16. 暗闇の中ひとすじ(1)

 笛の音が響く。濃紺の一団が駆け抜けていく。


 路面電車の走らないこの通りはさほど広くない。日暮れ時、広さに見合うように、行き交う人の数はさほど多くなかったはずだが、人だかりができている。


「この先にまた出たらしい」

「魔物ってのはいなくならないものなのかねぇ」


 騒めく中で聞こえた会話に、首を巡らせたが、言葉の主は判らなかった。


――どうしよう。


 倖奈ゆきなは、手首に京紫の巾着の紐をかけたまま、ぎゅっと藍色の袴を握った。

 今目の前で怒号を上げている軍人の肩章を見るに、今ここに集まっているのは鎮台の第四部隊らしい。


「通りに人とくるまが入ってくるのは止めたぞ!」

「魔物が動いて周辺が戦場となる可能性あり! この一帯の人間を退避させろ!」


 彼らの声と軍刀に、人だかりが通りの反対へと急かされる。

 混じっていた倖奈も例外ではなく。

「おまえもさっさと行け!」

「あの、わたしは……」

「言い訳は聞かんぞ」

 ぐいっと肩を押され、『かんなぎ』だと名乗ることすらできない。


 首だけ回して向こうを見れば、黒い影がずるりと宙を這ってきている。

「一部、こちらに移動してきたぞ!」

 悲鳴があがる。靴音の間隔が早くなる。

「おまえも行った行った!」


 背中を押されるままに進まされていたその傍を、ごお、と焔が抜けて行った。

 わあ、と声がいくつも上がる。


常盤ときわ!」

 踏みとどまって、顔馴染みの青年の技を思い出して、叫ぶ。

 傍に立つ軍人も、あ、と叫んで首を巡らせた。

 逃げる人たちと入れ替わるように、和服姿の人たちが走ってくる。

「ようやく『かんなぎ』のおでましか」


泰誠たいせい!」

 さらに呼ぶと、狐色の小袖に群青の袴を着た、ぽっちゃりとした青年が手を振ってくる。

 倖奈の後ろにいた軍人は、彼らの先頭を走っていた男に寄っていき。入れ替わるように泰誠がぱたぱたと駆けてきた。


「やあ。出かけてたんだよね」

 背中を叩かれる。

「どうする?」

「できることがあるなら一緒に行く」


 両手を握りしめて呟いたが、泰誠の後ろからすっと出てきた常盤は眉間に皺を刻んた。


「おとなしく戻れ」

「でも」

「何ができるっていうんだ。花を咲かせたところで、魔物は消せない」

「でも、道を塞ぐことはできるわ」


 先日の朝顔を胸の裡にもう一度咲かせて、見上げる。

 常盤は一重の瞳をさらに細くして唇も曲げたが、泰誠は手を打った。


「ああ、いいかもね。今出ているのは、小さいやつの群れなんだろう? それこそ蜘蛛の巣みたいに引っ掻けることができるかも」


 にこっと笑って、泰誠は倖奈の肩をまた叩く。


「あそこのサルスベリは?」

「……もう咲いているけど」

「もっと満開に近づけてあげられるでしょ?」


 言って、彼は首を傾げた。


「でも、こっちまで来てないなら意味ないか。もっと向こうで出たんだっけ。その中からこちらに流れてきてるのもいるらしいけれど」

「今燃やした分はそういうことか」

「固まられているより、ばらけているほうが対処しやすいかな?」


 泰誠の溜め息を背に、常盤が通りの北へと走っていく。

 しばし後に、また赤い光。

 焔は確かに黒い靄を塵へと変えていっているのだろう。

 それから逃れられても、濃紺の肋骨服が追いかけてきて、斬り伏せているに違いないと思ったのだが。


「その魔物! 止めて~!」


 赤い光を背に、叫びながら近づいてくる人に、目を丸くする。


颯太そうた!?」

「倖奈ぁ~! そいつ、そいつだって!」


 彼の何十歩も前の宙をすべる黒い靄に、あ、と呟く。

 泰誠が一歩出て。バチリ、と稲妻を走らせた。ぽん、と靄が弾ける。

 その場所まで走ってきて。


「は~、良かったぁ」


 ぜえ、と膝に手をついて彼が言うのに、右手の指先に雷を纏わせたままの泰誠が首を傾げる。


「何やってるの?」

「え? 魔物を追いかけてました」

「それは分かるんだけど。なんで、主部隊から逆走してきてるのかなって」


 半目になって見遣る泰誠に、颯太が一歩退く。

 その後ろから、また一人、肋骨服を着た少年が出てくる。


「僕らは軍人ですから。魔物と戦うのは当然でしょう?」

「いや、そうじゃなくてね。部隊は統一して動くのが大事だよ、っていうね」

「その魔物が、群れからはぐれて飛んで行ったのを追いかけてきたんです。あ、消していただいたのは、ありがとうございます」

「うん。どういたしまして」


 ふっと泰誠は肩を落として、視線を動かした。

「ああ…… 君らは第五部隊――柳津大尉のところなのか」

 倖奈も彼らの肩章を見る。

 それから、もう一人の少年が、いつも第五部隊で見かける顔だと思い出した。


――颯太と一緒のところを何度も見た人。図書室で魔物を追い払った時にもいた人。

「それが何か?」

 肩を尖らせて、彼はやや背が低い泰誠を見下ろす。


「うん。今の哨戒部隊は第四部隊って聞いていたから。君たちはどうしてここに?」

「外出です」

「……門限に遅れているようだけど」


 懐中時計を取り出して、目を細めて。泰誠も負けていない。少年と彼の視線ががっちりと噛みあう。

 先に息を吐いたのは、泰誠だ。


「まあ、いいや。それで? 今追いかけてきた魔物は、何処から?」

「あっち!」

 答えたのは颯太。ぶんと腕を振って、先ほど常盤が走っていった方角を指さす。

「……君、報告の仕方を習いなさいね」

 泰誠がもう一度溜め息。颯太が項垂れる。


「何を落ち込んでいるんですか」

「えー、だってさー。かいー!」

「情けない声で呼ばないで、本当に」


 二人が言いあう、その向こうの空気の動きに。

「あ」

 と呟く。


「また飛んでくる!」


 倖奈が叫ぶと、三人とも振り返った。

 奇声をあげて、少年が軍刀を振りかぶって、太い音を響かせた。

 今度は先ほどより数多く飛んできていたらしい。


「そっち! 斬って!」

「うああああ! 菜々子ななこぉ!」


 颯太と櫂の振り回す刃の音が続く。

 泰誠もまた、あちらこちらと顔を向けて、指先を向けている。

「多いなぁ……」

 ばちん、と 雷が弾ける音に硬い靴音がたくさん近づいてくる音も混ざる。


「そっちに塊が動いて行くぞ!」

 聞こえる声に、げえ、と颯太が呻く。

「もしかして、角のところにいた蚊柱みたいなヤツかな!?」

「ああ…… 小さいのがやたらと固まってたよね」

「問題の群れだね。刀で斬り伏せるのは難しいだろうに、常盤は焼いちゃわなかったのかな」

 櫂と泰誠が呟くのに、倖奈も肩を縮こまらせる。


 周りにはまだ細かい靄。ずるっと傍に寄ってきた一つを、泰誠がまた弾け飛ばす。

 飛んでいった先には、サルスベリ。


「そうか」


 紅の花が夜の気配の中で揺れている。

 その向こうから、黒い靄の塊と濃紺の人たちがどんどん近づいてくる。

 ぎゅっともう一度手を握って。ばっと身を翻し、幹に飛びつく。


 色がさあっと鮮やかになる。


 黒い渦巻は、サルスベリの木に突っ込んできて、そのまま弾けた。ばあ、と黒い欠片が方々に散らばる。


「一個ずつだ! 焦らず当たれ!」


 掛け声に応という声が続く。


「鎮台に伝令! 魔物が市中に分散!」

「家から出るなと触れて回れ!」


 石畳を打つ革靴の音がガンガン響く。広がる。


「倖奈、どけ!」


 常盤の声に、その場にしゃがみ込む。頭の上を、ごお、と焔が駆ける。


「そっち! そっちにも行った!」

「俺はぁ! 勝ーつ! 絶対勝つ!」

 少年の叫び声に、颯太の雄叫びが重なる。

「ああ、もう! 仕方ないぁ!」

 泰誠も、手の甲で汗をぬぐって走り出す。




 取り残された。




 辺りは静まりかえっている。

 息を深く吸ったところで、ぽつん、と滴が葉を弾いた。


「雨だ」


 頬にも、額にもそれを受けて呟き、空を見上げた。


 真っ暗だ。

 通りにはガス燈がぼんやりと灯っていても、走っていった人たちの姿は見えない。

 ぽつん、ぽつん、と雨粒が顔に当たって落ちていく。


――魔物は、花に当たって散らばっていった。


 するりと落ちてきた紅の花びらは、石畳の上で湿った音を立てる。


 耳の奥が煩い。喉の内側にせり上がってくるものを押さえようと、両手を口に当てた。

 きょろきょろと左右を見る。

 動いているのは雨に揺らされる葉だけ。


 誰もいない、何もない。


 その中で、目の前に、ゆらり、と黒い靄が細く伸びてきた。


 咄嗟に巾着を振り当てると、靄はまた千切れる。

 散らばる。

 消えることなく、風に流されていく。


――ほら。たおせない。


 かつん、と石畳を蹴って走り出した。


 がむしゃらに腕を振る。前髪が顔に貼りつき、着物の肩が湿って重くなっても、まだ進む。

 追いついて、巾着を振り当てて。

 またしてもゆらりと逃げたそれに、もう一つ影が寄ってくる。

 息を呑む。

 一歩下がったら、さらに後ろへと腕を引かれた。


 ふわりと浮いた体の前に、濃紺の背中が立つ。

 どさ、と顔をその背にぶつけた。


 刃が走る音が一回。

 そして、数瞬の静寂。


 と息を吐いて、顔を上げる。肩越しに振り返る人と目があった。


史琉しりゅう


 口許はぴりりと引き締められて、眉も吊り上げられたまま。今は眼鏡をかけていなくから、三白眼が真っ直ぐに向けられてくる。

 その人の官帽の端から滴が零れる。


「なんでここにいるんだ。寮にいるものだと思っていたのに。――って、これは俺の思い込みか」


 ゆるく頭を振って、彼は右手の軍刀を握り直す。その彼の肋骨服の袖の端を掴む。


「史琉」

「なんだよ」


 呼ぶと、彼は目を細める。体の芯が、ずき、と痛む。


「やっぱりやくたたずなの」


 痛むまま吐き出すと、彼の眉が跳ねた。


「必要以上の卑下はいらない」

「でも」


 ぎゅ、と指先に力がこもり、袖に皺をつける。


「わたし、余計なことをしたのかもしれない」


 首を傾げられる。


「なにもしなければよかった」


 唇は動き続ける。


「魔物が」

「出たんだってな」

「あっちこっちに飛んで行っちゃったの」

「ああ。そういう報告を聞いた」

「わたしが…… わたしが花を咲かせたから!」


 反対の手でも史琉の袖を掴んで。


「魔物は花を嫌うの、知っていたわ。だからそこから逃げるの。そう、気づかなきゃいけなかったのに」


 なお、叫ぶ。


「わたしがいけないの、やっぱりなにもできないのに、おとなぶって……」


 不意に。

 唇に何かが触れた。

 瞬く。

 目の前には、眦に皺を寄せた顔。


「少し黙れ」


 離れていったのは、史琉の左の指先。

 白い手袋で覆われた手を、彼は自分の口元にも当てた。


「勢いまかせに喋るな。黙って、話すべきことをまとめて、それからにしろ」


 するりと袖を離してしまった指先を、己の口元にのせる。

 そこは、熱かった。

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