30. あと一歩の距離(1)
寮に近い門から入ろうとしたら、もう住んでいるわけではないのだから、と開けてもらえなかった。
では、と表門に回れば、何の用だとすったもんだの遣り取りになった。
何か簡単に中に入れてもらえる手段を用意しようと考えて、何かとはなんだ、と一人で溜め息を吐いた。
「寮から出たら、『かんなぎ』として働けなくなるのね」
美波が寮から移りたがらなかった理由はこれか、と呻く。
自分ももっと働きたいと訴えるべきだったのだろうか、だけど万桜が喜んでくれているのだから、と足元がふらつく。臙脂色の絨毯が絡みついて、更に進みづらくなる。
どうにかこうにか階段を昇り、中庭を見下ろせる廊下に出た。
窓の外、煉瓦で舗装されたところに一部隊整列している。翻る旗が、それが第五部隊だと告げる。
開けたままだった窓からそれを見下ろした。
最後尾に立つ頭一つ大きいのは
「いいなぁ……」
呟く間にも、視線は滑らかに最前列へと動く。数人、列と向き合うように立つ人たち。その中心はもちろん部隊長だ。
「
隙なく着込まれた濃紺の肋骨服の襟で徽章が輝く。制帽の下、今は眼鏡をかけていないらしい。変わらず口の端を上げて、鋭い声を飛ばしている。
その冴えた視線が皆を見回して、ふと、建物へも向けられた。
ぎく、と体を揺らす。つい、窓の影に身を翻す。そして、肩を落とした。
――何をしたいの。
寮へ辿り着くまでの間に、日はだいぶ高いところまで登ってしまった。
一階の一番広い部屋、
その中の、大きな窓の傍の長椅子に座る人が顔を上げて、視線が合った。
「美波」
今日は何故か、黄色の着物だ。百合や薔薇といった洋花の刺繍が踊っている。
ちらり、と倖奈は自分の着物に視線を落とした。今日もまた鬱金色の袷に深緑の袴、今年になって身に付けるようになった色だ。さらに、手拭を利用して半襟を作るという小技を使っている。おさげ髪だけは今までどおりだけど。
ぎゅっと拳を胸の前で握って、扉をくぐったすぐで立ち止まる。膝の上の雑誌を閉じて、彼女は手招いてきた。
「本当に来たの」
「来たわ」
ひくく応じると、笑われた。彼女の視線が、頭のてっぺんから爪先までずるりと滑っていく。さらに身を固くする。美波はもう一度笑いなおした。
「今来てもやることないわよ。みんな出かけた後だもの」
しつこく手を振るので、渋々近寄る。彼女も含め、ここに残っているのは出不精な
「
「ええ。今回は都中で調査したいからって、手分けするんですって」
瞬く。そこにもう一人、中年の男がひょっこりと寄ってきた。
「手伝ってくれるか」
ぎゅっと眉を寄せて頷く。みぞおちの上が痛む。
「何を調べるの?」
「この間おまえが見た、神社のご神体から魔物が出てきた騒動があるだろう? あれと似たような話がないか探すんだ」
無精ひげをいじりながら、彼は倖奈に地図を差し出した。碁盤の目が描かれた都の地図だ。
「泰誠と常盤は、南の稲荷を探りに行っている。他にも、ここに近い神社と東側の社をだな……」
そう言って、男は地図を転々と指さす。
鎮台は右上――やや北東より。道には路面電車の線路も記されている。その途中にいくつも、朱で×印。
「印を付けているのは?」
「第五部隊の方で目星をつけたところだ」
「
ふふ、と美波が言葉を挟む。つい、眉を寄せてその顔に見向いてしまった。
輝く黒目。そこに映っているのを知りたくなくて、目を背ける。その分、地図を睨む。
「この、鉄道駅に近いところは、この間の神社よね?」
殊更ゆっくりと問うと、男は頷いて、手を打った。
「そうだ。そこの調査はおまえが行けば世話なしじゃねえか」
「え?」
首を傾げると、男は一つ咳ばらいをした。
「似たようなことが以前も起きたことはないか神主に聞いて来いよ。顔が通じてりゃ話も早いだろ? 今日は遠出している連中が多いから尚更、近場を頼むぜ」
「う、うん」
ぱちぱちと瞼を動かして、頷く。
「ご神体から魔物が出てきたことが他にもなかったかとか、聞いてくればいいの?」
「おう。任せた」
ばしばしと倖奈の背中を叩いて、男は離れていった。
その先で、大きな机に他にも本や書類を広げてうんうん唸っている。
もう一度瞬いて、倖奈は美波を見た。
「浮かれて怪我しないようにね」
ふふ、と笑われる。きつく、自分の袖を掴む。
「厭な目には遭いたくないでしょ?」
「もちろん」
「大事にしてくれる人がいるなら、自分を大事にしなきゃね」
そう言って目を細めた美波の手には見慣れない指輪。洋渡りの、いかにも値が張りそうな黄金のものだ。
「これ、素敵でしょう」
と、反対の手で触れて、美波は紅を佩いた唇で弧を描いた。
「頂いたの」
誰に、と言いかけて唇を噛む。美波は視線だけで、羨ましいでしょう、と問いかけてきた。
人々と木々がこっくりとした色合いをまとう午後。乾いた空の下で路面電車に揺られる。
目的地にはあっという間についた。
――この様子じゃ、迷うこともできないわ。
一番近い停車場から朱色の鳥居まで、ひっきりなしに人が続いているのだ。
纏う着物の形は和装から洋装までバラバラ。年頃も一致していないが、男が多い。カメラや帳面を持った人が多い。
皆が皆、記者なのだろうか、と眉を寄せたところで。
「フロイライン!」
声がかかる。
「
眉を下げて振り返る。
いつもの珈琲色の三揃いに山高帽を被った彼は片手を上げて、駆け寄ってきた。
「良かったよ、逢えて。最近、連絡が取れなかったから心配していたんだ」
「……え?」
瞬く。斎も目を瞬かせた。
「何度も電報を送ったでしょ?」
「……知らない」
呆然と呟く。斎が顔を歪める。
「嘘だ。ちゃんと鎮台に宛てたよ?」
「鎮台に…… そうか、 私が引越ししちゃったからだ」
「え? お引越し? それで手元まで行かなかったの?」
斎が唇を曲げる。
「そうだとしても、鎮台のお仲間が教えてくれればいいのにね。冷たいなぁ」
「ごめんなさい」
「まぁいいよ。無視されていたわけじゃないなら、ね」
それに、と笑い、斎は鳥居の中を見た。
「フロイラインに逢えて助かった。ちょっと、力を貸して」
首を傾げる。彼はイヒヒと笑った。
「本当は大尉殿が
「え?」
ぱしっと手首をとられる。引かれる。
「離して」
「いいからいいから」
言って、斎はぐいぐい進む。
鳥居を潜った先、砂利の敷かれた境内は人で溢れている。
「同業者だらけだよ」
斎が小声で言う。
「皆、先日の騒動の続きを知りたがっているんだよ」
「あれからまた、何かまた起こっていたの?」
肩と声を落として問うと、相手は違う雰囲気で声をくぐもらせた。
「何もないのに、作ろうとしているんだよ。起こっていないことは起こっていないと書けばいいのに、面倒くさい」
うん、と頬を引き攣らせる。
そして
彼を取り囲むのは、それこそ年頃も装いもバラバラの人たちなのだが、一様にぎらついた眼差しをしている。
わあわあ響く、いくつもの声の合間を縫って。
「いい加減、取材は勘弁してくださいよ」
神主がぽつりと言った。
「何度問われても、お話しすることは変わりませんよ。ここの縁起は、魔物を治めた武士を祀ることからです。そして、魔物はこの間の一回しか出ていない。もう充分でしょう」
それに被せるように、いやそうじゃないだろう、と訝しがる声が響く。
見上げれば、斎は肩を竦めた。
「ああいう邪魔な手合いを追い払わないと、突っ込んだ話ができそうにないね」
ごきっと首を鳴らし、彼は一人で人だかりに歩いていった。
自由になった手首を反対の手でさすってから、周りを見回した。
スギが空に伸びる合間に、ツワブキとサザンカが揺れている。
風に頬を撫でられて、ぎゅっとおさげ髪の先を握る。もう一度見回す。
緑の葉が僅かに曇って見える。砂利が軋んだ。
――この間は子ども達が遊んでいたのに、いないね。
世間話に興じている婦人たちも、拝殿に下がった鈴を鳴らす人もいない。
野太い声ばかり響く境内。
「いつもと違うの?」
ふと、口から零れた言葉に、眉が寄った。辺りが少し暗くなった気がした。そのまま拝殿を、その奥を睨む。
すっと騒ぎ声が遠くなった。
踏み出して、階に足をかける。木の板と草履が打ち合ってコンッと鳴った。そろりそろりと登って、拝殿の戸に掌を当てる。
呆気なく開く。
ほのぐらく、ひんやりとしたその中に踏み込んで、倖奈はさらに奥を見つめた。
野菜や酒瓶の並んだ祭壇。立てかけられた榊と御幣。その奥にはまた階――本殿へ、この社の主を祀った処へと続くのだろう。
喉がひりつく。
後ろでガランガランと音がしたので、体を小さくして振り向く。開け放したままの扉の外で、社頭の鈴が鳴ったらしい。麻縄がぐるんぐるん揺れている。
「びっくりした……」
前に向き直って、もう三歩踏み出した。
祭壇の横を抜けて、注連縄で区切られた前へ。こめかみから首へと汗が流れる。
縄の影で煌めく物が見える。鏡だ。先日の騒動で魔物が吸い込まれた、それ。平らかなそこに黒い影が映っている。
もう一度、汗が流れた。背中が冷える。
短い呼吸を繰り返しながら縄を潜り、鏡に手を伸ばすと、ぴたりと指先が吸い付く。
途端、中から黒い靄が長く伸びてきた。
息を呑む。鏡が床に転がり落ちる。後ずさると、腕が何かにぶつかった。
構わず、一つに絡まった靄は迫ってくる。
左手で振り払う。千切れた欠けらだけが風に紛れていって、残りはまたぐるりと絡み合う。
ふとい、ふとい蛇だ。その無いはずの口が動いた気がしたから。
「怖くないわ!」
砕けかけている腰を叱咤した。
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