25. かきまわさないで(1)

柳津やないづ大尉に入電であります!」


 ビシッと挙手の礼を決めた幼い軍人に、鎮台の第五部隊を率いる部隊長殿は「ご苦労様」と返し、すぐに歩き出した。


 樫の重たげな扉が閉まるのと同時に。

「入電?」

 颯太そうたは首を捻った。

「電話がかかってきたってことだよね?」

「他に何があるんだよ」


 第五部隊の詰める部屋、机に山と積み上げられた書類の紐綴じ仲間の中年が半目で見遣ってきたので、肩を縮こまらせるた。


「電話がかかってくるってすごいなあ、って単純に」

 育った村には電話は一台しかなかった。かけることもかかってくることも、月に一度あるかどうかで、一台で全く不足なかったのだ。だから。

「鎮台にも電話があったんですね」

 その事実を単純にすごいと思う。


「おう。本当は各部隊に一台ずつ置きたいと思ったんだが、予算が無いのと、そもそもかけられることもないだろうって話で、ポシャッたらしい」

「へえ……」

「司令官の秘書さんが管理してるっつう話だな」

 それならば、今までと同様これからも、颯太が直接電話を触る機会はないだろう。

 ふうんと頷いて、中年の先輩に視線を返した。颯太がずば抜けて背が高いせいで見下ろす形になっているのはご容赦願いたいと思いつつ。

 それに気が付いているのか、いないのか。相手はまだ半眼で見上げてきている。


「こんな電話も知らねえいなかっぺが、都育ちの洗練された女の子を捕まえられるんだからスゴいよなあ」

「ほえ!?」


 何のことだ、と目を丸くする。中年はニヤッと笑った。


「違うのか? 『かんなぎ』の女の子と年中喋っているじゃねえか」

「へ? あ? ああああ、あ、倖奈ゆきな!?」


――違う! 俺には菜々子ななこがいるし!


 それにそれに、と声にならない叫びをあげる。


――倖奈は隊長と…… ってアレ? 本当に?


 颯太がぐるぐると思考をせわしなく回している間にも。


「いつも書類を持ってきてくれる娘だろ?」

「幾つぐらいだ? 大分幼いよなぁ」

「ぴっちぴちの若さだってのしか分からん」

「顔立ちもなかなかだぞ。こう、線が細いのがまた堪らないよな」


 ぞろぞろと部屋中の人が集まってくる。濃紺の軍服を着て、制帽を被った男たちが一つのテーブルを囲む。


「やっぱり手を繋ぐところから。もう繋いだのか?」

「ふあ? なにが?」

「その次は、ほっぺだな。ぷにぷにぷにぷに指で突くのが楽しい」

「二の腕も捨てがたい。柔らかいんだぞ」


 ちなみに、窓の外はとびっきりの明るさだ。時刻は昼の十二時前。


「この変態どもめ。見えるところばっかり妄想してどうする」

「馬鹿野郎、脱がせないと分からない場所の前にうなじだろ! 俺は今の彼女になぁ、まずそこから御赦し願ったぞ」

「分かる。俺の嫁もだ」

「なんだとぉ!? やっぱり脱がせた時を思って胸だろう!」

「白いうなじ! 吸い付きたくなるだろう!」

「……同感だな」


 ぼそりと部屋の隅から響いた声に、全員が振り返る。

 窓の横で壁にもたれて立っているのは、隊長不在の今、一番偉いはずの少尉殿だ。

 数多の視線を浴びて制帽を目深に被りなおし、右肩の飾緒を揺らしたその人の頬は、あかい。


「まさかの副官の一票!」

「どうすんだ、この決着!」


――決着必要なのか、コレ。


 瞬いていると、扉がキイと泣いて動いた。

「あ、おかえりなさい隊長」

 出た時とは打って変わって渋い表情で戻ってきた人に。

「ちなみに、隊長はどこですか?」

 誰かが言ってしまった。


「……なにが?」

「恋人の触りたい位置」

「触れればどこでもいいだろ」


 眉間にぐっと皺を刻んだ隊長殿の言葉に、しん、と一瞬だけ静まり返り。

 誰からともなく拍手が響いた。

「真理だ」

――うん。異論無いや。


 隊長殿は首を振って、鋭い視線で部屋を見回した。

 誰もが姿勢を伸ばす。


高辻たかつじ少尉」

 部屋の隅から、応、と返る。

「要請があって、出かける。午後の訓練は任せても?」

「承知した」

「強いて指示があるとしたら――そうだな。ここ最近、魔物が出ていないからな」


 正確には、あの晩から、だ。桜の狂い咲きの夜の後一度も、魔物の出現は報告されていない。


「弛まないように鍛えてやってくれ。よろしく頼む」

 眼鏡を胸の隠しポケットにしまい、軍刀の鞘を鳴らして、部隊長殿はまた出て行った。


 部屋はもう一度静まり返る。今度は長く。

「ビシバシいくからな」

 ふっと高辻少尉が笑うのに、全員の肩が小さくなった。


――うわー! 吐く! 吐く! 絶対吐くよう!


 菜々子、と心の中で呼びかけようとして、止めた。

 できなかった。




 *★*―――――*★*




 長居は良くないと考えていたはずなのに、しっかり昼食まで頂いてしまった。

 会話がそう弾んだわけでもない食卓だったけれど、万桜まおにとっては満足のいくものだったようだ。微かに笑んで――萎んだ頬のせいで動きが分かりにくくなった顔だから、に見えるのかもしれないけれど。

「満足しました」

 と言われた。


「これはやはり、越してくるしかないのう」

 シロはニヤニヤ笑っている。

 美波みなみはツンと顎を上げた。

「わたしは『かんなぎ』の仕事があると言ったでしょ」

「倖奈は越してくるんじゃろ?」

 倖奈が鎮台からここに移るのは決定済みらしい。

「今日すぐに、は無理よ」

 眉尻を下げて返す。

「そうだったわね。あなたは駅の方に出かけるんでしょ。先に戻るわ。常盤と泰誠に引っ越しを手伝ってもらえるようにお願いしておくから」

「……ありがとう」


 彼女が乗った俥が通りを駆けていくのを見送ってから。梔子色の巾着を手首にかけて、揺らす。

 琥珀色の袖と瑠璃色の裾も、揺れる。


 別の通りに出て、路面電車に乗り込んだ。

 窓を背にした座席に座ると、横に少年も座った。彼は絣の着物の裾がはだけるのも構わず足を組む。


「シロ。あなたもお出かけなの?」

「おぬしに付いていくんじゃよ――いや違った。ちょいと付き合っておくれ。ワシに」

「人と約束があって出かけるんだけど」

「まったく時間が無いわけではないだろう? なに、ほんのちょっとじゃ」


 小さく息を吐いて、車内にかかった時計を見遣る。

 まだ一時半、いつきとの約束には余裕はありそうだ。


「少しよ。待ち合わせに遅れたくはない」

「承知しておるよ。もしもに備えて助っ人は呼んであるからな」


 けけけ、と笑って。彼は手を打った。


「そうそう、助っ人と言えば! おぬしも女子じゃなあ!」

「何が?」

「あの強面の大尉殿というのがちと意外だがな」


 え、と受けて。顔が一気に熱くなった。


「命短し恋せよ……」

「違うってば!」

「ほれ、その言い草が駄目なんじゃよ。もっとどんと構えておかんかい」


 からからとシロは笑い声を立てて、倖奈から見える側の顔を、白い狐面で覆ってしまった。

 その彼というよりも倖奈自身の声が高かったからか、ちらちらとこちらを窺ってくる視線が車内にいくつもある。


 逃げるように顔を伏せる。下がった視線が、三編みの先の細いリボンを捉えた。

 ぎゅっと唇を噛んで、そのリボンを引く。両手の指でぐしゃぐしゃと編込みを解く。色のうすいふにゃふにゃの髪が広がった。


「おや。どうした」

「……別に」

 口を尖らせる。

 彼は肩を竦めて、視線を窓の外に送った。

「都も様変わりしたのう」


 そうなの、と問うと、シロは外に向いたまま答えた。


「建物が変わったな。随分と西洋のものが入ってきた。それと電柱が増えたな。道の高いところとは言え、電線が何本も通っているのは鬱陶しい。それとこの、路面電車、というのか――でかい乗り物も昔は無かった」


 随分と昔のことを語られている気がする。倖奈が生まれた頃にはもう、電気が街の隅の方へも渡るようになっていたそうだし、路面電車も今年で二十余年と聞いている。


「いつと比べての話をしているの?」

「うーむ…… 五十年くらいかのう」

「冗談はやめて」


 ぎゅ、と眉を寄せる。


「なんの。ワシは大真面目に話しておる」

「そんななりで昔の話、とか言われても。どうせ本で読んだとか聞きかじったとかそういう感じでしょ?」


 声がつい固くなる。彼はからからと笑った。

「信用無いのう」

 よく見れば整ってはいるが、幼い顔立ち。瑞々しい肌に、細く伸びる手足。

「わたしと年変わらないんじゃないの?」

 そう返すと、彼は一瞬だけきょとんとなり、はっと息を吐いた。


「成程! 確かに外見と実際の年齢は一致しとらんだろうな。これはぬかった」

「ふざけないで」

「いや、ワシの失敗だった。すまんすまん。実は、もうとっくに七十越しておるんじゃよ」


 彼は呑気な欠伸をした。


「いやー。年寄は困るな。まあ、電話が使えるようになっただけ、マシだと思わんか」

「そういう問題では……」

「褒めてくれんのか」

「何を」

「こんな爺でも電話を使いこなせることじゃよ」

「一体どこにかけるのよ」

「鎮台。さっきも一本かけてきたぞ。助っ人を呼ぶためにな」


 そんな話の隙間に、運転手が鉄道駅が近いことを告げているのが聞こえた。

 ガタゴトと一際揺れた後に立ち上がり、押し出される。黒漆の草履が触れた石畳は、硬い音を響かせた。

「さて、行くぞ。すぐそこの社じゃ」

 ひょこひょこと進む伸びた背筋を追う。


――どこがおじいちゃんなの?


 はあ、と息を吐いて進んだ先は、大通りから一本下がった路地にある神社だった。


 境内はほどよい広さ。

 紙垂しだのかかった木が何本も立ち、その間を子ども達が駆け回っている。

 水盤舎の傍には長椅子がおかれ、近所の奥様方とおぼしき人たちが談笑していた。

 駒止めから拝殿までの間も、人が少なからず行きっていて、拝殿からは鈴の音と祝詞の声が続いている。


 鳥居を潜って、拝殿に向かう十歩前で、倖奈は思わず足を止めた。

 呼吸も瞬間止まる。


 シロはずいずい進んでいって。

「待たせたな」

 拝殿の前に立っていた人に声をかけた。


 背が高くもなく低くもない、濃紺の肋骨服を着た人。

 その袖章は大尉の位を示している。肩章は、皇都鎮台第五部隊の所属と示している。襟元でひとつ徽章を輝かせて、彼は、制帽を持ち上げた。


「大分待ったかのう?」

「そうでもない」


 やや高めの声に心臓が跳ねた。


――史琉しりゅう


 彼は、シロともう二言交わした後、視線をこちらへと向けてきた。

 頬が熱くなる。俯く。


「倖奈?」


 両手で頬を抑えていると、彼は静かに寄ってきた。

 息を詰めたまま、見上げる。吊り上がった眉と真っすぐな瞳が見える。


――お願い呼ばないで見ないで。


 解いた髪が揺れる。せめて梳かしておけば、とぎゅっと目を閉じて首を振る。


「誰かと思ったよ」

 え、と声を漏らして見上げると、もう一度真っすぐな瞳。笑んだ口許。

 体中が熱くなる。胸の底の方も、じんわりと。緩みかけた口の横を両手で押さえて、押し込んで。


「それで、何の用なんだ?」

 彼はシロに向き直っていた。

「用があるのは倖奈じゃよ。おぬしは万が一の助っ人」


 お面をつけたシロは拝殿の階をひょいひょいと昇っていき、格子戸の前で振り向いた。


「この社の縁起は知っておるか?」

「さっき、そこの札に書かれているのを読んだ――魔物を静めた武士を祀っているんだって?」

「正確にいうなら、武士が魔物を静めたことを寿ことほいでいる。さて、それを前提に――この中にいるのは何だと思う?」


 ニヤニヤを狐面の下から覗かせて、シロは戸を押し開けた。

 祝詞の声が途絶える。

 カタカタカタカタ、社が揺れる。鈴が歌う。生温い風が一陣。


「祀られる魂には和魂にぎみたま荒魂あらみたまとあってなぁ」


 風は社の中からだった。唾を呑み込む。史琉ががしゃんと軍刀を鳴らした。


「ここは荒魂あらみたま。早い話が、魔物」


 シロは一転、駆け下りてきた。

 その背から人影がゆらりと歩み出てくる。白い直垂を着た男だ。その顔はうつろ、にごった眼は何も映していないだろう。

 それなのに、確かに立っていて。両手を広げて吠えた。


「こんな感じでなあ」

 ははは、とシロが笑っている。倖奈は息を呑んだ。


「あれは、魔物、なのか?」

「ご明察! さあ、どうたおす?」


 史琉は奥歯を鳴らした。そのまま、ぐっと肩を掴まれて、一歩下がらされる。

 男はゆらりと踏み込んできている。

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