05. 妨害者と挑戦者(2)

 ただの真っ黒い塊だ。

 瞳は無く、ただ噛みつくための口と引っ掻くための爪だけを持った、塊。

 それは今、本棚の並ぶ部屋の中に唐突に現れて、ふよふよと漂っている。

「こいつが、魔物……!」

 ごくり、とかいが喉を鳴らすのが聞こえた。倖奈ゆきなのお下げ髪が揺れるのも見えた。颯太そうたもまた、一歩、後ずさる。


――がんがんいこうぜ? いのちだいじに? どっちだと思う、ねえ菜々子ななこ


「命令だ。そいつを斃せ」

 ただ一人、常と変わらぬ調子なのは、柳津やないづ大尉だけだ。

「鎮台の中に魔物が出たなんて醜聞、出したくないだろう? 幸い、俺たち以外誰もいない。さっさと斃してしまえば済む話だ」

 そう言うと、彼は本を置いて、くるりと背を向けた。

 その背中が棚の向こうに隠れてしまうのを見届けて。

「マ、マジでー!?」

 思わず叫ぶ。

 同時に、ざわりと空気が揺れて、振り向くと塊がその口を開いたところだった。

「丸腰! 僕たち丸腰なんですけど!」

「驚いた。軍人さんって皆、刀を持っているわけじゃないのね」

「新人だから支給前でーす」

 あははっと言ってみたが、頬が引き攣る。

 櫂が、ぶるっ、とまた体を揺らし。

「ちょっと、君! しゃがむ!」

 机の反対側にいる倖奈に叫ぶ。

 倖奈がその場にへたり込んだ途端、彼女の頭があったところを爪が唸って通り過ぎる。

「倖奈!」

 わっと体を乗り出すと、机の上で花瓶が倒れた。

 その花瓶を掴んで、投げる。

 ぼふん、という音を立てて花瓶がぶつかり、塊は床に落ちる。

「ああ! 床に水! 染みがぁ!」

「し、しかたないよね!」

 ひいっと叫んで頬を引きつらせているところに、向きを変えた塊が突っ込んできた。

 わっと声をあげて、二人左右に飛び退る。

 出来た隙間を塊が通り抜けて、一間先で振り返る。そして、ぐわっと牙を剥く。

「うあああああ!」

 その口めがけて椅子を振った。また妙な音を立てて、塊が宙で回る。

「寄るな、化け物!」

 櫂も叫び、椅子を振り上げた。ぶうん、と唸って椅子が塊に向かって飛ぶ。

 椅子に押し退けられて、ふよんっと塊は空中で揺れると、棚にぶつかる。棚は揺れることなく立っていて、塊だけが跳ね返って、また倖奈の方へ。

「えええええ!?」

「ちょっと! 君!」

 櫂が叫び、颯太はがばっと机に飛び乗った。今度は本を拾い上げて、塊をバシッと叩く。塊が床に落ちる。

「だからなんで倖奈の前に落ちるんだよ!」

 わあっと颯太が叫んでいる間に、塊はまた浮いた。

 塊の目の前にいる倖奈は床にぺたりと座ったままで、手には萎れた芍薬が握られていた。

 色を失うくらいに引き結ばれていた唇が、びくっと震える。その瞬間、芍薬はするすると淡い赤の花びらを広げた。

「え?」

 その、開ききった艶やかな花を、彼女は魔物へと放った。

 塊は鼻先でそれを受け止めると、急に、ぼこんぼこん、と表面を揺らし始めた。

 するり、と芍薬は滑り落ちる。

「苦しんでいる、の? これ?」

「分からない……」

 本を取り落とし、ぼうっと見ていると。

 ぶるぶる震えながら塊が宙を滑り、窓の隙間をするりと通り抜けた。

――逃げられる!

 迷いはない。

 机から飛び降りて、走る。ばんっと窓を開き、雨の中に飛び出した。

 塊は芝生の庭を、ゆるゆると流れていく。

 それを追って、泥を跳ねあげて走る。横を櫂がついてくる。

「とりあえず、捕まえよう!」

「捕まえて、どうするんですか!」

「それから考える!」

 腕をめいっぱいに振って走って、あと一歩というところは跳んだ。

 ぐっと右手で塊の尻尾を掴む。

 どしゃっと塊と一緒に地面に飛び込む。口の中に土が紛れ込む。

 構わず、反対の手でも塊を握る。

「お、押さえて! 一緒に!」

 叫ぶと、櫂の両手も伸びてきた。



 *****



 颯太と櫂が飛び出していった窓が静かに揺れる。

 風が無いのか、雨粒が吹き込んでくることはない。ただ、さあさあという音と、二人の怒鳴り声が聞こえてくる。

 倖奈はその場にへたり込んだまま、はあっと息を漏らした。

「怖かった……」

 ゆるりと首を振って、それから、落ちていた芍薬に気づいた。

 颯太が投げた花瓶から落ちた一輪。萎れているそれに助けてもらおうと思ったのは、やはり己の力故なのか。

 両手でそっと拾い上げて、口元に寄せて、有難う、と口の中で呟いた後。

「本当に、魔物は花が苦手だな」

 後ろから声をかけられた。

 振り向くと、いつの間にやら濃紺の肋骨服の人が戻ってきている。

史琉しりゅう

 名を呼ぶと、彼は首を傾げた。

「覚えていてくれた?」

 同じように首を倒して、問うと。

「うん……? ああ」

 彼はふっと笑んだ。

「橋のところで会ったお嬢ちゃん、だよな」

「そう。倖奈です」

 もう一度名乗ると、彼は頷く。

 それから視線を窓に動かした。

「あいつらを追うか」

「窓から?」

「まさか」

 ばたん、と音を立てて窓が閉められる。

 くくっと笑った彼に手招かれ、右手に芍薬を握ったまま倖奈は立ち上がり、廊下に出た。

「優雅に回り道だよ」

 廊下を曲がっていった先、庭に出られる扉の前へ。傍に立てかけられていた洋傘を手に、史琉が先に外に出る。

「ほら、行くぞ」

 彼は右手で傘を差して、左手を差し出してきた。

 袴の裾をそっと上げて、倖奈も湿った芝生の上に踏み出した。

 二人傘に入り、庭を進む。

 向いた先の地面の上で、影を掴んで――そう、魔物を素手で掴んで、颯太と櫂が何事かを叫んでいる。

「上出来じゃないか」

 笑う史琉と歩調を合わせて、傍まで寄る。どこか焦った二つの視線に、彼はまた肩を揺らした。

「ほら。止めを刺せ」

 左手で、史琉が己の刀を放る。それを颯太が右手だけで受け取る。

「ぬ、抜いて、櫂!」

「え? 僕が抜くの?」

「はーやーくーー! 抜いて、さっさと刺しちゃってよ!」

「わ、分かった!」

 押さえる手が二人とも左手だけになった瞬間に、影がもぞりと動く。

「逃がすかよ!」

 叫び、颯太が体ごとのしかかる。

 わずかにはみ出た隙間に、櫂が刃を通す。

 そこから、影は薄くなり、緩やかに風に溶けて行った。

「や、やった……」

 ごろん、と地面に転がったまま、颯太が呟く。

「斃した……」

 どさっと櫂が尻餅をついた。

「合格だ」

 史琉がきっぱりと言う。

「ちゃんと魔物に立ち向かえるじゃないか」

「あ…… そういえばそうで」

「意気地なしじゃないってことさ」

 見上げると、口元の笑みも柔らかなもの。

「さて、戻るぞ。立ち上がれ。まず、刀を返してくれよ」

「あ、すみません!」

 颯太は跳ね起きる。そして、自分の右手から転がってしまっていた鞘を拾い上げた。

「泥だらけになっちゃった!」

 叫び、肋骨服の裾でごしごしと拭い始める。

「どこで拭いてるの、颯太!」

「だって、汚れてるの嫌じゃん!」

 前見頃を泥と枯草だらけにしてから、彼は立ち上がって、両手で軍刀を差し出す。

「気遣い、ありがとうな」

 左手で受け取って、彼はさらに笑みを深くした。

「今日はこれで、おまえたちの仕事はおしまいだ。風呂浴びて、美味いもの食ってこい」

「はい」

 ぽやっとした表情で、颯太が頷く。櫂もまた、肩で息をしながら立ち上がり、頭を下げた。

「ありがとうございます。戻ります」

「お疲れ様」

 ぱしゃん、と雨を跳ねて、二人が歩き出す。

「ああ、早くお風呂入りたい。汗まみれ泥だらけなのが辛い」

「え? 結構子どもの頃ってこれくらいならなかった?」

「いなかっぺの君と一緒にしないで」

「ヒドい……」

 そして、あ、と言って颯太だけ振り向く。

「またね、倖奈!」

 ぶんぶんと手を振られる。

「うん」

 こちらも手を振って応じる。二人が赤煉瓦の角を曲がっていった後。

「さて。俺はおまえを送っていくか」

 史琉が言う。

「どこに戻る? 図書室か、『かんなぎ』の寮か」

「……寮に戻るわ」

「分かった」

 頷いて、彼に軽く肩を押された。そのまま足を踏み出す。

 さあさあと雨が降っている。

 雫が傘を打つ音に紛れて。

「その花、もしかして」

 史琉の声が響いた。

「おまえが咲かせたのか?」

「そうよ」

 両手で芍薬を持ち直して頷くと、彼は首を振った。

「やっぱり、か。この目で一度見たからいいけど、なかなか信じがたいことだよな」

「何が?」

「花を咲かせる力を持った人がいるってことだよ」

 やや高めの声が続く。

「ついでに、魔物が花に怯えるのにも驚いた」

「魔物、怯えていたの?」

「だから、魔物は逃げて行ったんだろうと思うよ。おまけに、颯太と櫂で抑え込めるくらいに弱っていた」

 歩みを進めながら、彼はまだ喋る。

「すごい力だよな」

「でも、実戦で役に立たずって言われてるわ」

 しゅん、と視線が落ちる。

「本当に役立たずなのか?」

 合わせるように、彼もすっと視線を下げてきた。

「花を咲かせるだけで、おまえは十分なんじゃないのか?」

「……そうなの?」

 芍薬をぎゅっと握りしめる。彼はくくっと喉を鳴らした。

「花が咲いている場所って、魔物が近寄ってこないだろ?」

「それは、なんとなくだけど、分かるわ」

「北の鎮台に『かんなぎ』はほとんどいない。数少ないその人たちを死なせたくないと、前線になんか連れて行かなかった。ついでに、『かんなぎ』に頼らないで済む魔物対策もないかと、いろいろ試したんだよ。その中で一番効果があったのが花畑を作ることだったんでね」

 史琉は喋り続ける。

「冬の雪の間は最悪で…… 春が待ち遠しかったなぁ」

「春はたくさん花が咲くから?」

「ああ」

 もう一度首を振ると、彼は口元を緩めて。

 柔らかな視線でまっすぐに覗き込んでくる。

「おまえがいたら、一年中春になりそうだな」

「いくらなんでも、何もないところに咲かせたりはできないわ」

「それでも頼りにしそうだよ」


――頼りに、なる?


 ぱちぱち、と瞼を動かす。

「それなら、わたしは、何処でも花を咲かせ続ければいい?」

「どうだろうな」

 見上げると、また視線が合った。

 ぎゅっと両手を組む。その中で、芍薬がまた震える。

 ふっと史琉が唇を弧の形に変えた。

「話を変えるけど。おまえの服装、地味だな」

「え?」

 本当に唐突。目を丸くする。

「そう…… そうかしら?」

 ばくんばくん、と心臓が跳ねる。

「落ち着いた色の方が年上に見えるって言われて、こうしてたんだけど」

「別に婆臭くなる必要ないだろうに。まだ若いんだから、もっと明るい色にしてみたらどうだ?」

「そ、そう?」

「好みだっていうなら良いけどさ」

 史琉の声の調子は変わらない。それにますます焦る。

「もしかして、似合っていない…… のかしら」

「さてね。でも、今のおまえ、実際の年齢と服装がちぐはぐなんだよ。だから尚更、見た目で年齢が判断しづらくなっている気がするんだけどな」

「そ、そうなの?」

 何度も瞬く。彼はまた喉を鳴らす。

 もっと聞きたい、と思った時には、寮の目の前だった。

 玄関前には、ばらばらと人影。

「ああ、戻ってきたんだな」

 見れば、常盤も泰誠もいる。ずぶ濡れの二人もこちらを見てきた。

「おかえりなさい」

「ああ」

「倖奈もおかえり。……大尉殿。送っていただきまして、ありがとうございます」

 泰誠がひょこっと頭を下げる。

 押し黙った史琉に肩を押され、倖奈はゆっくりと玄関の庇の中に入った。

「ありがとう」

 振り向くと、彼は片手で差した傘をひょいっと上げて。すっと踵を返した。

「ずぶ濡れだ」

 隣で溜め息が聞こえ、見ると、常盤が髪を掻き上げていた。その先からぽたぽたと水滴が落ちる。濃い色の小袖もその端から雫を零している。

「濡れたねえ。いやあ、傘を持っていけばよかったな」

「そんなもの、あったら走れないじゃないか」

「じゃあ、菅笠と雨合羽」

「ダサい。被りたくない着たくない」

「ええ~? 実用性抜群じゃん」

 ぷぷっと息を漏らす泰誠を、じとっと見遣ってから、常盤が玄関の中に入っていく。

「また呆れられてしまった」

 あはは、と笑う泰誠もまた、被った帽子や小袖をぐっしょり濡らしている。

「倖奈は? 濡れなかった?」

「大丈夫」

 答えてから、はっとなった。

 髪が、湿気てはいる。袴の裾にも、泥はねが残っている。それはあくまでも、今日が雨だからだ。

――傘を差していてくれた。

 それも、倖奈が濡れないように。

 慌てて見回しても、勿論、背中はもう見えない。

 胸の奥が疼いた。

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