32. 幸せなお姫様

 万桜まおの邸を訪ってきた客の顔を見て、倖奈ゆきなはあっと声を上げた。

天音あまね様」

 今日もまた、濃紺の肋骨服姿だ。肩章の意匠は鎮台のそれと異なっていて、彼女の所属が近衛隊だと告げてくれる。足元も短袴に編上靴となっているのも、市街を駆け回るのが役目ではないからだろう。

 玄関の三和土たたきに立った彼女は、片目を閉じながら敬礼した。

「叔母様のお招きとあって、喜んで参上した」

「天音様と万桜様は、ご親戚でいらっしゃったんですね」

「正確に言うと、私の祖母と色の宮妃が御姉妹だ。先々代の主上の妃が今上の祖母で、私と秋の宮の祖母でもある。先代の降嫁した妹が私の母なんだ」

「……知らなかった」

「大事な情報と思っていないからな、私が」

 明るい声の彼女について、庭を縁側沿いに歩く。女中が案内してくれたのは、万桜の私室の隣。ここまで踏み込めるほど、万桜と天音は親しかったのかと、倖奈は少し驚いた。

「叔母様、御機嫌よう」

 畳の上にふかふかの座布団を置いて座っていた老女は、ゆっくりと頷いた。今日は縦縞の紬で、帯留には大きな石が飾られている。石の煌めきにも負けなず白く輝く扇を手にした彼女は、それで自身の隣を指した。

「お上がりなさい。天音も、倖奈も」

「そうしたいんですけど、私、この靴脱ぐのに時間かかるんですよ」

 よっこらせ、と天音は縁側に腰を下ろした。

「せめて、なあ…… 短いといいんですけど」

 そう溜め息を吐いて、膝下まである靴の紐をゆっくりと解き始める。

「最近、若い女子の間でも、編上げ靴が流行っているんだって」

 指先は休めずに、天音は顔を倖奈に向けてくる。つい、ぱちぱちと瞼を動かした。

「これよりもっと短い足首くらいのものだ。今の倖奈みたいに女袴を穿いて、その下に合わせるのがいらしいぞ。靴は草履より暖かいから、これから寒くなるのに丁度いいかもしれないな」

「そうなんですね――買ってみようかな」

 応じると天音が笑い声を上げ、万桜の気難し気な頬も少し緩んだ。

 それから入ったさして広くない部屋の中にはいくつもの衣装箱。奥の壁沿いに置かれた桐箪笥の引き出しも出しっぱなしになっている。

「着物をね――整理しようと思いまして」

 万桜は静かに言葉を繋げた。

「もう何年も袖を通していない物がいくつもあって、それが勿体ないのですよ」

 近くの箱をすっと指先で撫でる。

「これなど、嫁入り前に来ていた服。今の私には着れません。よほどお前たちの方が大事に着てくれる」

「叔母様。お言葉ですが、普段軍服ばかりの私が頂いていいんですか? こちらも勿体なくしかねませんよ?」

「ですから、天音だけではなく。倖奈や、ここの邸の世話をしてくれる者たちにもね」

 万桜が笑うと、天音は手を叩いた。倖奈もぴんと背筋を伸ばす。

「……万桜様。わたしが好きに選んでもいいのですか?」

「他に誰か?」

「えっと…… 美波みなみとか」

 一緒に育ってきた彼女の名、言ったのは自分なのにちくりと胸の奥が痛む。

 何故か、万桜も天音も顔をしかめた。

「美波も呼びましたが、所用があると断られました」

「叔母様、それ、要件を告げた上で呼びました?」

「いいえ。ここに来た時に話そうと思いましたからね」

「だからですよ。何の目的かも知らされなくて来られなかったんでしょう」

 天音は肩を竦めた。

「ちなみに、名前だけで判断しましたが、その美波って子も鎮台の『かんなぎ』ですよね?」

 万桜も、揃えて倖奈も頷く。すると天音は溜め息を吐いた。

「すみません、余計なことを伺いました」

 それから天音は笑い直す。

「一番乗りできたことを喜んで選ばせてもらおうか、倖奈」


 真希の店とは違うな、と思った。

 これから作る着物のための生地を選ぶのと、すでに出来上がった着物の中から気に入ったものを選ぶ、という違いだけではない。

 店にあったのは、綿や麻――安価で手入れの簡単な生地ばかりだった。ところが万桜の着物はそのほとんどが絹だ。それも薄くて織の繊細なものばかり。

 これらを手に入れるために必要なものに思いを巡らせて、溜め息を吐く。


「これまた、立派な振袖ですね」

 と、手にした一枚を掲げて、天音が言う。

「叔母様、どんなに時にお召しになっていたんです」

「それは何度も着ていませんよ」

 はあ、と頷いた天音は、また違う箱を指差して声を上げた。

「こっちには打掛がありますよ。婚礼のものですか?」

「おや、こんなところに。懐かしい」

 膝で擦って近寄り、万桜は顔を伏せた。

「これを着た時は、まさか独りで過ごすことになろうとは思わなかった」

 万桜の良人おっとである色の宮は、若いうちにいなくなったと聞いている。この打掛を羽織っていた時は間違いなく、幸せな花嫁だったのだろうに。二人が夫婦として過ごしたのは五年程だ。

 丸まった背中に、倖奈は眉を下げた。

 天音も一度だけ肩を竦めて。

「結婚か…… 私には縁遠い話だな」

 からからと笑い直す。

「私を女子おなごとして扱ってくれるいかつい男が何処どこぞにいませんかね」

「おまえは一人でも強く生きていけるでしょうね」

 万桜が溜め息を吐く。だよな、と天音に笑いかけられて、倖奈は曖昧に微笑んだ。

 ずきん、と一際大きく胸が軋んだのは隠せただろうか。

「わたしも…… まだまだの話ですから」

「おまえにはきちんと家庭をもってもらいたいのですよ、私は」

 万桜が言うのに、天音と二人きょとんと振り向いた。

「おまえも、美波も、ひとりにしておくのは心配です。頼れる方と寄り添ってほしい」

 また溜め息を吐きだして、万桜は振袖の入っていた箱に体を向け直した。

「禁裏の園遊会など、好い機会だと思ったのに。先日のものが延期になったのは残念だった」

「夏のあれは延期が妥当な判断ですよ。そうでなくても、間違いなく正月はやるでしょうから、この先機会なんていくらもありますよ」

 そもそも、と天音は口の端を上げた。

「叔母様が心配しなくとも、ちゃんと倖奈は一流の男を捕まえてきますって」

 また胸が軋む。必死に笑む。

 万桜は首を傾げた。

「この振袖は倖奈が持っていきますか?」

「え?」

 瞬く。

「いいじゃないか、受け取れよ。私は他の長着から頂こうかな」

 天音は笑って他の箱を開け始めた。


 ひとしきり喋った後、部屋には女中たちが集まってきた。今度は彼女たちが選ぶ番なのだろう、明るい声が響く。

「天音様をお見送りしてきます」

 告げると、万桜に頷かれた。

 先導してくれる人はいないので、倖奈が玄関まで通す。

「ああ、長居した。良い気晴らしになった」

 首をゴキゴキと鳴らして、天音は笑う。

「こうなったら、本当に私の自慢の長着を見せてやらねばな。今度うちに来い。休みが決まったら呼ぶからな」

「はい。お待ちしています」

 頬が緩む。

「叔母様のご機嫌取りで引っ越したとは聞いていたんだが。倖奈はここで何をしているんだ?」

「何、とは?」

「日がな一日屋敷に居ても暇だろう?」

 ぎくっと肩を揺らす。

「一応、鎮台にはお手伝いに行っていた……んですけど」

「そうか。『かんなぎ』もそれなりに役目があるか」

 上がり框に腰を下ろしたまま、彼女はすっと左右を見遣って。倖奈を手招いた。

「……何か?」

 すぐ横に膝をつくと、天音は顔を寄せてきて、低い声を出した。

「先ほど名前が出た『かんなぎ』がいるだろう」

「美波ですか?」

 ずきん、と胸が軋む。ぎゅっと両手を握りしめていると、天音はもう一度周りを見て、ぼそりと続けた。

「宮将軍――鎮台の莫迦ばか司令官と好い仲になっている、というのは知っているか?」

「……本人には、恋人なんだ、と云われました」

 指輪を見せびらかせたあの笑みは勝ち誇った笑みなのだ、と今は判る。倖奈にない幸せを見せつける顔を思い出し、袴を掴む指先が白くなる。天音は長く息を吐いた。

「恋人と言えば聞こえがいいがな。四六時中張り付いていて、あれはなんのつもりなんだ」

 え、と首を捻ってから、そうかと頷いた。

 この間の鎮台での光景だ。馬車の席で並び、腕をとり、仕事の場にも顔を出して。

「邪魔だ」

 天音は吐き捨てた。

「鎮台の中ではもちろん、陸軍の司令府にまで連れてきた時は空いた口が塞がらなかったな。宮が連れまわしているのか、彼女がくっついてきているのか分からないが、正直、彼女がいることで深く突っ込んだ話ができぬと難儀している」

 別の音を立てて、体の奥が軋む。

「ごめんなさい、迷惑をかけて」

「いや、倖奈がかけているわけじゃないんだから」

 あはは、と天音は眉を寄せた。

「一番困っているのは鎮台の部隊長たちだろうな。まあ、世間話の一つだ」

 うん、と一つ首を振ってから、天音は去っていった。



 部屋に戻ると、衣桁に先ほどの振袖がかけてあった。

 すぐに畳んでしまっていないのは、風を通してからということだからだろう。

 その傍の畳の上に、ごろんと身を転がした。

 長い袖や袂の紅の地の中に浮かぶ瑞雲。伸びる松と駆ける鶴。いつもの琥珀や鬱金の小袖との違いがいろいろあり過ぎて、気がひける。

 ふと「似合ってないと一番惨め」と言われたことが思い出された。


 まだ暑い時期だった。

 氷菓子を御馳走になった。

 喋ったのは、着物のことやそれに合わせるの小物のこと。向けられていたのは柔らかな笑み。

 ただ、ただ楽しかった。


 くすん、と鼻を鳴らした。背中を丸めて横を向く。

 今度見えるのは、紅葉が舞う庭。

 それはそれで、同じ色の着物の袖を思い出してしまう。

 いつも好んで赤い色を着ている彼女。小さな頃から一緒に居て、沢山のことを言われてきたけれど。


――あんただって、柳津大尉と恋人になりたいくせに。


 つい一昨日のそれだけが、ずっとずっと耳の奥で響いている。

「恋人って何」

 四六時中傍にいることをいうのか。

「結婚って何?」

 寄り添うとはどのようにだ。

「ただ話ができるだけじゃ、駄目なの?」

 もう一度鼻を鳴らす。ごしごしと拳で瞼をこする。

 ごろんと仰向けになって、両の掌を上げる。

 小さな手だ。いつも白い手袋に覆われているけれど、本当は日に灼けていて硬そうな、大きな掌と繋いだら間違いなく己の幼さが際立つに違いない。

 そんな自分の恥ずかしい想いを知ってしまった彼はどんな心地なのだろう。

「困っているに決まってるじゃない」

 けられなかったのは優しいからだと分かっている。ぎゅっと唇を噛んで体を起こし、もう一度顔を拳で擦った。

「美波の莫迦ばか。もう、お話できなくなっちゃったじゃない」

 自分が気まずいから、昨日も今日も鎮台には行っていない。秋の宮が用意してくれた手帳も活かせていないどころか、社で見た魔物のことも伝えられていない。

「こんな我儘を言っていたら、やっぱり子供だって言われちゃうかしら」

 ぐいぐい擦っているから、目の周りが痛い。

 もう一度畳の上にひっくり返って、大きく息を吸った。

 吐き出す。

――明日は鎮台に行こう。

 想いは通じなくてもせめて、嗤われることはないように。

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