とも違う。ただ人間だけを正確に狙い喰らっていく存在が、魔物だ。
さらに言えば、魔物は家や物を壊さない。
「今壁に穴が開いたのは、あの黒いのがぶつかったから、よね?」
「そうそう。良く見ておる」
ぺちぺちとシロが手を鳴らす。
「魔物ではないと疑っているのは、それが理由か?」
「そう…… それだけ、なのだけど」
その身に集めているのは、間違いなく黒い影、瘴気だというのに。
と、そこまで考えて、またぞくりと背筋が震えた。
「集めているの?」
「うん? 何だ?」
シロは鼻歌を始めんばかりの顔だ。
身を翻し、外に出る。
野原の中で稲妻が光ったので、そちらへと走り出す。
「泰誠、待って!」
その時もまさに、泰誠の拳が黒い影を宙に飛ばした時だった。
「なかなか消えないんだけど、こいつ……!」
呻き声が返ってくる。
のそりと立ち上がりなおした――そう、脚が地面に着いている――影も、ぐるんと腕を振ってそれを当てようと伸ばしていった。
バチバチと鳴る左拳でそれを弾いて、腹に右を突きこむ。
薄を薙ぎ倒して、魔物が転がっていく。
「僕、余裕ないよ! 話なんか聞けない!」
でも、と倖奈は一歩踏み出して、叫んだ。
「それ、魔物だけど魔物じゃない!」
「だから黙っててってばー!」
懲りず起き上がった魔物に向かって、泰誠は走り出そうとして。
――グキッ。
音がした。
泰誠の顔が見る見るうちに蒼くなる。
「ちょ、ちょっと…… 腰ぃ……」
は、は、と短い息を繰り返して、片手で腰の上を擦りながらよろめく。
こける。
駆け寄ることも忘れ、倖奈は呆然とその様を見た。
「い、いた、た……」
地面に膝と片手をついて、彼は呻いている。ぽた、ぽた、と汗を落としながら。
「ぼうっとしている場合でないぞ」
目を剥いて振り返れば、シロがにたにたと唇を歪めていた。その彼がすいっと指さした先には、人の影がそのまま立ち上がったかのような、魔物。
辺りからひょろりひょろり飛んでくる黒い靄を吸い込んで、ぐい、ぐい、と大きくなっていく。
吠える。跳ぶ。
頭を抱えて、その場にしゃがみ込んだが、此方には来なかったらしい。
どおん、という音が後ろから聞こえた。
振り向けば、朱の鳥居が横倒しになっている。
「嘘」
さらに飛び跳ねて、影は拝殿の上に飛び乗った。
みし、という音が聞こえる。さらに重なって、大きくなっていく、音。
ぽかん、と口を開いた。目も限界まで見開く。
木造の建物はあっさりと潰れた。
立ち上がれない。
びよん、びよん、と去っていく影は追いかけられない。
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