10. さあ、牙を剥け(1)
「着てくれたんだ!」
店に入ると、
興奮が収まってから改めて見て、届けられたのは、真夏に着るための麻の薄物だと知った。それらの新しい着物をしまう際に、桐箪笥の中を全て改めて。擦れたものや汚れの目立つものは捨ててしまった。
新しいものと残ったものを眺めて、どれも少しずつ織や厚さが違うのだと気が付いて。長着と帯と袴の組合せが変わると雰囲気が変わるのだと知って。
今日は、その中から白い木綿の
「袴、適当に選んじゃった」
ペロリと真希が舌を出すが、倖奈は首を横に振る。
「大丈夫。気に入ったわ」
「組み合わせもいい感じ。似合ってんじゃん」
「どうもありがとう」
勧められて、戸に近いところに置かれた椅子に腰掛けた。
土間の広さを埋めるように長椅子はいくつも並べられ、腰を降ろしている客も大勢居て、かなりざわめいている。
冷えた麦茶が差し出された後、真希が隣に座った。
「じゃあ、早速」
渡された伝票を見て、目を瞠る。
分かっているのかいないのか、真希は笑顔のままだ。
「次は、来月に単。秋冬に袷を買ってね」
「ええ!?」
「もう張り切って生地を探しているから。色は黄色かなって思っているけど、模様が違うの探してる。まるっきり一緒だとつまらないでしょ?」
「そ、そうね?」
「単衣は綿ね。袷は
「う、うん?」
「あー。柄物は一番外に着る羽織にしておくってもの手ね。倖奈はどうしたい?」
「どうかしらね?」
そんな会話を交わした後、しっかり抱えてきた財布から札を取り出した。それを奥に持っていく真希の背中を見送って、首をひねる。
単と袷を買うことは決定事項なのだろうか。もちろん、倖奈としては厭な話ではない。むしろ、あの心地をまた味わえるのかと嬉しいくらいだ。
だが、しかし。また今日と同じだけの出費なのだろうか。
高くなるのだろうか安くなるのだろうか。お金がどれくらい必要になるものなのかという見通しが持てない。こんなときは、余計に用意しておくに越したことはないのだろうか。
頭の中であれこれと計算して。ぽつんと思った。
――お金って、買い物するとすぐ無くなるのね。
鎮台で暮らしている中で気にしたことなんかなかった。ただ、新聞の連載小説に出てきた下町のおかみさんが「お金がない」と嘆いていたのを思い出す。
――きっと、こんな悩みよりも、もっと大変なんだろうな。
溜め息を吐き出すと、戻ってきていた真希に笑われた。
「今、めちゃくちゃ考えてたでしょ」
「そうよ。次も真希から買うために、お金を貯めておこうと考えていたわ」
言うと、彼女は頬を染めて、目を逸らした。
「あんたってねえ……」
その様子にぷっと噴き出す。真希もまた笑う。
「じゃあ、八月に単。九月に袷と秋冬用の袴。作るからね、絶対買ってよ」
「また袴も!? ……うん。分かったわ」
ぎゅっと両手を握りあって。それから、外に出た。
日差しが眩しい。
色とりどりの、行き交う人々の袖と裾が翻る。
自分のおさげ髪と、手首にかけた京紫の巾着と、黒漆の草履が立てる音に、口笛を吹きそうになった。
――美波が、お洒落が好きって言った気持ちが分かる。
もっと早くに気が付いていれば良かったと思う。
帰ったら、今日は魔物や天気の話じゃなくて、お洒落の話をしてみよう。着物の柄、布地、それに形のこと――西洋のドレスのことでもいい。もしかしたら、男物の話にも詳しいかもしれない。
軽い足取りで向かう先は、路面電車の停車場。鉄道の駅の前のところだ。
乗り場は、道より一段高く設けられている。
今、そこには誰も立っていない。
倖奈は首を傾げた。昼間、車輌はひっきりなしに来るが、誰も待っていないということはない。ここは街で一番混む場所なのに。何故誰もそこで待っていないだろうと考えながら、近寄って行こうとして。
ああ、と思った。
臭いのだ。
乗り場の標識の下から、形容しがたい悪臭が漂っている。
人波はそこを避けて流れていた。停車場に行きたいだろう人たちは、何間も離れたところで顔を
倖奈もそこから先に寄るのを止めて、両手で鼻と口を覆ってから目を凝らして。標識のたもとに人が座り込んでいるのを知った。
袖は肘まで、袴も膝までしかない、中途半端な長着を着ている。その布地は泥と日焼けのせいか、奇妙なまだら模様になっている。下駄もおざなりに履いているだけで、とれかけた鼻緒は土色。脛もまた泥だらけで、髪は埃で真っ白だ。
そこまで確認して、踵を返そうとして。
「おおい」
彼が顔を上げた。視線が絡む。
「おおい、おおい。そこのお嬢ちゃんよ」
間違いなく、呼ばれている。一歩退く。
「逃げてくれるな…… 傷つくではないか」
大きく見開かれた瞳。情けなく垂れ下がった眉。
ずきりと胸が鳴ったので、そろりと段を登った。
片手は鼻に当てたまま、正面に立つと、彼――そう、少年だ――は、笑った。
「随分な力を持っているのう」
真っ黒な瞳がまっすぐ覗いてくる。見返して、ごくり、と喉を鳴らした。
「何のこと?」
「おぬしの力じゃよ。『かんなぎ』なんじゃろ?」
「どうして分かるの?」
「そりゃあ、分かる。特におぬしのように、力ある存在はな。何ができる?」
口を開きかけて、
「なんじゃ、言ってくれぬのか」
はああ、と肩を落とされて、眉間に力が入る。
「だが、心配ないな。言ってくれんでも、見せてもらうことはできるかもだな」
ニヤニヤ笑った彼は首を振って、視線を動かした。
その先からは、ゴトゴト揺れる路面電車が走ってきている。
さらにその後ろには、黒い影。どんどん大きく膨れ上がっていく、塊。
「魔物だぁ!」
誰かが叫ぶ。わっと声があがり、人波がどっと動いた。
膨れ上がったそれは今、電車より大きくなっていた。伸びた鋭い爪が、車輌を掴む、引っ張る。
中から悲鳴が上がる。
「まあ、魔物は物を壊すことはないから、乗っている限りは魔物に命を取られることはなかろうて」
ふっふっと少年が笑う。
「生きた心地はしないじゃろうな」
「そうでしょうね」
車輌は満員に近い。魔物に揺らされて、転んだ人もいるようだ。運転士は
唇を噛む。
「それ、出番じゃ」
笑い声。
振り向くと、また視線が合った。
「おぬしならあれを消せる」
「私の力は、魔物を消したりはしないわ」
「それは思い込みというものよ」
少年は目を細めた。
「最終的に、魔物を祓う、ということに繋がるのが『かんなぎ』の力じゃ。考え過ぎることはない。おぬしの力をそのまま使えばいい」
――私の力。
「どうじゃ? おぬしのできることをやってみろ。魔物にぶつけてみろ」
唇を噛む。口の中でわずかに錆びた味が広がった。
見回す。人が去った通りに残っているのは、満開にはまだとおいフヨウの花。
――花を咲かせるだけで、おまえは十分なんじゃないのか?
いつだったろう。彼がそう言ってくれたのは。
そこにいないはずの、濃紺の肋骨服を着た背中が見える。戦うことに迷いのない、彼の背が。
――
刀を抜くのだろう。斬り伏せるのだろう。迷うことなど、ない。
一歩踏み出す。車輌に近づく。
魔物の無いはずの目がこちらを向いた気がして、肩を揺らす。
だが、さらに踏み出して、魔物に一番近い木の前に立って。
「咲いて!」
叫んだ。
ふわりと香りが立つ。次から次へと開き、花びらが舞っていく。
それらは一気に魔物の口に吸いこまれていった。
のけぞった塊が吠える。声なき声は旋風となって、通りを荒らしていく。
目を閉じ、耳を塞いで、それが通り過ぎるのを待つ。
そろりと目を開けると、車輌はそのままに、魔物が通りの向こうに去っていくのが見えた。
「やった……」
ぼっと頬が熱くなる。
ガタンという音に見遣ると、車輌のドアが開いて、乗客が転がり出てきていた。人々は、魔物が去った方とは逆へと走っていく。
「追い返したのう」
見向くと、ニヤニヤ顔の少年が近寄ってきていた。
「見ていたの?」
眉を寄せて問うと。
「無論」
目尻に皺を寄せて、少年は体を揺らした。
「花を咲かせる、か。長く生きてきたが、そんなことができる御仁には出会ったことがないぞ」
瞬いて、彼の顔を見る。
日に灼けているが、形良い目鼻立ちだ。十五、六といった年頃だろうか。そのわりには老いた口調だ。さらに「長く生きてきた」などと言われて、何と返せば良いのやら。
黙って、両手で袴を握りしめる。
彼はにやにやと顔を寄せてきた。
うっと唸って、のけぞる。
「おぬし、名は?」
「……倖奈です」
彼は思いのほかきれいな歯を見せて笑った。
「わしは、シロじゃ。よろしく頼む」
がしっと手を握られて、ブンブンと振られる。
掌にじゃりじゃりした感触が残ったので、見れば、砂がいっぱい付いていた。
袴にもざらざらと付いていて、一気に肩が重くなった。
さらに肩を叩かれそうになったので、慌てて身を退く。
「嫌がられておるのう」
ふう、と息を吐いてから、彼は魔物が去った方を指さした。
「まあ、よい。倖奈よ、追うぞ」
「……追う?」
「当然じゃろう。行った先でまた暴れておるに違いないではないか」
確かにそうだ。だが、完全に祓うことができるわけでもないのに、倖奈が行って
「まあ、なんとかなるじゃろ」
見透かしたように、シロが言う。
「ああ、そうじゃ。わしも一応『かんなぎ』じゃ」
「……一応」
「それ行くぞ」
ガラリガラリ下駄を鳴らして、彼は歩き始める。
「はようせい」
ぶんぶんと首を振ってから、慌てて追いかけた。
それにしても、臭い。
由々しき問題だ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます