22. おかしなおとこ
長着の襟を伸ばす。袴の裾を整える。編んだ髪の先をそっと肩の前に置く。右手首を顔の前に動かすと、甘ったるい匂いがした。
息を詰めて、北向きの部屋の木の扉を叩く。
中から聞こえた返事におかしな声が出そうになって、
こわごわ入った部屋の中は、奥の机の前に座った
「……皆さんは?」
「訓練中だ」
書類から顔を上げ、彼は応えてくれた。
すこし長めの髪が、銀縁の眼鏡の上で揺れている。濃紺の肋骨服は襟元だけ緩められ、白いシャツが覗いている。同じく白い手袋は揃えて、官帽と並んで机の端に置かれていた。
「監督は
そう言って、目を細める。
「新しい着物か」
ほっと息を吐き出して頷く。
「この間出かけていた時にね、夏の着物を仕立ててくれた人にまたお願いしてきたの」
「そうか」
相槌。心臓が跳ねる。
「変…… じゃなきゃいいのだけど」
「好きなものを選んだんだろう」
「そのつもり」
と言って、視線を落とす。
着物は、無地の
実は中も新しい襦袢なのだが、そこまで見えていたら大変だなと思っていたら。
「やっぱり、そういう色が好きなんだな」
彼は、くくく、と喉を震わせている。
頬が熱くなる。
「だって…… その」
「なんだよ」
史琉がさらに目を細めるのに、また心臓が跳ねた。
「夏に着ていた色は、派手じゃなかった?」
「そんなことはない。年頃らしい色だと思ったんだが。まあ、いいさ。好きな物を着られるなら、それが一番だ」
「うん」
ありがとうと小さく呟いて、彼と机を挟んで向かいあって。抱きしめすぎて曲がってしまった書類を差し出した。
「顔、まっかだぞ。熱でもあるのか?」
定例のそれを受け取りながら、問われ。
「……きっと」
正直に答えたら、彼の顔が険しくなった。
「違うの、なんでもないの」
開いた両手を顔の前で振る。甘ったるい香りが空気の中に放たれていく。
微かに史琉は眉を寄せた。
「なんか匂うな」
「その…… 香水を」
細くなる息で応じると、彼は瞬いた。
「おまえでも付けるのか」
「
「分からん。最近はいろんな化粧があるな」
今度の笑いは、ははは、という軽やかなもので。ぎゅう、と胸が締めあげられる。
「いつの間に手に入れたんだ」
「昨日ね、この着物を作ってくれている人と一緒に出かけてきて、その時に」
「楽しかったか?」
「ええ。教えてもらったカステラを食べてきたわ」
すると、史琉は目を丸くした。
「食べたのか?」
え、と呟いて、倖奈も目を丸くして。
「美味しかったわ」
と答えた。
「その、着物を作ってくれている人もね。知っていて。二人で食べてきたの」
「そ、そうか」
彼の頬はわずかに
倖奈の頬は温度を上げる。実は風邪をひいているのではないだろうか、と両手を当てて、首を捻る。倒れてから閉じこもっていたのに、続けて出かけたのがいけなかっただろうか。
史琉も額に手を当てている。
「その…… 噂のクリームはどうだった?」
「あ…… 何も塗っていないのを頂いたわ。ザラメはついてたけど」
「……そうか」
彼の溜め息が空中に逃げる。
「すっかり忘れてた。カステラってばかり思っていたから」
「そうか」
笑みを向けられて、ほっと息を吐く。
「どんなクリームなのかしら」
「呼び方を聞いた気はするんだが思い出せないな。黒っぽい色で甘いんだというのは憶えているんだが」
「そうなの? 餡子みたいな感じ?」
「いや。洋風なんだよ」
「欧羅巴にも餡子があるの?」
「違う。ああ、本当に思い出せないな。黒というより栗色が近いらしいんだけどな。甘いというのも、こう、舌に残る感じらしくて」
史琉が、眉間に皺を寄せ、唸ったところに。
「それはチョコレートだろう?」
唐突に混じった三つ目の声。
肩が揺れる。
「ああ、おかえり。
戸口には部隊の副官が立っている。
「悪かったな、ノックもしないで」
むすっと頬を膨らませて、彼が言うのに。
「問題ない」
ははは、と史琉は乾いた声を立てた。
「終わったのか」
問いかけには静かに頷いて、律斗も机の前まで歩いてきた。
ガシャリ、と軍刀の鞘が鳴る。
「上々だ。次の哨戒の時間まで休憩でいいんだろう?」
史琉もまた頷いて、二人の視線が壁時計に動く。
「あと一時間か」
「それまでに全部片付くんだろうな」
律斗が机の上に広がった紙の山を指すのに、史琉はひょいっと肩を竦めた。
「何とかするよ」
ばさり、と先ほど倖奈が渡した書類も鳴る。
「あの」
と倖奈が声を出すと、二人に振り向かれた。
「……戻ります」
「ああ。ありがとうな、持ってきてもらって」
ふっと笑いかけられ、また熱が上がる。誤魔化すために首を振る。戸口に戻って、取っ手に手をかけて、一度振り向いて。
「チョコレートは」
と言うと、また二人が向いた。
「ああ…… カステラにかかっているんだってな」
ふわりと史琉は言ったのに対して。
「今度食ってくればいいだろう!」
律斗の声は尖っている。
曖昧に笑んで、頭を下げる。
扉を閉めた後。
「遠慮しないで行けばいいだろう!」
また律斗の声が聞こえた。
宛がわれた部屋で、息を吐く。
狭いが、桐箪笥と背の低い棚しか置かれていない、簡素な部屋。
棚の上には、薄い紙が積み上げられている。雑誌や新聞の切り抜き――ショールや革靴を合わせた着こなしを見せる写真や、まとめ髪の手順が書かれた記事たち。先日、新しい着物と一緒に届けられた、真希や店の売り子たちからの「おまけの品」だ。
「もっとお洒落しろってことよね?」
クス、と笑う。
引出しから用意していたお代を取り出して、立ち上がった。
肩の上で三つ編みが跳ねる。その先に最近つけるようにした細いリボンには、気付いてもらえていない。
十月になった空は、さらに透きとおり、あおい。
玄関で、両脇に本を抱えた
「お出かけかい?」
「着物を仕立ててくれた人にお代を払いに行ってきます」
手を振って、門の外へ。
出たところで。
カシャ。
耳慣れない、乾いた音がした。
瞬く。通りに居合わせた誰もが見回す。
「カメラだ」
その一言に続いて、「あれが」とか「怖いな」という声が聞こえた。
極力流れは止めぬように動き続ける人たちの中で、一人、電柱によりかかって立つ青年がいる。
二十歳をいくつか越えた頃合いだろう。
中折れの帽子をかぶり、綾織の三揃いの背広を着ている。首から下げている大きな四角、あれが『カメラ』だろう。
その彼と目が合った。
「こんにちは」
にっと白い歯を見せて、彼はやおら歩み寄ってきた。
一歩、退く。倖奈の二歩目より早く、彼が正面に立ってしまう。
「やっとお会いできたよ、フロイライン」
「ふろ……?」
「
顔中に人懐こい笑みを浮かべたまま彼は言った。
まじまじと見上げる。その首を持ち上げる角度が史琉を見上げる時と同じで、腹が立つ。
唇を噛んで、ぎゅっと前だけ向いて、すっと横を抜ける。
「ちょっと、待ってよ」
後ろから声がかかる。
「お話しできないかな?」
つい、振り向いてしまう。
「出かける用事があるんです」
「じゃあ、その後でいいからさ。僕と付き合ってよ」
ニコニコしたまま彼は言った。
「やっと会えたって言っただろう? 次いつ会えるか分からないから、簡単にさようならできないんだ。分かる?」
狭い歩幅で隣を歩いてくる男をぎゅっと見上げる。
「君と言う人に辿り着くまでに一ヵ月半。そして、鎮台からいつ出てくるのかと待つこと三日。この気持ち汲み取ってくれるかい、フロイライン?」
「知りません!」
叫んで、やってきた路面電車に飛び乗った。その中まで彼は付いて来る。
座席に腰掛けた倖奈の隣に座ると、すっと腕まで伸ばしてきた。
ずしり肩に乗っかってきた腕に、ぞわわ、と背筋が震える。
「フロイラインはいい匂いだねえ」
「そ、そう、ですか」
「細かいところまで気を遣っている女の子は好きだよ」
鉄道駅近くの停車場で降りても、まだ一緒にいる。 いったいどこまで、この風呂の男はついて来るつもりなのか。
馴染みの服屋の入り口も、一緒にくぐってきてしまった。
「新しい着物を買うのかな?」
「いいえ」
「そうなの? 折角だからもう一枚」
「結構です」
キット見上げる。この見上げた時の感覚が、本当に癪に障る。
奥からやってきた真希は目を丸くしている。
顔見知りの三人組は手を叩いていた。
「あらあらあら。素敵な男性を連れているのね!」
「ここに連れてきちゃうぐらい親しいのねぇ」
「次の着物もオネエサンが気合を入れて見立ててあげるわ」
きゃいきゃいと三人に囲まれて、彼は鼻の下を伸ばしている。
「ねえ。アレじゃないでしょ?」
親指でぐいっと示しつつ、真希だけは溜め息を吐いてくれた。
「こんな
軍人だって言ってたし、違うよね。あいつ、どっかのサラリーマンっぽい」
「そうなのかなぁ…… ずっと付いてきてて困ってるんだけど」
「あんた一人で追い払えないなら、あたしが言ってやろうか?」
「ありがとう。でも、何とか自分で言ってみるわ」
倖奈と真希でまた溜め息を吐いた後。
いつもより高い声に見送られて、外に出る。
「御用はこれだけかな?」
風呂の男が笑う。
倖奈は眉を寄せて、見上げた。
「笑ってくれないかなぁ……」
とほほ、と彼は肩を落とす。
「折角の可愛いお顔が台無しだよ、フロイライン」
それでも黙って睨んでいると、さすがに風呂の男も表情を改めてくれた。
「少しお時間を頂けないかな? 話を聞きたいんだよ」
「……どんな?」
「八月の末の話だ。夜中の大路に突然桜が咲いたが、翌朝には何も残っていなかった――これを成したのは君なんだろう?」
ドクン、と心臓が跳ねる。また一歩退く。彼はキリリと引き締まった口元で続けた。
「鎮台にいる『かんなぎ』は不思議な力を発揮する人たちなんだというのは知っているよ。そして、その力で魔物を祓っているのだいうのも一般常識だ。
その上でね。『かんなぎ』とはどんな人たちなのか、この先どんな活躍が期待できるか。そういうことを僕はまとめたいんだよ」
耳の奥が煩いのに、風呂の男の声は真っすぐに届く。
「最終的にはね。『かんなぎ』がいれば軍隊はいらない、と言いたいんだ」
「軍、が?」
「そうだよ。あんな野蛮な集団はいらない」
はっと
「君だって知っているだろう? 周囲の被害に無頓着な連中が軍隊だよ。あの晩、自動車で壊された民家もあるんだよ。それ以前にだって、物を壊したり人を死なせたり。
魔物との戦いだったから仕方ないと言うのが奴らの建前だが、本音はそうじゃない。戦うという形で暴力を振るう、しかも数に任せて乱暴な行為に出るのが奴らだ。表面はどんなに取り繕ったって、結局は人でなしなのが――」
「――史琉たちはそんなじゃない!」
叫んでから、両手で口元を押さえた。
そろり、と風呂の男を睨む。彼は両手も上げた。
「ああ、悪かったよ――君にとっては、憎からぬ人たちなんだよね」
ふう、とそのまま伸びをして。風呂の男は笑い直す。
「そういうわけでね。魔物を
倖奈も両手を下ろし、首を振った。
「せめてお名前くらい聞かせていただいてからじゃないと」
「それもそうだ」
ぽん、と手を叩いてから。彼は帽子を脱いだ。
「僕の名前は
右手を差し出される。瞬いていたら、すっと右手を持ち上げられ、握られた。
「魔物と軍に関することを専門にしている新聞記者だ」
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