28. 女の戦い
風がイチョウの葉を一枚、部屋に滑り込ませてきた。
「掃除は済んでいるんだから、勘弁してちょうだい」
振り返った部屋の中はこれまでと変わわず、桐箪笥と小さな棚と文机が置いてある。中身は空っぽだが。
「荷物は全部かな?」
ひょいっと戸口から顔を出した
「ありがとう。重たかったでしょう」
「僕らがやるのは、建物の入り口までだけだから。その先は、荷受けの人が運んでくれるよ」
もう出発したよ、と笑う彼に続いて、階段を下りる。
臙脂の絨毯が敷かれた玄関口には、
「女の荷物はどうして多いんだ」
「着物しかなかったのに」
「その量が異常なんだ」
「いやあ、あれくらい可愛いものでしょ」
ねえと泰誠が首を傾げ、周りの女の『かんなぎ』たちが笑った。
「少ない少ない。わたしならあの三倍」
「三倍じゃ効かないわ。四倍よ」
ころころと声が響く中で、倖奈は手元の荷物をぎゅっと抱きしめた。
「大事なものは自分で持っていくようにね」
「ええ」
お座敷籠――黒い藤の底に巾着がついたような形の、そこそこ大き目の籠。この中に通帳や印鑑といった
頭をぽんぽんと撫でられて見上げれば、年上の娘が涙ぐんでいるのと目があった。
「寂しくなるわー」
「そんな、会えなくなるわけじゃないのに」
「それでもよ。毎日顔を合わせていたのが、時々、になっちゃうんだから」
「寂しいの」
わっと五人に囲まれて、身を縮ませる。今度割り込んできたのは常盤だった。
「構い過ぎだ。ここで油を売っていないで、宮様にご挨拶して来たらどうなんだ」
「ああ、そうだね。僕も一緒に行こうか」
ふんわり泰誠も笑う。
どん、と背中を押され、出かける格好のまま表の棟へと歩き出した。
苔色の袴が揺れる。鬱金色の袖も、同じく。
早足で辿り着いた司令官室にはすぐに通してもらえた。
「色の宮妃殿下の家に引っ越しだって?」
秋の宮――鎮台の司令官は、奥の大きな机で、片肘をついて書類を広げていた。
濃紺の肋骨服に、胸には三つの勲章。袖では金糸が煌めく。すらりと背の高いその人だけれども、今は椅子に座っているから、その視線は倖奈より低い。
問いに頷いてから、ゆっくりと腰を折った。
「言い方は悪いけど、老い先短い人だからさ。少しでも気楽に過ごせるよう、よろしく頼むよ」
「はい」
「鎮台には来るんだろう?」
「そのつもりです」
もう一度頷くと、横で泰誠が微かに声を上げる。
濃い緑の小袖に狐色の袴という書生姿の彼は、部屋を出てから、問うてきた。
「
「いけない?」
「駄目ではないけど…… 万桜様のお傍にいることが目的で移るのに」
苦笑いされる。むっと唇を尖らせた。
「昼間だけよ。ちゃんとお食事は万桜様と一緒に取るようにするわ」
「往復の
「歩くから!」
勢いよく顔を上げて、見つめる。さして背の高くない彼は、まっすぐに見つめてくる。
「……本気、だよね」
「そうよ」
ぎゅっと見つめ返す。
「そうか…… そうだよね。やっと、君の力を魔物にどうぶつけるか、見えてきたんだものね」
彼は笑い方を改めた。
「直接ぶつけるなんて、僕には思いつきもしなかったなぁ。
何より、僕は君を最前線に出したくないんだけど」
首を振って、彼はクスクス笑い始めた。
「あーあ。軍人に戻ろうかな」
「どうして?」
「だってねえ。やっぱり刀の方が戦いやすいんだよ?」
合わせるように微笑んで、視線は、廊下に長く伸びる臙脂の絨毯に落とした。
この廊下がつながった何処かにいるはずの人が翻す刃が、頭を
寮の前に戻ると、俥がつけられていた。
車夫はその横で大きな欠伸をしている。
「呼んでおいたぞ」
「歩くのに」
腰に手を当てて立つ常盤を、じっと見上げる。横で泰誠が吹き出した。
同時に、ぎい、と玄関の扉が開く。中から出てきたのは
今日の着物は唐草牡丹が描かれたものだ。帯の藍色が淡い紅を引き締める。何処にも咲いていない花の香りを漂わせる彼女を、ほう、と見上げる。
「美波もお出かけ?」
「あなたと一緒に行けって、常盤がうるさいんだもん」
「一緒にお引越ししてくれるの?」
「しないわよ。お見舞いだけ、すぐ帰る」
「二人ならやっぱり、今日は俥を使って行けばいい」
にこ、と笑う泰誠に、美波は首を傾げた。
「今日は?」
「明日からは歩くって言うんだもの。ああ、明日からも、こちらにも顔を出すって倖奈が言うから」
「当然だ。『かんなぎ』の領分を忘れてもらっては困る」
常盤のきつい声音に、初めてほっとした。つい、頬が緩む。
「もっと引き締まった顔で来い」
「うん。気を付ける」
片手で、ぺち、と己の頬を叩いて。
「ありがとう」
言うと、常盤は瞬いて、そっぽを向いてしまった。
「常盤もああ言っていることだし――おいで。その代わり、ちゃんと万桜様と話すんだよ。ああ、決めたことは先に電話で教えてくれるね」
「電話、苦手」
「文句言わない」
泰誠には、ポンポン、と頭を撫でられた。
美波は手鏡を覗き込んで、前髪を撫でつけている。
「じゃあ、美波、行ってらっしゃい。倖奈も行き来には気を付けて」
二人並んで乗ると、表情を引き締めた車夫が勢いよく走り出した。
「向こうでごろごろしてればいいのに」
風の中でそう言われ、首を横に振った。
「厭よ。めいっぱい頑張るって決めたの」
すると美波は、ふうん、と息を吐いた。
「どんなふうに?」
「具体的に何をするかは考えてないわ」
でも、と倖奈も軽い溜め息をつく。
「ただ、このままじゃいたくないの」
美波はじっと見つめてくる。紅に染められた唇が動く。
ちょうど俥が大きく跳ねた。
「ごめんなさい、聞こえなかった」
美波は眉根を寄せた。
「ねえ、もう一回言ってくれる?」
かぶせて言う。
彼女は口元を歪ませて。低く呟いた。
「勝手に変わらないでよ」
瞬く。
何も言い返せない。
万桜の邸の門前で、俥から降ろされる。車夫は甲高い鼻歌を歌いながら去っていった。
風が吹き、美波の香りが一段と舞う。
「美波?」
二人の間は今迄より遠い。
呼びかけが届いたのか不安になってきた頃、彼女はやけにけわしい顔立ちを向けてきた。
「魔物が祓えるようになったからって、浮かれているの」
ぎゅっと籠を抱きしめる。目を限界まで開いて、美波を見つめる。
「ちょっとおしゃれできるようになったからって、ご機嫌になっちゃったの。
……調子に乗らないでよ」
瞬間、ぱあん、と頭の中で何かが弾けた。
「別に、調子に乗ってなんかない!」
「嘘つけ!」
「嘘ついてない! それに、それに……
頑張って頑張ってできるようになったことを喜んで、何がいけないの!?」
叫ぶ。
「やっと『かんなぎ』として役に立つって認めてもらえたの。泰誠にも、常盤にも、認めてもらえて嬉しいの。おしゃれだって、
はっと息を継ぐ。
美波の薄紅の袖が風にあおられて広がった。
何度も肩を動かしてから。
「美波」
もう一度名前を呼ぶ。
「桃色、桜色、薄紅。そういう色、好き?」
「突然何?」
「赤い色、好きよね」
「そうね」
「なんで」
「女らしくて綺麗でしょ?」
「ええ…… 美波によく似合っているわ」
きゅっと眉を寄せつつも、美波は唇を綻ばせた。
だけど。
「わたしが今着ている黄色は?」
問うと、また唇は引き結ばれた。
「浮ついている? 落ち着きがない色? わたしには、似合わない?」
「か、鏡を見れば分かるんじゃない?」
そう言った美波の唇はきつく噛み過ぎたのか、紅が僅かに剥げている。
なんて醜い顔なのだろう、今の美波は――そしてきっと、自分も。
「鏡を見たら分かるかしら」
籠に爪を立てた。
ひょう、と乾いた風が通りを走り過ぎる。
「別に…… どうでもいいじゃない」
美波の声もからからだ。
「よくない。教えて」
喉に絡みつく声を、押し出す。
「美波は、わたしにお洒落をさせたくないの?」
見つめていた顔が、みるみるうちに、あおくなる。指先も、頬も。
美波は右手を振り上げて、ぐっと拳を握った。
身を竦める。
拳はしばらく宙に浮いた後、静かに美波の胸元まで降りていった。
「ずっと一緒だったじゃない――あんたはわたしの陰で静かにしてたじゃない」
なのに、と吐き捨てられる。
「本当いいわよね、楽しそうで。お洒落して、恋人と手を繋いで、それで満足? あんたばっかりいい目を見て、わたしはなんなの。莫迦みたいじゃない」
「恋人なんかいない」
叫び返す。
だが、美波の見開かれた眸はギラギラと燃えている。
「じゃあ、この間はなんだったのよ! 一緒に外から帰ってきて、わざわざ寮の前まで送ってくれて。電報の送り主、本当は
「違う!」
「嘘ばかり!」
「本当に違う! 電報は
「別の男までいるの!? なによ、一人じゃ満足できないの、この
ぎょっとして、動きを止める。美波は肩で大きく息をしている。
「あんたなんか、子どもなくせに!」
「美波だって同い年じゃない!」
「一緒にしないで!」
何が違うというのだろう。美波と自分。何が違う。
あう、と呻いた後。
「もういい!」
美波が今日一番の大声を上げた。
砂利を蹴立てて、草履を鳴らして、美波は来た道を走っていった。
その背中が人波に紛れても、そこから一歩も踏み出せない。
ぼろぼろボロボロ涙が落ちる。何が何だか分からない、と手の甲でそれを拭った。次々に落ちてくるから、休まず
酷い顔だろうな、としゃくりあげた。
腫れた瞼のまま、万桜の前に座る。
気付かないふりをしてくれているのか、見えていないのか、老女は何も言わない。
「今日からお世話になります、よろしくお願いします」
きっちり指を揃えて、頭を下げる。
「こちらこそですよ」
穏やかな声が返ってきて、ほっと息を吐いた。
「部屋はもう見てきましたか? 何か不便があったら遠慮なくおっしゃいね」
「えっと…… あの、無ければ、自分で一つ買いたいものがあるのですけど」
「何をですか?」
「鏡台です」
掠れそうな声で言ったのに、万桜は頷いた。
「それならば、私が二つ持っていますから、一つ運ばせましょう」
早速、住込みの庭師がよいせよいせ運んでくれた。
それを見ていたら、シロが笑いかけてきた。
「色気づいたのう」
「違う」
「ほほう? 大尉殿じゃないのか?」
「
強く言い切ると、ぱちくり瞬かれたが、俯いて、宛がわれた部屋に引き籠る。
香りの強い、新しい畳の上にずるずると座りこんで、きつく目を閉じる。
ゆっくりと彼の姿を瞼の裏に描き出す。
あの背中は凜として、決して揺らぐことがないというのに。
なんという差だろう。
「わたしは、みにくい」
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