24. 転がされる、掌の上で

 まっさおな空に向けて、窓を開け放つ。

 桐箪笥と小さな棚と文机しかない狭い部屋に向き直って、倖奈ゆきなはぐっと背伸びをした。


 布団と座布団を窓枠に掛けて、まずはハタキかけだ。桟の上、白い紙の貼られた壁をばさばさと撫でていく。

 押入れの襖をずらして、溜まった埃を取り除く。

 続いてホウキを手にして、床に落ちた塵を廊下に掃きだす。

 それから、バケツに水を汲んできて、雑巾をぎゅっと絞った。ぎゅっ、ぎゅっ、としつこく。

 一度空にした箪笥と棚を磨き上げてから、きっちりと端を揃えた着物や小物の入った小箱、紙の束を仕舞っていく。


 どうしても仕舞う場所が思いつかなかった物一つだけ、飾り棚の見える部分に残して。


 最後にもう一度、畳を拭いて、息を吐いた。



「ずいぶんと気の早い大掃除ね」

 はっとして振り返ると、扉を開けて、美波みなみが立っていた。

「お邪魔するわ」

 さらりと裾を捌いて、彼女は畳に上がってきた。


 今日もまた手の込んだ、秋の花と雲取、流水の刺繍の振袖だ。

 その彼女に、ぱちくりと見下ろされる。

「掃除でも、その格好?」

 え、と倖奈も瞬いて、己の着物を見た。


 今日は、琥珀色の小袖に瑠璃色の袴だ。

 どちらも無地、だが、小袖はこまかな綾織になっているし、袴は裾にいくほど濃く染められている。

 落ち着いた色合いだけど着ていて寂しくないものをという、真希たちの目が確かだと主張する一組ひとくみ


「またフワフワした色を着て。汚れてもいいの?」

「ううん」

「だったら、着替えてやればいいのに。今日に限ってはいいけど。

 すぐに出かけられる?」


 え、と呟くと、彼女は眉間に皺を刻んだ。


万桜まお様がね、お風邪をひいたんだって」

「大変」

「お見舞いに行きましょう」

 否はない。

「すぐに支度するね」


 よいしょとバケツを持ち上げて廊下へ。それからパタパタと戻る。


 美波は部屋で待っていてくれた。

 飾り棚の横に立っていて。

「これ」

 と言って、上に置いてあった一つを摘み上げた。

「どうしたの」

 うふふ、と笑われる。かっと頬が熱くなった。


「……戻してくれる?」

「戻してあげるけど、、どうしたのか教えてくれないの?」

「それは」


 ぱくぱく、と口を動かすが、声が喉に絡まったままだ。

 くすっと美波がまた笑った。


「そんなに大事なら仕舞っておきなさいよ」


――だって、誰か見ちゃうなんて、考えなかったんだもの。


 ぎゅっと唇を噛んでみせると、美波は肩を竦めてから。それを渡してきた。

 受け取って、ぎゅっと握りしめる。くしゃくしゃになってしまうなと思いながら、引き出しに押し込む。

 それから襷をするりと解いて、梔子色の巾着を手にした。


「出かけられるわ」

「……早いわね」


 今度は、目を丸くした美波が廊下に飛び出していった。

「化粧ぐらい直させてよ」

 そう言って、自分の部屋の鏡台の前に座る。


 入り口から顔だけ覗かせて。

――お互いの部屋を行き来するなんて、しばらくしてないね。

 瞬く。


 大きさこそ変わらない美波の部屋。だが、倖奈のものよりはるかに大きい桐箪笥に背の高い鏡台、細かい置物が所狭しと並んだ飾り棚のせいか、まったく印象が違う。

 透かし織りのカーテンが風を受けて膨らむのを眺めて待つこと、しばし。

 唇の赤が濃くなった彼女が振り向く。


「お待たせ」


 揃って一階に下りていくと、泰誠たいせいが玄関脇に居た。

「お出かけのところごめんね」

 と、眉を下げて、倖奈に寄ってくる。

「電報」

 またしても瞬く。彼は苦笑いを浮かべている。


「倖奈。いつ新聞社の人間なんかと知り合ったの?」

 それに呻き声を上げた。

「大丈夫? 知っている人?」

「うん」


 受け取った電報を広げれば、予想どおり、風呂の男――いつきから。写真の現像が出来たと書かれている。


「知っている人ならいいんだけど。ああ、でも、今日の三時に来いとはずいぶん急な指定だよね」


 ひょこりと顔を覗かれ、同じような苦笑いを浮かべて見せる。


「万桜様のところに行って、その帰りに寄るわ」

「そう。何の用なんだろう?」

「この間会った時に…… そう、またお話しましょうと約束したから」

「何を?」

 美波も顔を出す。倖奈は首を振った。

「……『かんなぎ』のことが気になるんだって」

「『かんなぎ』の、何?」

「力とか?」


 曖昧に口元を歪めると、ふうん、と彼女は首を傾げた。泰誠も首を捻る。


――本当は、もっと複雑で、容易たやすく話せないことだけど。


「まあいいや。気を付けて、行っておいで」


 泰誠は、うん、と一つ頷いて、倖奈と美波を交互に見遣った。


「僕も万桜様のお屋敷に行きたいところだけど、あまり賑やかすのは良くないからね。お見舞いは任せたよ。こっちの書類仕事は僕がやっておくから」

「あ、それは待って」


 美波が手を叩く。え、と泰誠が首を捻る。


「仕上げはともかく、部隊に持っていくのは待って。倖奈が帰ってきたら行くって」

「なんで?」

 泰誠の首が反対に動く。

「遅くなっちゃうじゃないか」

「それでも」

 うふふ、と美波の唇が弧に曲がる。


「行きたいでしょ、第五部隊のお部屋」

 ね、と視線を向けられて、まっかになって顔を伏せる。


「……何時に帰って来れるか分からないから、だから」

「持って行っておくよ。ね?」

 泰誠は頷く。

 美波は肩を竦めた。


「変なの」


 ころんころんと下駄を鳴らす彼女を小走りで追って、待っていたくるまに乗り込んだ。


「なんで、棚の上に置いておくのよ」

「だって」

 と返すと、頬がさらに熱くなった。


――捨てられなかったんだもの!



 突っ切られた風は、よどんだ想いを吹き飛ばしてはくれない。



 俥が走りついた先。

 顔を知った女中は、あっさりと屋敷の中へあげてくれた。


「万桜様はどちらに?」

「お部屋にいらっしゃいます。少しお加減が良くなったと言われたから、先ほどお食事をお持ちしました」


 足音を立てないで縁側を進むと、庭に向いて座る少年がいた。

 シロだ。


「こんにちは」

「なんじゃい、陰気じゃのう」

「だって、大声は出せないでしょう?」

「ふむ。倖奈はもともと声量が無さそうだしな」

「そういう意味ではなくて」

「ははは、怒られてもうた」


 ぶらぶらと外に出した足と手にした白の狐面を揺らす彼に、美波が眉を寄せる。


「誰、こいつ」

「美波は初めて会うんだっけ」


 二人の顔を交互にみつめ、それぞれに相手の名前を告げてやる。

 美波は袖口で口元を覆ったまま。

 その彼女を、頭のてっぺんからつま先まで見遣って、シロは目尻を下げた。


「おぬしも『かんなぎ』か。まあ、普通じゃな」

「普通って何よ」

「そのままじゃな。珍しくもなんともない」


 ぴん、とまなじりをはねあげて、美波は空いた手で帯の鳳凰を撫でた。

 シロは、狐面を振りながら、視線を倖奈に戻してくる。


「名前は聞いておったんだよ。はぁ…… 万桜の気に入りじゃというから期待したのに」

「ごめんなさい、その万桜様のお見舞いに来たのだけど」

 先の見えない会話を終わらせようと、無理やり答えを曲げる。

 シロはくるりと表情を変えて、跳ね上がった。


「おお、そうか。いかんせんババアじゃからな。ただの風邪も堪えるようじゃよ。少し気分を変えてやらぬと駄目じゃな」


 ずかずか奥に進んでいく。

 慌てて追う。

「静かに歩きなさい」

 案の定、怒られた。


「ごめんなさい、万桜様。お加減はいかがですか?」


 布団の上に体を起こしただけの人をそっと窺う。

 顔の皮は垂れ、薄い背中は少し傾いている。袖口から見える腕がまた細くなった気がする。

 その横に、まだ湯気を立てる小さな椀が載った御膳。


「ちゃんと召し上がってらっしゃいます?」

 美波が言うのにも首を横に振られ、二人顔を見合わせた。


「食べないと、もたないですよ」

 ふう、と息を吐いた美波が布団の横に腰を下ろすのを見ずに、万桜も息をつく。

「少し寒くなるだけで堪えますね」

「熱が出ました?」

「そうですね。どうにもかったるくて」

「ますますババアの発言じゃのう」

「お黙りなさい、シロ。あなたの顔ばかり見ているから余計にうんざりする」


 やはり視線を動かさずに、ぴしゃりと言う。美波と並んで座った倖奈は、身を小さくする。シロは縁側に突っ立ったまま、にっと笑い肩を竦めた。


「仕方ないのう。現状、わしとおぬししかこの屋敷には住んでおらんからな。なんなら、この二人にも住んでもらうか?」


「え?」

 大きな声を出したのは美波だ。

「わたしたちも、ここに?」

「……おう。適当に言ったわりにはなかなかの妙案じゃな」

 ぽんと手を打って、シロが笑う。


「わしばっかりなのが厭なんじゃろ? ならば見る顔を増やせば良いではないか。この二人は幼い頃はここに住んでいたというのだから、適任じゃろ?」


 軽い笑い声に、万桜がゆっくりと振り向いた。

「たしかに、そう話しましたけどね」

「娘のようなものだと言っておったではないか」

「左様ですけれど」

 絡まる溜め息に、おろおろと二人の顔を見比べる。美波を向けば、彼女は唇を尖らせた。


「一応、『かんなぎ』として仕事をするために鎮台にいるんだけど」

「ほほう。仕事、とな」


 どっかりと縁側に胡坐をかいて、シロは首を捻った。


「魔物退治に出向いておるのか」

「う…… まあ、ね」


 垂らした艶髪を掻き上げて、美波は顔をしかめた。


「でも、ここに住んだら、簡単に出かけられなくなるでしょ。わたしは厭」

「では、二人ともとは言わずに、どちらかでも。おぬしがいやなら、倖奈はどうだ」


 なあ、と顔を向けたシロに、倖奈はぐっと詰まった。美波は笑う。


「倖奈だって、ここは厭でしょ」

「そうなのか?」

「だって、恋しい人に簡単に会えなくなっちゃうじゃない」

「美波!」


 甲高い声で呼ぶと、彼女はかろやかな笑い声を立てた。


「違うの?」

「違う!」

「何が違うの」


 体中が熱い。鼓動がうるさい。

 ぎゅう、と瑠璃色の袴を握りしめる。


「そんな関係じゃない」

「じゃあ、あの手紙は何なのよ」

「……落とし物を届けてもらった時の」


 一緒に金平糖を貰った時の、ささやかな添書き。それ以上でもそれ以下でもない、ただの字。


「わたしが居なかったから、気を遣ってくれたの」

「でも捨てられないんでしょ?」


 くすくすと笑われる。


「やっぱり柳津やないづ大尉なのね。好きなんでしょ。手は繋いだの?」


 視線をそららせないでいると、万桜の溜め息が響いた。

「浮かれて騒ぐ真似はおしなさい、二人とも」

「はあい」

 ペロリ、と美波は舌を出した。倖奈は静かに座り直して、首を振る。

 視界の中で、髪の先の細いリボンが揺れる。


「で?」

 と欠伸混じりにシロが言った。

「どうするんじゃ。ここに住まわんのか?」

「だから。わたしは『かんなぎ』の仕事があるからお断りよ」

 美波はまた笑う。


「倖奈は? 大尉に会えないのが厭だから……」

「そんなこと言わないもん」


 さらにきつく袴を掴む。

 指先が痛い。

 ぶるぶると首を振ってから、真っすぐに顔を上げて口の端を上げた。


「万桜様がお寂しいなら、こちらに移ってきます」


 すると万桜も、しわしわの頬を動かして、口の端を綻ばせた。

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