26. かきまわさないで(2)
くろい、伸びた爪が、ほんの一息前まで
勢いの止まらなかった腕につられて倒れた男は、地面を転がっていく。
それを見送りながら。
「まるで獣だな」
肩を掴んできた彼の、ひくく嗤う声を聞いた。
衣越しの体温だ。倖奈はちゃんと着物を着ているし、
それでも熱い。
白に覆われた指先の熱が、琥珀色を通りぬけて、肌に、躰の真ん中に、伝わってくる。
息が止まりそうになって。
あかくなりかけた気持ちは、すぐに引き戻された。
鼓膜を打つのは咆哮。両腕を突っ張って立ち上がった男が放ったそれだ。
あちらこちらから悲鳴も上がる。
男は、のそのそと踏み出して、境内を進んでいった。
人が散らばる。その中から、神主様、と呼ばう声が届く。
くろい爪がゆらりと持ち上がり、宙を舞うケヤキの葉を切り裂いて、さらに伸びていこうとする。
倖奈の肩から温もりが離れていく。
「史琉」
「
そう呟き、彼は一歩前に出た。
「
横に立つシロが嗤う。
ふんと鼻を鳴らし、史琉は一気に駆けた。
男に追いつくなり、腕を掴み、引きずり倒す。男はまたゴロンと地面を転がっていった。
転がった先で、間を開けて、男はまた、ふらりと起き上がる。白かった袖は泥だらけで、風を受けて広がる。史琉は舌を打った。
「頭でも打ってくれれば良かったのにな」
一際大きく鞘を鳴らす。
男は歯を剥き出して、吠えた。
「少しはビビれよ――真っ当な反応を期待する方が間抜けか」
刃が鞘から滑り出る。
鋭い爪を弾き飛ばして、突き出されたそれはあっさりと直垂の袖を裂き、中の腕も斬る。
赤い飛沫が飛ぶ。また悲鳴が上がる。
「
間延びしたシロの声も響く。
「普通に斬ったら、死ぬぞ」
はっとして隣を向けば、彼は歯を見せて笑っている。
「斬ったら、死んでしまうの?」
「只の人じゃからな、当然じゃろう。殺すつもりか?」
「死ぬまで止まらなかったらどうするつもりだ」
眉を
ごつん、と音が立つ。
「骨でも折るか?」
「まあ、動きを止めるだけなら有効じゃな」
べたんと地面に伏せた男が吠える。伸びた爪が振り回されて、土が抉れて、礫となって、遠巻きにした人々に当たる。
史琉は頬に受けた一つを払い落とし、男の背を踏んだ。
「だが、動けなくするだけでは解決にならない」
足下で、バタバタと手足が揺らされているのに構わず、史琉は目を細める。
「正気に戻す方法は?」
底冷えした視線が、シロを、倖奈を見た。
背筋が伸びる。ぎゅっと袴を握りしめる。
「シロ」
掠れ気味の声で呼びかけると、首を傾げられた。
「さっき、あなたは『
「そうじゃな」
「人の体に、魔物が入っちゃったってことよね」
「聡いではないか」
ニヤニヤ笑いを横目で見てから、史琉に踏まれて呻いている男を見遣る。
「あの人の体から、魔物を追い出せばいいの?」
「そうだ。荒魂を祓ってやれ。押さえつけられている元の魂を引きずり出してやれ」
「どうやって……?」
「そこは倖奈の出番じゃよ」
「……わたし?」
声が裏返る。彼は手を叩いて、顔を突き出してきた。
「おぬし、花を咲かせる時はどうしている?」
口の端を上げた顔を見つめて、瞬く。
「どうしてって……」
改めて問われて、口が空回る。
――なんだろう。
忙しく、瞬く。
「何故花が咲くのか、考えたことは?」
――無かった。
指先に力がこもって、瑠璃色の袴に皺がる。
シロが着た絣の着物は、染みもなく真っすぐに伸びていて。
「わしの仮定ではな」
声もしっかりと響く。
「おぬし、相手に己の力を分けているんじゃろ? 生き延びる力そのものを、な。
花だろうか人間だろうが、相手に関係なくできるのではないか?」
呼吸さえも忘れて、シロの顔を見つめた。
「あの
ヒヒッとシロが笑うのと同時に、また多くの悲鳴が上がった。
「くそっ……!」
もんどり打って転がって、跳ね起きた史琉が舌を打つ。
「なかなかの馬鹿力じゃないか!」
片膝を付いたまま、ぶん、と刀を振る。爪と組みあって、ぎりぎりと押し合う。
その相手の瞳は、濁ったまま。向き合った史琉さえ映していない。周りで呼ぶ声も何も聞こえていないらしい。
甲高い音を立てて、刃が爪を捩じ切った。
叫び声が響く。間を置かずに爪が黒く生えて、伸びる。
男がその爪を突き出して、僅かに体を捻っただけの史琉の頬を、その先がわずかに掻いた。
刀を投げ出して、史琉は男の手首を掴む。逆の手で、もう片方の手首もだ。
「さて…… どうしたもんかね」
ぐいぐいと押されて、彼の革靴が地面に窪みを作る。
その頬に赤い筋が見えて、倖奈は、ひっと小さく叫んだ。
シロに肩を叩かれる。
一歩、一歩、と踏み出して、その男の後ろに立った。薄いと見て取れる、直垂の背中に、そっと手を置いて。
ぐん、とその手を引っ張られた。そう感じた。
目が回る。
体も、前へと倒れる。
「え……!?」
「倖奈!?」
直垂の背中に顔を突っ込みそうになった瞬間、史琉は、男を振り飛ばしたらしい。
濃紺の肋骨服の胸に受けとめられた。
今度こそ息が止まる。
一際大きな咆哮さえ、
「今度はなんだっていうんだ」
「あの容れものから出て行くつもりなんじゃろ」
横にやってきたシロがひゃひゃひゃと
「倖奈、やってやったな。わしの見立てたとおりじゃよ!」
呼ばれ、浅く呼吸を繰り返して、のそりと顔を上げた。
頬に、頸にまとわりついてくる髪が邪魔だ。解いてしまわなければ良かった。
顔の前にかかった髪の束の隙間から、境内の地面の上で男が手足をばたつかせているのが見える。
何度となく土を叩き、砂利を飛ばした後。ぱたりと動かなくなった。
しんと静まりかえる。
その中で、男の口から黒い靄がひょろりと立ち上った。
それはユラユラと宙を泳ぐ。
「あれは、魔物?」
絞り出した言葉に。
「そう見えるな」
自分を抱きかかえたままの人が応じてくれる。
靄が離れていった男が呻いて起き上がる。
泥だらけになった袖に目を剥いて。
「体中が痛い」
ぼやいた彼を、ぱらぱらと皆が遠巻きにする。
黒い影は、彼から距離を置いていく。
「おお、完全に出ていったのう」
シロはまだ笑っている。
「今度こそ、ぶった斬れるかねえ?」
くつくつ喉を鳴らして、史琉が立ち上がる。
濃紺が離れていくと、冷たい風が体を撫でてきた。
史琉が落ちていた刀を拾うなり、黒い影は、動いた。びゅん、と音を立てて、一直線に。
その先にいた人たちが、わっと散らばる。
人波から逸れた、立ちつくし目を丸くした白髪の男の口に、飛び込んでいく。
ぐるん、と黒目が回る。濁る。
「容れものを変えたのう……」
シロが、かくん、と肩を落とした。
史琉は口許を歪める。
白髪頭はぐらぐらと前後ろに揺れて、それからぐるんと踵を返し、鳥居をくぐっていった。
「逃げた!」
誰かが叫ぶ。
通りから、別の叫び声が聞こえてくる。
「追いかけてほうがいいんだろうな」
「じゃろうなあ。本来、この社に閉じこもっているべき荒魂じゃ」
「なんで突然動き出したんだよ」
「さあて、なんでだろうなぁ?」
うひひひひ、とシロはまた笑っている。
史琉はひとつ溜め息を吐いた。
「追っかけるか」
「……あの、魔物が入ってしまった人を?」
頷き、史琉は走りだす。鳥居を潜り、通りに消えていく。
何度も瞬いて、はあ、と大きく息を吐き出した。
膝に力が入らないのに。
「いつまで座り込んでるんじゃ、行くぞ追うぞ」
シロが乾いた声で言う。
「おぬしが行かぬで、どうやって
もう一度瞬く。唇は完全に乾いている。
「早くせい」
斜に構えた視線に、まだ瞬いて。よろりと立ち上がった。瑠璃色の袴が、手首にかけた巾着が、重い。
踏み出した後ろで。
「体中が痣だらけだ……」
「怠けていないで、さっさとご神体を貸さぬか」
直垂の男とシロが話す声がした。
昼間、人通りが多いのが憎い。
白髪頭は、先ほどと打って変わった素早さと軽さで、通りを駆け抜けていく。
それを
「あぶねえよ! ……って、軍人かよ」
戸惑った声を浴び、謝罪を叫びながら、走る。
何度も角を曲がり、真っすぐな堀縁に出た瞬間、腕を大きく振って、踏み出した。
一息に距離を詰めて、飛び掛かる。
二人、ごろごろと道を転がる。
上になった瞬間に、男の腕を背中に捩じりあげ、地面に圧しつけた。
歩いてしまったから、追い付くのに時間がかかり過ぎたらしい。
そこには人だかりが出来ていた。
真ん中の、地面の上に組み伏せられた男の顔は蒼白だ。
「さっさとしないと、この
かるい声に反して、史琉の顔は火照っている。
「なんとかできるのか、できないのか」
「追い出せばいいんじゃよ、ほれ!」
シロはぽん、と倖奈の背を叩く。よろりと、その脇に立たされる。
ごくり、と喉を鳴らしてから、両膝をついた。
追い出すのは、乗っ取られた彼自身だ。倖奈は力を貸すだけ。
――頑張って!
唇を引き結んで、乾いた頬を撫ぜる。
また、腕を引かれたような、感覚に襲われる。
まもなく、叫び声とくろい靄が白髪頭の口から飛び出してきた。
靄は空に一度飛び上がって。ぐん、と引っ張られるように宙を横切っていく。
その先には、泥だらけの直垂の神主。その抱える鏡にぎゅうっと吸い込まれていった。
「ほい。これでまたしばらく静かになるじゃろ」
ぺちぺち、とシロが手を叩く。
神主はがっくりと肩を落とした。
白髪頭はピクとも動かない。
「どっか医者のところに担ぎ込んだほうが良いだろうな」
「おぬしもめいっぱい押さえつけたのぅ」
「悪かったな。加減なんかできなかったよ」
見上げると、史琉は口許を歪めて、前髪を掻き上げた。ぽたり、汗が落ちる。
その彼に腕を掴まれて、一緒に立ち上がる。くらっと頭が揺れたのをいいことに、彼に
濃紺の袖の下から、白い手袋の中から、また熱さが伝わってくる。ぎゅっと一度目を閉じて、必死に真っすぐ立った。
「鎮台でも警察にでも通報がいっていたら早いんだけどな」
「いえ、うちの社で手配しますよ…… とんだ大失態だぁ」
やり取りが聞こえる。
人だかりが騒めき、ほろほろ解れていく。
その中で、カシャン、と乾いた音がした。
はっと顔を上げる。すぐにその音の源は見つけられた。
カメラだ。
「
大声で呼ぶ。
珈琲色の三揃いの背広を来た青年が、片手をあげてきた。
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