31. あと一歩の距離(2)
すぐさま魔物は
手首にかけていた
残された先っぽはくるんと丸まって、新しい首になった。そのまま宙でとぐろを巻き始める。
頭はそのまま、拝殿の中をぐるりと見回したようだった。
ぐるぐる回りながら、落っこちたままの鏡、散らかった榊の葉や倒れた酒瓶、しわくちゃになった掛布、床の染み一つに至るまで、じっくり確かめている。
倖奈は浅い呼吸を繰り返して、宙で回る黒い靄を見つめた。
――このまま見ているだけでいいの?
この社の検分を終えたら、何処に向かうつもりなのか。
――また誰かに入ってしまったら、大変。
先日の神主は、漂う魔物に何をしただろうと思い返して、膝に力を込める。ゆっくりと鏡を拾い上げるとそこには、まっさおな顔をした自分がいた。
「怖くないわ」
両手の指先をかけて、鏡を掲げ持つ。
外の光を映した弾いたことで気が付いたらしい。頭をのそりと向けてきた。
「鎮まりなさい」
声をかけると、魔物はその首を傾げた。
倖奈も同じ仕草をする。
「……厭なの?」
――間抜けな質問ね。
だというのに、頷かれた――ような気がした。
瞬く。何度も何度も。その最後に、魔物の向こうの境内が見えた。
常とは違うのだろう風景。騒がしい声。
そう言えば、と目を丸くした。
あの日も、この社にとっては常とは違う日だったのかもしれない。
最初にやってきた時に聞こえていた祝詞と鈴の音が急に途切れたのだ。それから、魔物が出てきた。
途切れた原因は何だ、と思考を巡らせる。
――祀られる魂には和魂と荒魂とあってなぁ。ここは荒魂。早い話が、魔物。
シロが扉を開けた時に切れたのだ、と思って。
「煩いのは嫌いなのね」
言うと、魔物はぐるぐる回るのを止めた。
鏡を下ろし、一歩踏み出して、それに右手を伸ばした。
「あなたは静かに眠っていたいだけ。祝詞を聞いて、鈴の音を聞いて、近くに住む人たちの祈りを受けて」
指先が黒い靄に微かにかかる。すっと体が引っ張られた。
床に転がる。倖奈も、鏡も。
顔の横で弾んだ鏡に靄はずるりと首を突っ込んでいった。ぬるぬると潜り込んでいく。
尾の先まですぽんと収まってもまだ、倖奈は床に転がっていた。
「なんだったの……?」
呟いてようやく起き上がる。覗きこめば、一点の曇りもない艶。指先で撫ぜると、光を弾いてくれる。
うん、と呻いて、膝の上に置いたそれを何度も擦った。
後に。
「何をやっているんですか!?」
突然の声に飛び上がった。
全開にされた戸口には、神主が腰に手を当てて立っていた。
「拝殿の中に勝手に入らないでくださいよ」
どんどん、と床を鳴らして近づいてきた彼は、倖奈の膝から鏡をひったくった。
「ああ、祭壇がぐちゃぐちゃだ」
頭を掻きむしってから、彼は奥へと進んでいく。
「お酒は零れてるし!
「ごめんなさい」
両手を口に当てて、尖った肩を見遣る。
「あの、その鏡……」
「いいから出て行ってくださいよ! これだから
白い袖と紫の裾が勢い良く揺れて、ガタンという音と共に御幣が倒れる。
「ああ! もう!」
「……ごめんなさい」
神主はもう振り向かない。
鏡の表には、何もない。
その場でもう一度、戸口でもう一回、頭を下げてから
「君。何やってんの」
眉を寄せて、唇を噛む。斎も眉を動かす。
「怒らせちゃったじゃないか。話をしてもらえなくなっちゃったじゃないか!」
溜め息とともに山高帽をかぶりなおして、彼もくるりと背を向けた。
ぎゅっとおさげの先を握る。
茜色の風の中を、ゆらゆら歩く。喧噪が煩わしい。
自分の呼吸の音も、汗を吸った襦袢も、額に張り付く髪も、鬱陶しい。
長い時間をかけて辿りついた鎮台の表門の前で。
――どうやって中に入るつもりなの!?
手段を講じ忘れていたことに目が回った。
先の見通しが甘いのだ、だから誰かを困らせたり自分が悩んだりするのだ、と唇を噛む。
――子供なんだわ。
門の横に立つ衛士を睨む。彼も、倖奈をちらりと見たが、すぐに放っておかれた。
逡巡の後にやっと踏み出そうとしたら、通りの向こうから馬車が走ってきた。
それは鎮台の前で止まる。
見上げると、中から顔を出した人と目があった。
「やっぱり倖奈だわ」
「……
何度も瞬いてから、彼女の名前を喉から絞り出す。
そんな間に、一人先に降りてきた。
「秋の宮様」
背の高い青年。滑らかな生地の肋骨服では徽章が輝く。袖章と肩章はこの鎮台で一番高位の者だと主張している。だが、当の本人は全く威圧感を感じさせない顔立ちで。
「どうしたの、立ち尽くして」
くすっと笑うので、頬が熱くなった。
「その…… 引っ越したら、中に簡単に入れてもらえなくなってしまって」
「ああ、そうか。そうかも」
首の後ろを掻いて、彼はさらに顔を綻ばせた。
「今は一緒に入ろう。それでとりあえず、指令室においで。許可証は僕の名前だし」
頭を下げる。
衛士は無表情に門を開いてくれた。
中へと秋の宮が歩き始める。その隣に美波が駆け寄った。
黄色の袖を翻して振り返った彼女は、紅の鮮やかな口の端をきゅっと上げた。長く伸ばされた黒髪はさらに艶を増したようだ。
胸の底がずしりと重くなった。足も重い。
階段を登った先の部屋の前では、顔見知りの秘書官がゆっくりと敬礼した。
「お戻りになるなり恐縮ですが、殿下。第七部隊の
「面倒な顔ぶれだなぁ」
「特に林田大尉は急ぐと中でお待ちです。柳津大尉へも帰還を伝達させますからね」
その言葉に、傍に立っていた兵が一人、階段を駆け下りていく。重たげな木の扉が開くと、中にいた目が細い軍人が筋張った腕で敬礼する。
「その前に倖奈の件を片付けさせてよ。美波も、お出で」
秋の宮は頭を振りながら言って、奥の机に座る。
この間も、美波は秋の宮の横から離れない。
何度も瞬いて、つい秘書官の顔を見た。彼は口をへの字に曲げて、肩を竦める。
先に入室していた大尉殿は靴で床を叩き、あからさまに苛立っている。
もう一度美波を見遣る。彼女は笑っている。艶めく髪も、隙間から覗く白いうなじも、まっかな着物も輝いている。
秋の宮はさらさらと万年筆を走らせた紙を、掌より少し大きな革の入れ物に挟んでくれた。
「はい、これ。次から衛士に見せて入ってきて」
「ありがとうございます」
両手で受け取って、もう一度美波を見る。
「なに?」
「出ようよ」
言うと、美波は唇を尖らせた。だが、大股で秘書官が近づいてくる。大尉殿の床を叩く音も大きくなる。倖奈は美波の袖を引っぱった。
彼女はひょいと袖を揺らして倖奈の手を払い、つかつかと扉へ向かった。慌てて頭を下げて、それを追う。
背後で扉が閉まった後、美波は振り返ってきた。
「見せて」
「何を」
「今の。宮様がお書きになった文字」
ぎゅっと唇を上げた顔。両手で握っていた革の手帳を渡すと、彼女はゆっくりと開き、二人で覗き込んだ。
基本の枠は、元から印刷されていたのだろう。だが、倖奈の名前と鎮台のこと、秋の宮自身については、彼が書いたらしい。
「素敵な文字ね」
うん、と頷く。
流麗な字だ。形が整っているだけでなく、線が柔らかい。
「柳津大尉と比べて、どう?」
ふっと笑いかけられる。倖奈は目を見開いた。
「どうして比べるの?」
「ええ? だって……」
美波は奇妙に裏返った声を立てる。
「あんたが好きな人だからよ」
つい、眉を寄せる。
「……それが、なんで?」
「あんた、本気で言ってる?」
「だって分からないもの」
「いやあね…… 分からないことが、分からないわ」
美波は肩を竦めた。
「説明したほうがいい?」
笑みは崩れていない。
自然と指先に力が籠り、それを逃がそうと深緑の袴を握る。唇の上と下はぴったりとくっつけた。
「強情なんだから。教えてあげる」
「わたしね、秋の宮様とお付き合いさせていただいているの。一緒にお出かけしたり、手を握ってもらったり、あとはそうね」
と、黙り込んだ倖奈を
「
花が踊る袖を揺らして、うふふ、と彼女は息を漏らす。倖奈は瞬いた。
「どうして?」
「何が?」
「どうして、そういうことをしてもらえるの?」
「だから、お付き合いさせていただいているのって言ったじゃない」
目を一度細めて、すぐに美波は肩を揺らしだした。
「やあね。倖奈ったら、お子ちゃまなんだから」
むっと唇を尖らせる。美波は小刻みに体を揺らして続ける。
「もっとはっきり言わなきゃ分からない?」
「いい、言わなくて」
「聞きなさいよ。本当、強情なんだから」
ぷいっと横を向いたのに、美波はすすすと反対側に回ってきた。
「恋人なのよ、私たち」
真っ直ぐに立って、言う。
倖奈は眉を下げた。袴にさらに皺を寄せながら、睨む。
「それと、宮様と史琉を比べることに何の関係があるの」
「……羨ましくないの?」
今度は美波がきょとんとなった。
「大尉のこと、好きなくせに」
かっと頬が熱くなる。
「あんただって、本当は手を繋いだりとかしたいでしょ?」
「止めてよ!」
堪らず出した大声に、廊下を歩く人達が何人も振り返った。顔から火が出そうだ。
美波の手から手帳をひったくって、階段を下り始めたが、すぐに呼び止められた。
「三度目。強情ね」
くすくすくす。袖で口元を隠して、美波が言う。
わざわざ降りてきて、美波は倖奈の下の段にだった。見上げてくる目元に浮かんでいるのが嘲りの色にしか見えない。
「羨ましいでしょ」
「別に」
「正直に言いなさいよ」
首を振って、唇を噛む。
「あんただって、柳津大尉と恋人になりたいくせに」
その瞬間、美波の方の向こうに、立ち止まっている人が見えた。濃紺の肋骨服を着て、制帽を被って、軍刀を腰に下げた人が。
視線が合う。
いつもなら、吊り上がった眉の下で泰然としている瞳が、大きく見開かれていた。
「
堪らず呼んだ。
え、と美波も振り向く。あれ、と小さく呟くのが聞こえた。
しずかに彼の口元が綻ぶ。白い手袋に覆われた指先がそっと制帽の前を下ろす。コン、と革靴が木の階段を鳴らした。
カツン、カツン、と迷いなく昇ってきて、横を通る時に。
「気持ちだけ貰っておくよ」
そう言った。
足音は規則正しく、遠くなっていく。
乾いた笑みを浮かべた美波を
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