23. その瞬間を留めて

 木の扉に取り付けられた洋風鐘ベルを鳴らして入った奥は、喫茶室。

 洋装の人が多い空間は、話し声で充ちている。


 その中の、濃い艶を放つ木製のテーブルの一つを挟んで、向かい合って座る。

 ひだかざりのついた前掛けをかけた店員は、薄紅色の文様の陶磁器を目の前に置いていった。

 カップの持ち手の細さにも、注がれた飲み物の濃い香りにも瞬く。


「フロイライン、珈琲を飲んだことは?」

「ないです」

「じゃあ、砂糖とミルクをたっぷり入れてみるといいよ」


 にっこり笑って風呂の男――いつきは、倖奈ゆきなの器に、真四角の白い塊となめらかな練乳を入れた。

 飲み物の色が変わる。斎が着ている背広の色そのものだ。


 その斎自身は、首から提げていたカメラをテーブルの上に置いて、何も入れないままの珈琲を涼しい顔で飲んでいる。


 一つ息を呑みこんでから、倖奈も器に口を付けた。

 中身を舌に乗せれば、熱い。苦い。喉の奥へと転がり落ちていったぬめりに眉を寄せて器を下ろすと、斎はまた笑った。


「じゃあ、早速だけど、この写真を見てくれる?」

 彼は内ポケットから、掌より大きい程度の紙を取り出して、一枚ずつゆっくりとテーブルに置いた。


 一枚は電柱に衝突した自動車を後ろから写したもの。

「夜だったから、輪郭しかうまく撮れてないけど、何をしているのかは分かるだろ?」

 車を大勢で囲んでいるものもある。そして、その大勢の一人ひとりの顔を撮ったものが続く。

「これ……」

 と、見知った顔が映っている一枚を手に取った。

「知っている人?」

 問われ、頷く。


「鎮台の軍人だもんね、当然か」

「こんなに顔が大きく映っているのは、近くに寄ったから?」

「違うよ。カメラはね、レンズを絞ったり広げたりしたら、物の見える大きさが替わるんだよ。望遠鏡と同じ仕組みだって思って」

「よくわからないわ」

「うん。でもそれ以上説明できない」

「遠くから撮ったことだけは分かったわ」

「撮られた本人が気づくほどには近づいていないよ。もっともこの辺の写真は次の日の新聞に載せたから、見ているかもしれないけどね」

「……そう」


 はあ、と息を吐いて、もう一度写真を見る。


――史琉しりゅう


 思わぬところで見た姿に、ずきん、と胸の奥が鳴る。


「カメラの仕組みは置いといて――これが何処でいつ撮ったものかは分かるよね?」

「……ええ」

 顔を上げて、ぎゅっと眉を寄せた。

「あなたがさっき言っていた晩でしょう」

「そうさ」


 頷いた斎は、さらに続けて二枚置いた。

 一つは夜空に向かって撮ったものらしい。黒い背景の中に、白いぼんやりしたものが浮いている。

 もう一枚は、太く立つ樹の根元に倒れた人影。


「わたし?」

「そうだよね」


 斎は身を乗り出してきた。


「この写真を撮った時は、魔物に襲われて倒れたのかと思ってた。ところが、次の日に改めて聞いて回れば、花が咲いた後に倒れたっていうじゃないか。そこからさらに重ねて話を聞くうちに、君が咲かせたに違いないと確信したんだ」


 ね、と首を傾げられて、唇を噛む。


「この考えが正しいか確かめるためには、まず君に会えなきゃ仕方ないと思ってさ。花が咲くのを目撃した人たちに聞いて回ったんだけど、誰も君が何処の誰かは知らなくて。それじゃあと、倒れた君を運んだ俥を探し出して、車夫に行き先を訊ねて、病院に行って、そこからようやく鎮台に住んでいると知った」


 斎はかるく咳払いをすると、座りなおした。


「言うと簡単だけど、すっごい時間かかってるの」

「……そう」

 眉を寄せて、見遣る。


「話したいことってのはこのこと。むしろ話してもらいたい、かな」

 見つめ返される。

「君はいったい何をしたの?」


 視線が絡み合ったまま、時間が過ぎる。


 先に動いたのは、やっぱり斎だった。

「だんまりかぁ……」

 肩を竦められた。


「……他のことなら訊いていい?」

「答えられることだったら」

「手厳しいなぁ」


 コホン、と軽く咳払いをしてから、彼は背筋を伸ばした。


「フロイラインは……」

「倖奈です」

「ああ、うん。倖奈、ね。君は『かんなぎ』?」


 一応その肩書きで鎮台にいるのだからと、頷く。

 斎は、膝の上のカメラをテーブルに置き、懐から帳面とペンを取り出した。


「やっぱりそうだよねぇ。どれくらいいるの」

「もう、十五年くらいかしら」

「そんなに?」

「……もっと子供に見える?」

 むっと唇を尖らせる。

「うーん。そういうことじゃなくてね」

 首を振られた。


「そんな小さい頃からいるのかって思ったの。来た頃は、物心なんてついてないでしょ」


 さらさらと走らせていたペンを止めて、 彼は向き直ってきた。


「『かんなぎ』の力は、確かに魔物に有効。心強いものだよ。だけどさ、幼い頃から囲い込んで武器として使ってさ…… 生贄みたいじゃないか」

「そんなこと」

「あると思うよ? 少なくとも、僕が留学した独逸ドイツでは、幼子を親元から引き離すような真似は許されていなかった」


 瞬いて俯く。

「物心つかないうちから鎮台にいてさ。お母さんやお父さんの顔、思い出せる? 来た時のことなんか覚えてないでしょ?」

 その頭の上に言葉が乗りかかってくる。

「苗字も捨てさせられてさ。家族を奪われて、寂しくないの?」


 幼い頃は、万桜の邸にいることも多かった。庭を歩いて、お人形遊びをして、絵本を開いた。

「独りじゃなかったもの」

 美波と二人だった。

「ひとり、じゃ……」


 目をすがめ、斎はペンでこめかみを掻いた。


「君は良かったとしても、これからもこのやり方がまかり通るかと思うと、ムカつくんだよね」

 ぎり、と奥歯を鳴らして。

「本当、軍は嫌いだ」

 彼の鋭い声が響く。


 今度は倖奈が首を振った。

「あなたも、軍のことでいやな思いをしたことがあったのね?」

「ああ…… うん。まあ、ね」

 歯切れが悪い。


 片方だけ眉を下げて、斎は万年筆を回している。

 視線は上に行き、テーブルを這い、倖奈の飲んでいた珈琲椀へ。


「君だけってのは、公平フェアネスじゃないか」


 溜め息が吐き出されてから、視線は窓の外へ向いた。

 ちょうど目の前を、ガラガラと音を立てて、洋風仕立ての馬車が通っていく。その後ろには、萌黄の肩章を誇る軍人が馬に乗って付いていった。

 その影が枠の外に消えた後。

「叔父が軍人でね」

 と斎が呟いた。


「……叔父様?」

「同じ、遠郷えんごうの姓の叔父」

「遠郷……?」


 瞬いて。あ、と声を上げた。


「遠郷大尉!」

「殉職のため二階級特進」

「……そうね。遠郷中佐とお呼びしないといけないわ」

「うん」


 外を見たまま、彼は呟いた。


「もう一年以上経つのか」



 梅雨の時期だった。

 雨の中での魔物掃討戦。死者三名、負傷者八名だったか。

 市内で膨らんだ魔物を郊外へ押し出したまでは良かったが、そこでさらに大きくなったのがいけなかったのだ聞いている。また、足元が悪かったのも災いした、と。

 殴られて倒れ、踏まれて潰れて、人の血が流れる羽目になった。

 亡くなったうちの一人が、戦闘に当たった第五部隊を当時指揮していた遠郷大尉だ。


 真っ黒な服を纏い訪ねた葬儀。

 腫れた目を隠さずに座った人々の列を覚えている。



「叔父は何も残さずに逝った。子どもも、財産も、死んだ原因さえも」

 と言って、斎は珈琲を一口飲んだ。

「原因?」

「踏まれたことによる内臓損傷、ってことじゃないよ。

 何故、一体しかいなかった魔物に対してそんなに甚大な被害が出たのか。指揮命令系統に問題はなかったのか、魔物について現場には正しく伝わっていたのか、とか。

 あの日の部隊に何があったのか、全く分からない」


 ぎっと奥歯が鳴る音が響く。


「何を訊いても軍は答えてくれない。こっちは知りたくて仕方がないっていうのに」

「軍の戦いのことはよく知らないわ」


 ゆるゆると首を振って応える。

 斎は息を吐く。


「君が鎮台の人間だって言っても、訊くのは今日の本題じゃないからね」


 こつん、と音を立てて器を置いて。

 斎はニヤッとした。


「もう一度強調するけど、僕が知りたいのは『君があの晩何をしたのか』だよ。是非記事にさせてくれよ」

「厭よ」


 即答。斎が頬を引き攣らせる。

 体の前で手を振る。


「新聞なんてとんでもない。誰の目にも触れるものでしょ」

「そうだよ」

「そこに載っていたら、誰にも知られてしまうってことじゃない」

「そうだよ」

「そんな目立ちたくない。変に思われたくない」

「おや? そこは誤解だよ、フロイライン」


 ニヤッと斎は口の端を上げた。


「新聞ってものを誤解している。下世話な好奇心を満たすためのものじゃあないんだよ」


 笑んだまま、万年筆の後ろで机を叩きながら。


「いい? 学校で教えてもらえるのは、正しい文字の書き方と読み方と基本の数の数え方だけで、世間を生き抜く知恵なんかじゃないんだよ。 もっと言えば、真実を調べ見抜く方法だって教えてくれない」


 倖奈の瞳を真正面から見て、斎はさらに続けた。


「知りたいと思うことは教えてくれない。ならば自分で知ろうとするしかないんだよ。子供じゃないんだから」

「……子供じゃない」


 視線を受け止めて、唇を噛む。


「世間が知りたいと思っているだろう真実を調べ、知らしめるのが本来の新聞マスコミの役目。この仕事に就いたことを、僕は誇りに思っている」


 斎はまだ笑っていた。


「叔父の件がある前から、僕は特に魔物の発生理由とその退治方法について調べて回っていてね。この間の狂い咲きの件は、とっても興味がある。もし、どんな花でも魔物が消せるというなら、誰だって戦えるようになる。軍は要らなくなる」


 ほ、と息を吐いて、斎はまた珈琲の器を持ち上げた。

 倖奈はしんみりと笑いかける。


「羨ましいわ」

「なにが」

「あなたがいろんなことを考えていることか」

「だーかーらーぁ。子供じゃないんだから。頭を使うんだよ」


 今度は己れのこめかみを万年筆でつつく。


「見る。聞く。覚えて考える。覚えきれないことは道具を使って記録を残すんだよ」


 そう言って、彼はカメラを手に取った。


「こいつは大事な相棒さ。その場の状況を寸分の狂いもなく残してくれる」


 笑われて、つい頬を緩めて、頷いた。


「さっき君が鎮台から出てきた瞬間もちゃんと留めているよ」

「……消して」

「なんで」


 えー、と斎は唇を尖らせた。


「フロイライン、可愛いんだからいいじゃない」

「倖奈です。それと、お世辞は言わないで」

「お世辞じゃないよ、本当にそう思ってるよ。お洒落にだって気を遣ってていい感じさ」

「本当にそう見える?」

「見える見える! 魅力的だと思うよ?」

「そ、そう?」


 ぎゅっと袴を握りしめて、顔を背ける。頬が熱い。


「本当だってば。じゃあ、もう一枚撮ってあげようか。自分をしっかり見れるよ?」


 え、と向き直った瞬間。

 また、カシャン、と鳴った。

 カメラの中から、ジイイイ、という音が響く。


「あ、あの……?」

「撮れたよ。現像したら、あげるから」

「はい?」

「用意ができたら連絡するよ。その時までに、花の話をしてくれるかどうか、考えをまとめておいてね」

「え、えっと」


 がたん、と音を立てて、斎が立ち上がる。

「よろしくね、フロイライン?」

 顔を近づけて、にっと笑われた。

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