13. 解けて、溶ける

「蒸し暑いのう」

 呼びかけられ、倖奈ゆきなは目を丸くした。

「シロ。あなた、ここに居たの?」

「おお。懐深く迎えてもらったぞい」

 目を細めて、少年は笑う。

 髪をきちんと梳き、銀鼠ぎんねずの清潔な麻の単を着流した姿は、先日街中で出会った時と随分印象が違う。一重の瞳をまじまじと覗き込む。

「おお、そんなに見つめられると照れるぞい」

 ぐいっと腰をくねらせたシロに、倖奈は首を傾げた。

「通じておらんのう」

 肩を落としてから、彼は言った。

「で、お主は何用でここにおるのじゃ?」

「お呼ばれしたの」

「ほほう。ここの主にか」

 ニヤニヤと彼は笑い。

「では一緒に出向こうか」

 と歩き出す。

 きゅ、とみぞおちの辺りが痛む。倖奈は一つ息を吐いてからその背を追った。


 鎮台から東。

 旧くからの貴族の邸が立ち並ぶ一角にある、白い塀に囲まれた、古めかしい平屋。

 訪いを告げると、内縁を辿って庭が一望できる部屋の前へ案内された。

万桜まお様」

 呼びかけると、床の間の前に正座した老女は、自分の前を扇で示した。

 それを持つ白い手は皺だらけ、袖から覗く腕は皮が弛み骨が目立っている。頸は細く、頬も落ち、目元の窪みが目立つ顔だ。だが、白いながらも形の良い眉は、きりりとしなっている。

 ピンと伸びた背で着こなされているのは、象牙色の上に凝った刺繍が施された絹の長着。扇もまたしなやかな竹の骨で、佳い物だと疑いがない。

 鳥の子色の小袖と松葉色の袴は、この人の前に着てくるのにおかしくなかっただろうか、と微かに迷った。


 この人は、『かんなぎ』として長く、大いに力を振るってきた人だ。

 その祓った武具は特に勇ましく、数多の武人の功を支えてきたのだという。彼女に師事した『かんなぎ』もまた数多い。

 そして、帝の血筋に連なる、しきの宮と呼び習わされている方を伴侶とした、位高い家の人でもある。

 倖奈にとっては、『かんなぎ』としても同じ女性としても、厳しく接してくる先達。


 今日もまなざしは冷たい。

 自然、倖奈の背筋も伸びる。示された座布団の上へはそろりと腰を下ろした。

 シロはどさっと畳の上へと腰を落とす。

「よく、参りました」

 女中の置いて行ったお茶に視線を移しながら、老女は言った。

「お変わりないですか?」

 訊くと、満足げに頷かれる。

「貴女も精進しているようで何よりです」

 そこに、また女中が静かに縁側を歩いてきた。その彼女が何を言うより先に。

「いらっしゃいましたか。すぐにお通しなさい」

 万桜が言い、女中はまた足音を立てず去っていく。

「今日はもう一人、呼んだのです」

 言って、視線を縁側からさらに外に向ける。しばらくしてやってきた人に、倖奈は目を丸くした。

史琉しりゅう

 かっちりと首元まで釦が止められた濃紺の肋骨服に白い手袋。微かに日光を弾いた襟章。

 倖奈に見向くことなく、表情も硬いまま、彼はゆっくりと官帽を脱いだ。

「お初にお目にかかります、色の宮妃殿下」

「お上がりなさい」

 万桜がまた扇で差す。史琉は靴を脱いで縁側に上がると、部屋との際に腰を下ろした。

 よっこいしょ、と声を上げて、シロがその横に這いずっていく。

「お主にも世話になったのう」

「そうですね」

 常に比べると低い声で史琉が応じる。

「よってたかって体中洗われてどうなるかと思ったが、さっぱりしたわい」

 シロが笑う。

「それは良かった。お蔭様でうちの衛生班は全員寝込んでおりますが」

 くくっと僅かに喉を鳴らし、史琉は口元を引き結んだ。

 万桜は、扇を鳴らす。

「シロを拾うにも至った先だっての事、詳しく聞きたいと思いましてね」

 彼女は倖奈を一度見てから、史琉に視線を移す。

「これが、街中で花を咲かせたと聞きました。花を咲かせて、軍が魔物を狩るのを助力したと聞いています」

「協力、ではなくて、助力、なのですね」

「……何か?」

「いいえ」

 ぴりとした表情のまま、彼は首を振る。

 倖奈は乾いた喉から声を絞り出した。

「いけなかったでしょうか」

「まさか。喜んでいますとも」

 お茶を啜ってから、万桜は首を振る。

「そのような使い方があったか、と驚きました」

「わしが一所懸命喋ってやったんじゃよ」

 胡坐をかいたシロが、ぶんぶんと手を振る。

「万桜も驚くことがあったのかとびっくりしたぞ」

 ニヤニヤ笑う顔に瞬いて、倖奈は万桜を向く。

 口元を引き結んで、ぱちん、と老女はまた扇を鳴らし、倖奈と史琉に向けた。

「花がどのように咲いたのか。如何に魔物に対して動いたのか。いろいろと気になっておるのですよ」

 そうは言われても、と倖奈は視線を落とした。

 今思うと、ただ花を咲かすことしか思っていなかったのだ。その結果どうなる、など全く考えていなかった。

 伝えることなど無い、と言おうとしたが。

 万桜は矢継ぎ早に尋ねてくる。

 大方は史琉が静かに応じてくれて、その合間に必死に言葉を連ねているうちに、 彼女は満足したらしい。

「とにもかくにも、わたくしはほっとしました」

 今日初めてゆるりと笑われる。

「これで貴女を『かんなぎ』と上に紹介できる」

「……上?」

「主上にですよ」

 さらりとこの国で一番尊い人のことを言われ、倖奈は頬を引き攣らせた。

「え……?」

「本振袖を用意させなければね」

「は、はい?」

「折よく、月の終わりに顔を見せに来いと言われています。都に配置された新任将校の慰労会を行うからそれに合わせてとね。貴方も呼ばれているでしょう、柳津大尉殿?」

「はい」

 ほんの少しだけ苦みを含めた笑いを浮かべて、史琉は頷く。万桜は鷹揚に笑んだ。

「一緒に参りますよ、倖奈」

「禁裏にですか?」

「そうですよ」

 ぽかん、と口が開いてしまう。シロが盛大に吹き出した。

「焦っておるぞ。本当に連れて行くのか」

「勿論です」

「おお、本気じゃな。逃げられんぞ、倖奈」

 くくく、とシロは笑い続けている。倖奈は何度も何度も瞬いて、両手をきつく握りしめた。



 門の外、炎天下。

 蝉の声が煩い。路面電車の通らぬ大路に人々が落とす影が濃い。

 さあ帰ろうと歩き出したものの、足がだるい。

 万桜の前には一時間もいなかったのに、肩が重くなっている。

 はあ、と息を零す。

 微かな笑い声が聞こえて顔を上げると、額にうっすらと汗をかいた人が見下ろしてきていた。

「暑いな」

「うん」

 じっと見上げると、彼はまた笑った。

「少し涼んでから帰るか」

「……涼む?」

 首を傾げると、返ってくる笑みが深くなった。

「おまえ、氷菓子を食べたことあるか?」



 建屋の中だけでなく、通りにはみ出した長椅子も、人でいっぱい。そんな賑やかな茶店ののれんをくぐる。

 人と椅子の合間を縫って、前掛け姿の少女たちがばたばたと走り回っている。その手にしたお盆の上には、硝子の器にこんもりと盛られた削り氷。

「あれに果物で作った蜜をかけるんだってさ」

「初めて見た!」

 軒先に下がっていた『氷』の字の旗の意味を理解して、 頬を緩め、手を叩く。

 そっと肩を押されて、反響する声の中を進んで。

 隅の長椅子に腰を下ろすと、すぐに売り子が飛んできた。倖奈が瞬いているうちに、史琉と話し終えてしまったらしく、彼女は勢いよく駆け去っていく。

 そして、どちらからともなく溜め息を吐いて、顔を見合わせて吹き出した。

「いい御邸はその分気疲れする」

 肩を竦めた彼に、倖奈もくすくすと笑いを返した。

「不思議。あなたは何にも驚かなさそうなのに」

「まさか。そもそも、さすがに軍部以外の人のご自宅に招かれるとは予想してないさ。焦っていたんだよ」

「そうなの?」

「禁裏とか、さらに緊張するんだろうなぁ」

 彼は難しい顔のまま、手袋を外して肋骨服の前を広げ、ばたばたと手を動かしている。

 それを見て巾着に忍ばせていた扇子を広げ煽いでやると、彼は目を丸くした。

「そういう小物を持って歩いているあたりは女の子だなと思うけどな……」

「え?」

 きょとんとなる。彼はくくっと喉を鳴らして、倖奈の袴を指差した。

「新しく買ったのか?」

 それにこくんと首を振る。

「気付いてくれたの?」

「この間、な。明るい色の方がやっぱり似合ってるじゃないか」

「うん……」

 ありがとう、と言おうとしたのに。声が喉でつっかえる。あれ、と手を喉に当てる。

 その隙に史琉が、倖奈の手から扇子をすっと抜き取ってしまった。

「せっかくの着物がこれじゃあ台無しだそ」

「ええ?」

 長く使ってきたそれは、貰い物だ。白檀の香りも薄れてきた、無地のもの。

「どうしてこれだけ…… 違うな、着物以外は、だ。着物以外はどうして婆臭いままなんだ。まあ、一回に全部買い替えるってのは大変だろうけどなぁ……」

 指先で扇子を掴んだまま、彼は肩を震わせ始めた。

「折角なんだから、年頃らしい色や柄のを探してみたらどうだ? 多少安い物を使っていても若いうちは赦されるもんさ」

「扇子を?」

「その巾着もだよ。そこだけ紫のままか」

「ああ、そうか」

「髪の結い方だっていろいろあるんじゃないのか?」

「三つ編みって駄目?」

「駄目っていうか…… それだけ子どもっぽい。大人になりたいと言ってたのにな」

 彼はくっくっと喉を鳴らし続けている。倖奈は眉を下げた。

「なんとなくわかったわ。身だしなみ全体の釣り合いが悪いってことよね」

「そう、そういうこと」

 少し笑みの形を変えた彼に、ふっと胸が軽くなる。

「また考えてみる。着る物だけじゃなくて、持つ物もなのね」

「そうだな。……今度、振袖も作るんだろう? それもじっくり考えないといけないんじゃないか?」

「ああ、そうか」

 指先を顎に添えて、息を吐く。

「どんなのがいいんだろう」

「さすがに女物の礼装は詳しくはないが…… 難しいだろうな。派手過ぎず地味過ぎずってことになるんだろう。何より似合ってないと一番惨めだがな」

「そうだよね」

 うう、と唸る。彼は今度は小袖の先を指差した。

「似合うのは分かるんだろう?」

「思っていた以上に、淡い色が」

「じゃあ、そういう中から選んで来いよ」

「……うん」

「楽しみだな」

 また笑われる。

「あ、ありがとう」

 今度こそ、と言葉を吐き出して。

「……史琉も気遣っていること多いの?」

 問うと、彼は肩を竦めた。

「まあね。偉くなるとめんどくさいことになるんだよ、軍人は」

 そういえば、尉官に昇進すると制服などが支給から自前の用意になって大変だという話だ、などと思い出しながら。

「また教えてもらったわ。ありがとう」

 言うと、彼は首を横に振った。

「そんなつもりはないんだがな」

「そうかしら。たくさん教えてもらっているわ。身だしなみのことも、花を咲かせればいいってことも」

 見上げる。頬を緩める。

 ふっと息を吐いて、彼は向き直ってきた。

「おまえも気遣ってくれてありがとうな」

 すっと扇子を戻される。両手で受け取りながら、彼の手を見た。

 大きくて、日に灼けた掌。指先は逆剥けていて、硬そうだ。

――わたしと違う。

 じっと魅入って。

「おまちどうさま!」

 はっと我に返ったのは、店の子の声でだ。

 どんっと目の前に皿を突き出され、慌てて両手で受ける。

「冷たい!」

 藍色のガラスの器には透きとおった黄色の蜜で飾られた削り氷。

「ほら、早く食えよ」

 急かす声に見向くと、目の端に皺を寄せた史琉と目が合う。

 上着の前釦をすべて取ってしまった彼は右手で玉ラムネの瓶を揺らしている。

「えっと……」

「溶けちまったら水だぞ、水」

 また片手で自分を仰ぎながら、彼は瓶をあおる。

「頂きます」

 ぎゅっと眉を寄せてから、匙でそれを口に運ぶ。

 酸っぱい檸檬の香りが鼻を通る。そして、キン、と頭の芯がうずく。

「変な感じ」

 あはは、と笑う。隣から笑い声が返ってくる。

「旨いとかじゃないのか」

「え? 美味おいしいわよ。でも、頭の中が変な感じなんだもの」

「変、ねえ……」

「史琉は食べないの?」

 誘ってくれたのに、と倖奈は頬を膨らませる。史琉は笑みを浮かべたままだ。

 むっとなって。

 さくり、と匙で一掬いして、目の前に出した。

「どうぞ」

 史琉はありえないくらい目を見開いた。口は中途半端に動きを止めている。

「もうちょっと開けてくれないと、入れられないよ?」

 匙をずいっとさらに突き出す。

「……いや。いい」

 静かに彼は首を横に振って、そっぽを向いてしまった。

「おまえが全部食え」

「美味しいのに」

 もう一度、頬を膨らます。だけど、サクサクとした感触が無くなってしまうのは惜しくて。結局、せっせと匙を運ぶ羽目になった。


「御馳走様」

 軽くなった足取りで鎮台への道を辿る。

 肋骨服を着直した彼は柔らかい笑みで――そう、最初の強面との印象を吹き飛ばすような笑みで――一緒に歩いてくれる。

「また、お話できる?」

「機会があればな」

 どうすれば『機会』が作れるだろう、と胸の裡で考える。


――こればかりは、大人になれば、じゃない。

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