29. 将軍閣下の重なる悩み

 がたん、と馬車が跳ねた。

「いて!」

 壁についていた肘がずれて、頭を壁にぶつけた。

「大丈夫ですか、秋の宮様」

 外から御者が声をかけてくる。

「平気だよ……」

 答えながら、右のこめかみあたりをさすった。


 そうして見る窓の外の景色は、いつもと変わらない。

 色を変えていく街路樹。白塗の壁の邸と赤煉瓦のそれとが半分こずつの街並み。和装の人と洋装の人も半分ずつくらいだろうか。だが、羽織や外套を着た人が多くなってきている。

 しくり、と胃が痛むのも禁裏帰りだからいつものこと、と秋の宮はまた溜め息を吐く。


「今日はいつも以上に面倒なお話だったねぇ」

 目を閉じると先ほど会ってきた人たちの渋面が浮かぶ。

「鎮台と近衛の統合か……」

 指揮権を上に上にと辿っていけば結局、同じ人に――この国の元首、皇へと辿り着くのだ。同じ指揮権の中に収まっているのだからくっついても何の問題もないのではないだろうか。

 そう言いたかったが、近衛隊少将殿の無表情に圧倒されて、口を噤んだ。

 内務大臣殿も何か思惑があるようで、統合には渋るところがあるらしい。


「一個になれば、僕はお役御免なのになあ」


 誰もいない中でだけ吐き出せる本音。

 肋骨服の窮屈な襟元に指先をかけて、引っ張る。指先に力を込めたり抜いたり、繰り返す。その中でまた、車輪が石畳の端で跳ねた。

 反対側の壁にぶつかる。秋の宮は呻き、椅子に突っ伏した。



「まさか、乗り物酔いですか」

 鎮台の入り口で出迎えてくれた秘書官は、何度も瞬いた。

「うん、へいき…… へいきだから、筒井つつい君」

 相手の名を呼びながら手巾ハンケチで滴る汗を拭き、秋の宮は背筋を伸ばす。


「問題ないよ、うん!

 それよりも、先ほど禁裏で言われたことをさっさと済ませたいから、第五部隊に行くよ」

「承知しました。今の時間、第五部隊は屋内待機ですが、間もなく哨戒の当番です。だから長居はできませんよ」

「さっさと終わらせればいいんだよね」


 せわしなく口と足を動かして煉瓦の建物の中を進む。


 北向きの部屋の樫の扉を開けると、部屋の大きな卓子テーブルを囲んでいた人たちが一斉に振り返り、挙手の礼をとった。

「堅苦しいのは無しだ。ええっと、柳津やないづ大尉、いる?」

 そう話す最中には、奥の机から一人出てきた。


 背の高い秋の宮に比べれば低くとも、成人男性としては充分な身長。肩の幅や厚みはむしろ、彼の方があるかもしれない。刀を振ることに慣れた体躯だ。


 黙って正面に立った彼に、秋の宮は眉を下げてみせた。

「面倒な話なんだけど」

 そう切り出すと、彼は微かに目を細めた。

「この間の、魔物が人に憑依した件について、もっと詳しく知りたいと」

「どなたが」

三条さんじょう大臣――この国の内務大臣だよ」

 そこまで言ってから秋の宮は、ああ、と宙を見上げた。


 大尉は、お待ちを、と言うと、他の部隊員たちにかるく手を振ってから、自身は窓際の机から紙の束を取り、秋の宮を部屋の真ん中の長椅子に案内してくれた。

 部隊を訪ねて来た人を通すための場所なのだろう。対で置かれたそれの奥側に腰を下ろす。入り口側に筒井秘書官と柳津大尉が座る。


「もっと詳しくと言っても、起こった出来事そのものの話ではないですね?」

「そうだよ…… なんでそんなに話が早いの?」


 瞬いて見せても、彼の強面は揺らがない。

 また手巾で額に浮いた汗を拭いて、言葉を継ぐ。


「原因というか、対策というか。まあ、ようは同じ事件を起こすなってことだったんだけど」

「当然でしょう」

 大尉の手元の資料には、先日の日付の新聞がいくつもある。どれもこれも、神社の一件に触れているものだ。

「話が広まった分、民が動揺しています。特に皇都日報が大きな扱いをしていましたね。それも軍に否定的な言質げんち付きでの紹介だ」

 筒井が言うと、柳津は初めて表情を変えたが、苦々しそうなそれはすぐに消える。


「今、同じような実例がないか調べています。そこから、防御策や起こった場合の対応策について調べられればと思ったのですが」

 と、少しだけ、大きな卓子の周りでガヤガヤと喋る軍人たちを見遣ってから、彼は首を振った。

「軍の記録には同例は一切なし。なので、今は遡れる限りの新聞や、街の噂話を一つずつ拾っているところでして」


 取り出された一枚の皇都の地図。朱で×印が付けられている箇所がいくつもある。


「特に、私が事に巻き込まれた神社と似たような伝承のある社を探しました。今度、現地に行ってみようかと」

「一人でかい?」

「いいえ。『かんなぎ』に応援を頼みます」

「そうだよねえ…… この間は倖奈ゆきなが一緒だったんだっけ」

「ええ。お願いしたら、別の『かんなぎ』が来てもらえると返答を貰っています」

「また倖奈を連れて行けばいいんじゃないの?」


 先日の一件の解決には彼女がその不思議な力を振るったのだと聞いているのに、と付け足しても、大尉は首を横に振った。

「彼女は、色の宮妃のお宅に移ったんじゃなかったでしたっけ」

 秘書官が被せる。

「ああ、そうか。簡単には出てこられないかな」

 秋の宮はまた宙を仰いだ。


「他に誰かいるかな? みんな、焔を出すとか雷やかまいたちを飛ばすとか、そういう物騒な人たちばかりだけと」

「文句は言えないでしょう。魔物と戦うために集められた人たちだ」


 秘書官が眉を寄せる。柳津大尉は、眼鏡の縁を指先で押し上げた。


「これは魔物に絡む案件です。『かんなぎ』を含むこの鎮台が解決すべきでしょう」

「そうだね」


 うん、と呟いて、姿勢を戻す。


「早めに頼むよ。大臣にはせっつかれたんだ」

「善処します」

 頷いて、大尉は、束の端を机で揃えた。机で軽い音を立てながら、そう言えば、と目を細める。


「資料を調べている中で気になったのですが。私の前任者が最後に追っていた魔物――あれは最後どうなったのですか?」


 ずきん、と心臓が跳ねる。

 そろりと筒井を見れば、彼もあおい。


「それはね――分からないというのが正確なんだけど」


 柳津の眉がぴくりと動く。

 心臓と、時計が鐘を打つ。

 時間だ、と部屋の中の軍人たちはいっせいに、書類を片づけたり地図を畳んだりと慌ただしく動き始めた。

「哨戒だね。よろしく」

 声が上擦る。何事もなかったかのように、三人立ち上がった。


 大尉は真っ直ぐ、窓を背にした机に戻っていった。その前にはあかい着物の娘。


美波みなみじゃないか」


 秋の宮が声をかけると、彼女はにっこりと紅を佩いた唇を動かした。


「まさか、待っていたの?」

「ええ。せっかくお持ちしたのに、机に置いていくだけなんて寂しいでしょう?」


 彼女の胸の前で分厚い束が潰れている。

 秋の宮は肩を竦めた。

 一方で、大尉は口の端を僅かに吊り上げて、片手を差し出す。

「御苦労様です」

 美波の眉もまた、微かに引き攣る。


 真ん中がよれた紙を引き取って、大尉はがしゃんと軍刀を鳴らした。


「この部屋は締めてしまいますので、どうぞ」

「ああ…… いってらっしゃい。美波、出ようか」


 肩を叩くと、彼女は唇を尖らせた。

 額をまた汗が流れる。


――真夏でもないのにな。



 ふかふかの絨毯の上で足音を立てるという、なかなか貴重な光景を繰り広げて、第五部隊は出て行った。



 掌にはまだ汗が残っている。


「取り逃がした、とはっきり言えれば、まだ楽だったのにね」

 振り返ると、筒井が首を振った。

「滅相なことをおっしゃらないでください。鎮台のここ数年で最大の汚点ですから。宮様の経歴のきずになりますよ?」

「僕は構わないんだけど!」



 雨の中の戦闘。

 指揮官の負傷に慌てふためいているうちに『見失った』のだ。

 その場にいた軍人も『かんなぎ』も、遠くから眺めていた住人も、誰も彼もがだ。



「ああ、もう」


 また汗を拭く。白い手巾には染みが出来てしまった。

 秘書官に目くばせして歩き出そうとする。


「美波も、行こうか」

「ええ」


 頷きつつ、彼女の視線は『かんなぎ』たちの棟とは真逆を、鎮台の外へと向いている。

「どうしたの?」

「お喋りしたかったんで」

 ふふ、と息を漏らした彼女は、秋の宮を見上げてきた。

 全身で女子を主張する姿に吹き出す。


「お喋りなら、『かんなぎ』の女の子たちがいるだろう? 一番の仲良しは――だからそうか、倖奈か。彼女が引っ越して、喋る機会が減ったかい?」

「機会が減るもなにも。仲良しとは違いますし」


 唇をむっと突き出して、彼女は首を傾げる。秋の宮も頭を傾けて、秘書官を見た。

 彼は何も言わない。


「お喋りか。僕でよければ、司令官室に来るかい?」

 美波の顔がぱっと明るくなる。

「よろしいんですか? お邪魔じゃない?」

「僕は急ぎのことはないし」


 ほとんどのことは、誰かに頼めば済んでしまうのだ。皇家から箔をつけるためだけに送り込まれた将軍など、本来は閑職のはずだ。


――働いてなんてやるものか。


 どうぞ、と美波の背を押す。

 軽い足取りの音は、毛足の長い絨毯が吸い込んでいく。


 第五部隊のそれよりも広く、窓も大きな司令官室。

 彼女を布張りの長椅子に座らせると、秘書官は黙ってお茶を出して、黙って部屋を出て行った。

 お茶が乗ったのは、猫足の木の卓。洋風の華を持ったそれにも、美波の着物の艶やかさは劣らない。

 着物の赤の中に踊るのは、薔薇をはじめとした洋渡の花たち。赤からはみでた手とうなじは、しろくてふわふわと柔らかそうだ。


 静かにお茶を啜る彼女の喉に、視線が吸い込まれ、何度も目を瞑った。


「それで、何を話したかったんだい」

 精一杯の笑顔を向けると、美波は首を振った。

「特にわたしから話したいことがあるわけではないんですの」

「そうなの」

 上体から知らず力が抜ける。


「まさか気楽な世間話を柳津大尉とするつもりだったのかい」

「あら? 結構お話を聞いてくださるようよ。倖奈によれば」

「へえ…… いつの間にあの二人は親しくなったんだい」

「わたしも知りませんの。宮様だったらご存じかと思ったのに」

「全く知らないよ」

「残念。知りたかったですわ。だって、倖奈ってば、柳津大尉のことも下の名前で呼びますのよ。何がきっかけか、知りたいと思いません?」

「それは知りたいねえ……」


 強面の部下を思い出しながら、だらけたまま座っていても、対する美波はすっと背筋を伸ばしたまま。


「いつの間にか、倖奈は柳津大尉と親しくなってましたの。わたしに何も言わないで。

 それだけじゃないんですけど、最近、こう…… 寂しくって」

 と、掌を襟元に当てる。紅の絞りの半襟が見える。

「とても、言い表しづらいんですけど。わたしだけ置いていかれているような気がするんです」


 秋の宮は顔だけ上げて、息を吐いた。


「それはなんとくなく、分かるなぁ。僕も置いてきぼりを食ってるし」

「宮様も?」


 美波が笑う。

 すっと肩の力も抜けた。


「政治はもちろん、軍の動かし方もよく分からない」

「司令官様なのに」

「敵がいるっていうのに、立ち向かわなきゃいけないってのが…… そうだね、億劫なんだよ」

「戦わないで済めば、みんな楽ですもの」

「そうだよね」


 起き上がり、軽い笑い声を立てる。美波もくすくす笑った後、ふと表情を曇らせた。


「変わってしまうと、面倒なんです」

「それも分かる」

「わたしのせいじゃなくて、向こうが変わってしまったせいで悩まなきゃいけないって、困ると思いません?」

「ああ、そうだね」


 変哲のない、波風のない毎日を送りたいのだと言ってみようか、とふと思った。

 悩み事などごめんだ、と。

 ぐるぐると、いろんな人の顔が浮かんだ。兄であり主上である人、幼馴染であり同僚である女性、民の安寧を求めると言い切った老翁、鎮台の役目を強く言い切った、刀を携えた軍人たち。


「宮様?」


 呼ばれて、がばっと顔をあげた。いつの間にか、真正面に美波が立っている。


「お加減が悪いんですの? 早くお帰りになって、休まれた方がいいのでは?」

「いいや、そんなことは」


 応えつつ、溜め息を吐く。

 全身に力が入らないな、と長椅子の背もたれに体を預けた。美波がその隣に腰を下ろす。

 花の香りがする。

 きっと温かいのだろうな、柔らかいのだろうな、と思った時には腕を伸ばしていた。


「宮様?」


 細い声。はっと目を見開いた時にはすっぽりとその躰を抱え込んでいた。

 心臓がまた早くなる。熱も上がり、どっと汗が噴き出した。だというのに手元に手巾はない。


「困った」

「何がですの?」


 覗き込むと、目があった。瞬きに合わせて睫毛が揺れて、見え隠れする煌めきに吸い込まれそうだ。

 喉が渇く。


「君――後悔しないでよ?」


 首は縦に振られた。

 だから、腕に力を込めた。

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